21 帰還……ではなく
明くる朝、午前九時。
すでにほとんどの人が活動し、仕事を持つ者は職場へと出かけ、斑鳩の里の静かな夏の一日が始まっていた。あいかわらずのセミの大合唱が暑さに輪をかけていた。
その朝、麦沢家では両親が仕事に出てしまったため、秀電、灯雅の兄弟、それにエミルがその瞬間を待っていた。
来る、とわかっている大地震を待つのはあまり気分のいいものではなかった。予想震度が5弱であるというのも、あくまで計算値であり、実際にそうなるかどうかは起きてみないことにはわからない。直下型地震のため、スマホの地震警報は間に合わないだろう。
テレビもつけずネットにも接続せずに、ただリビングの壁の時計を見つめて、その時刻を待った。倒れてきそうな家具は固定し、中味が飛び出してきそうな棚は保護具を施した。震度5弱ならそこまで厳重にしなくてもよさそうなものだが、念のためである。
じりじりとした時間がすぎ、やがてその瞬間を迎えた。
午前九時四分。
どん、という床から突き上げるような衝撃のあと、激しい横揺れ。スマホが警報を鳴らす。ミシミシと家が軋む。
やがて、揺れが止まった。リビングは地震が起こる前となにも変わらず、何事もなかったかのように静まり返っている。
時間にして十数秒ほどの地震であったが、ひどく長く感じられた。
「外へ出てみよう」
秀電が二人に呼びかける。
うん、とうなずく灯雅。屋