メラニーの災難
メラニーは、馬車の扉の前に置かれた踏み台の、最後の一段から地面へ足をつけることを躊躇して、喚き散らしている。
「嫌だわ。いつ雨が降ったの? 濡れてるじゃない。おろしたての靴が汚れてしまうわ。田舎者って本当に気が利かないのね。責任者を連れてきなさい」
なぜ近衛兵がメラニーに従っているのか。視察官はどこにいるのか。
メラニーに言われるがまま、近衛兵が大きな声で呼びかける。
「ここの責任者は名乗り出よ」
「ふん」と鼻を鳴らしてニクラスが一歩前に進み出た。
「あっしですが?」
「こちらに来い」
ニクラスはニヤリと笑うと言い放った。
「なんでオレがそんな嬢ちゃんのところに行かなきゃなんねえんだ。視察に来た役人じゃねえなら用がねえ。とっととお家に帰んな」
どっと周囲から笑い声が溢れる。「そうだそうだ」とヤジまで飛んだ。
近衛兵も黙ってはいない。剣に手をかけて威嚇する。
「このお方は王太子の命を受けて視察にいらっしゃったのだ。歯向かう者は反逆罪に処す!」
「ちっ」
近衛兵とニクラスのやり取りなどまるで興味のないメラニーは、目についた者に指示をした。
「そこのあなた。どうして地面を濡れたままにしているの。早く拭きなさい。それからカーペットでも敷いてちょうだい。私が降りられないでしょ」
ニクラスは近衛兵の脅しに屈することなく言い返した。
「降りたきゃ勝手に降りろ。嫌なら馬車に乗って帰んな! このわがまま娘が!」
やっと自分に対する侮辱だとわかったメラニーは、声を張り上げた。
「なんですって! だれに向かって口をきいているの! 私が王太子に報告すれば、ここの領主もただでは済まないわよ!」
「ちっくしょう」
ユリウスが処分されるとなると話は別だ。ニクラスは不承不承、要求を呑んだ。
「そこの板を並べてやれ」
「板ですって! そんなものの上を歩けるわけがないでしょう!」
「他にねえんだよ。よく見てみな。カーペットが欲しけりゃ買ってくるんだな」
「んまあ。なんですって!」
だが、見渡す限り何もないのは確かだった。近衛兵がメラニーに耳打ちをすると、「ふん。まあいいわ」と、板で我慢することを了承した。
並べられた板の上に降り立ったメラニーは、群衆の中にクラウディアを見つけ、目を丸くして声を上げた。
「あら嫌だ! まあっ! お義姉様! あらいけない。今はただのクラウディアだったわね」
近衛兵に指示して、クラウディアを馬車の近くまで連れてこさせた。
「よーく顔を見せてよ。まあ! ちょっと! 嫌だ。なあに? その格好は! あーはっはっ。嘘でしょう。それってドレスなの? 雑巾でも縫い合わせて作ったのかしら? ああ臭いわ。この腐ったような匂いは、あなたから匂うのね」
「なんだとっ? 黙って聞いてりゃ――」
気色ばむニクラスを振り返って、クラウディアは静かに言った。
「いいんです。どうか落ち着いてください。ユリウス様のために」
ニクラスは「うう」ともがいていたが、スザンナが肩をポンポンと叩くと、力が抜けたように大人しくなった。
メラニーは、ひとしきり声をたてて笑うと、皮肉っぽい目つきになった。
「ここの領主もよーくわかっているみたいね。ちゃんと罰を与えられているようで安心したわ。まあ、こうなることはわかっていたことだけど。あなたもそうでしょ。幸せになることなんかないんですものね! あっはっはっ。惨めね。でもものすごく似合っているわよ。それがあなたの真の姿なんじゃない?」
「私は――」
「何よ。言いたいことがあるんなら言いなさいよ。あなたのせいで私たち、まだパーティを自粛しているんだから! せっかく仕立てたドレスをお披露目出来ないなんて。三ヶ月よ! 三ヶ月も遊べないなんて!」
「ご、ごめんなさい」
「はあ? 『ごめんなさい』? 貴族に向かってなんていう口のきき方を! あなたはもう平民なのよ! 身の程をわきまえなさい!」
「も、申し訳……」
クラウディアが謝ろうとした時だった。
ピチャピチャと水が垂れるような音が聞こえて振り向くと、スザンナが魚の入った桶を持っていた。
「貴族様。視察にいらしたんですよね? では、どうぞ。好きなだけ見ていってください。ほうら。これがグラーツ領の主要な商品です」
そういうと、スザンナは桶の魚をメラニーの足元にぶちまけた。
「ぎゃあーっ!!」
慌てて足をどかしたせいでメラニーはよろめいてしまった。そして、本人の意思とは正反対に、魚がピチピチと跳ね回っている地面に倒れてしまった。
「いやあーっ!! きゃあーっ!!」
近衛兵に抱き起こされたメラニーの顔は、青くなったかと思うと、すぐに真っ赤に変わった。侍女が顔や手をハンカチで拭うがメラニーの興奮はおさまらない。
「よくも……。よくもこの私にこんな真似を! 許さない! 絶対に許さないわよ。どうせ全部クラウディアの差し金でしょ。そんな女の言うことを聞くなんて、馬鹿な田舎者たちね! 見てらっしゃい。後悔させてやるから!」
「よく聞こえませんが、もっと見たいとおっしゃってます?」
わざとらしいスザンナに応えるように、「へい!」と、大男たちが二人がかりで樽を持ってきて、勢いよく馬車の方へ向かってひっくり返した。
二つ目の桶からばら撒かれたのは、にゅるにゅると足をくねらすタコだった。
「ひゃあーっ!!」
メラニーは恐怖のあまり淑女の嗜みを忘れて、ドレスの裾を持ち上げると馬車に駆け込んだ。
来た時とは反対に、ものすごいスピードで駆け出す馬車を、近衛兵が慌てて追いかけて行く。
「おととい来やがれ!」
「二度と来んな!」
馬車が見えなくなっても、「あれが本物の白豚か」と、非難がしばらく止まらなかった。
罵声が飛び交う中、クラウディアはスザンナに腕を掴まれて隅に連れて行かれた。
「アンタ。あのまま謝るつもりだったろ。あそこまで言われて腹が立たないのかい? どうかしてるよ。アタシはめちゃくちゃ腹が立ったよ。なんで言い返さないんだ?」
(なんで? だって私は――)
「本当のことなんです。私は――幸せにはなれないんです」
「はーん? なんだそれ? しっかりしろよ。ったく。もう。とりあえず今日はもう帰って休みな」




