初めて見る海
それなりの格好をしているとはいえ、豪奢な馬車に乗せられユリウスの正面に座らされると、クラウディアは身の置き場がなくて落ち着かなかった。
顔を上げるとユリウスと目が合いそうで、馬車に乗り込んでから一度も顔を上げていない。
クラウディアの運命は、目の前の男に握られているのだ。どうしたって自然と体がこわばってしまう。
ユリウスに、「顔を上げろ」と叱責されるかと思ったが、何も言われないので、ずっとうつむいたまま膝の上の握りしめた手を見ていた。
窓の外の景色が流れていくスピードは早いのに、不思議と馬車はほとんど揺れなかった。
一度だけ、隣に座っているアントンの様子を窺ったが、なぜか一人だけ上機嫌でくつろいでいた。
ユリウスが口を開かないので、誰も何も言わないまま時間だけが過ぎていく。
しばらくすると、アントンが何かに気づいたようで少し窓を開けた。
すると、初めてグラーツ領に来た日に嗅いだ、あの匂いが馬車の中に入ってきた。
「これって……」
クラウディアは思わず顔を上げて、窓の近くに寄った。
「海の、潮の匂いです。さすがに屋敷までは届きませんがね。慣れると気持ちがいいものですよ。クラウディア様にも好きになっていただけたら嬉しいです」
アントンが微笑むので、自然とクラウディアも微笑み返していた。
ユリウスを盗み見ると、むっつりと押し黙っている。
(ああ私ったら。何か気の利いたことを言わなければ。どうしよう)
不機嫌そうなユリウスに、なんと声をかけるべきなのか。クラウディアは考えても答えがわからず、またうつむいてしまった。
「そろそろ着きますよ」
アントンの言葉が合図のように、また新しい匂いがしてきた。
今度の匂いは少し不快に感じる。
窓を閉めなくても大丈夫なのかとアントンに尋ねようとしたが、ユリウスもアントンも顔色ひとつ変えず、外を眺めている。
クラウディアは我慢ができず鼻にハンカチを押し当てた。
「あ、あの。これは何の匂いですか? 大丈夫なんでしょうか?」
アントンが答える前にユリウスがぶっきらぼうに言った。
「魚を知らないのか?」
クラウディアは魚を知っていたし、食べたこともあるけれど、その匂いとは異なる……。
でも、そう答えるのは憚られた。
ユリウスはその話題を続ける気はなさそうに足を組み替えて、窓の外を見ている。
風に揺れる銀髪に青い瞳。
クラウディアはユリウスの横顔から目が離せなかった。
(なんて美しい方。いつも厳しいお顔をされているけれど、よく見れば相当な美人さんだわ。溶けない氷像か……。ユリウス様の像なら、美術品としての価値が出てきそうだわ)
これまでは、ただただ恐ろしくて、ろくにユリウスの顔を見ていなかったのだ。
「ふふふ。王都から出たことのない方は、生魚を見る機会がありませんからね。当然、ご存知ないはずですよ」
(え? え? 生魚って……?)
蒸し返すアントンを見もせずに、ユリウスは、「ふん」と腕を組むと、正面のクラウディアを見据えた。
「……う」
その視線を受け止めることなどできず、クラウディアは思いっきり頭を下げてしまった。
「ふふふ。クラウディア様。もうすぐ着きますよ。どうぞご自分の目でお確かめください」
馬車は、賑やかな声が飛び交う中を進み、一際大きな建物の前で止まった。
それは不思議な建物で、大きな屋根と太い柱はあるのに壁がなかった。
「さあ。クラウディア様。まずはここからです」
ユリウスとアントンに続き馬車を降りたクラウディアは、やはり匂いが気になった。
――が、二人がそのままなのに、彼女だけがハンカチで鼻を覆うのはためらわれた。
(我慢よ。我慢。きっとこれも含めて過酷な労働と言われているんだわ)
建物の中は、いくつかの区画に区切られており、たくさんの桶が並んでいた。
そのどれからも音がしている。
水が張られた桶の中で何かが暴れているようで、ピチャピチャと音を立てていた。時折顔をのぞかせるそれは、跳ねて桶から水をこぼしている。
よく見れば、床全体が濡れていた。
「どうです? 全部、とれたての新鮮な魚ですよ。生きている魚なんて王都では見られないでしょう」
「生きている魚――ですか?」
「ええそうです。これが匂いの正体です。ふふふ。面白いでしょう? 王都へは塩漬けにしたものしか出荷していませんからね。本来、魚は生きているものを調理して食べるんですよ。クラウディア様も召し上がったでしょう? いかがでした?」
そんなものを食べた記憶がなかった。
クラウディアが怪訝な顔をしたので、アントンがヒントを出した。
「スープの中に白い色の塊が入っていたでしょう? お肉よりも柔らかいのに弾力があって――」
「あ!」
すぐに思い当たった。グラーツ領で採れる珍しい食材だと思っていたものだ。
「そう。それです! 美味しかったでしょう?」
「あれが、この、ここにあるアレだったのですか?」
アントンは、おっかなびっくり指さすクラウディアがおかしいらしく、思いっきり笑った。
「あっはっはっ。ああ、すみません。失礼しました。ええ。そうです。アレですよ。そのうち、あの姿のまま焼いたものも食べる機会があるでしょう。あ、なんなら今夜召し上がりますか? 料理長に言っておきますよ」
「あ、あの。いいえ。私は皆さんと同じでいいので」
「そうですか? まあ、そうおっしゃるなら」
二人の会話を遮るように、ピシャっと水飛沫をあげて魚が床に飛び出した。
「きゃっ。え? え?」
真っ黒に日焼けした男性が、作業の手を止めて魚を拾った。
場違いなクラウディアをちらっと見て謝罪した。
「すんません! それよりアントンの旦那。ユリウス様なら、とっくに港の方へ行かれやしたよ。こんなところで油を売ってていいんですかい?」
「ああ。まあ子どもじゃないので大丈夫ですよ。それに、今日はこちらのお嬢さんに港を紹介しに来たのでね」
「へえ」
見知らぬ男性からの――それも熊のような大男からの不躾な視線はクラウディアを萎縮させた。
「こらこら。怖がっているじゃないですか」
「あっ。すいやせん」
そのやりとりを見たクラウディアは、思わず「ふふっ」と笑ってしまった。
「あの。なんというか。ここで働かれている皆さんは、貴族に対しても、まるで使用人同士のような気やすさなのですね」
「ええ。先代の領主様がお許しになっていたので」
「なるほど。ユリウス様はこういう環境でお育ちになられたので、特におかしいとは思われないのですね」
「――ええ、まあ」
(あら? 今、少し間が空いたような……)
「クラウディア様は、王朝の歴史や貴族の系譜などのお勉強はどの程度されたのですか?」
アントンは港の方へ視線を移して、急に話題を変えた。
「それがその。ほとんどしておりません。お恥ずかしい限りです。学園に入学する前に集中して勉強することになっていたのですが、結局その機会のないままでして」
「ああ、そうでしたか。変なことをお聞きしてすみません。ささ。このままここを通り抜けると絶景が待っていますよ」
アントンの言う通りだった。建物を通り抜けると、突然、視界が開けた。
目の前には、ただただ青一色の世界が広がっていた。
緑一色の草原の何倍もありそうな、どこまでも続いている青色。
陸地の端には、大小の船が並んでいる。
中には、本の挿し絵でしか見たことのなかった大きな商船も係留されていた。
クラウディアとアントンの姿を見つけて、ユリウスが声をかけた。
「やっと来たのか。何をしていたんだ。それよりどうだ? 大きいだろう? この青いのが海だ」
それだけ言って遥か彼方を眺めている。
クラウディアは、ユリウスのとても穏やかな表情にも驚いたが、それにも増して、どこまでも広がる青い世界に魅了された。
「これが、海……」
建物の中に充満していた生臭さは消え、目の前の青色にとても似合う香りがクラウディアを包んでいた。




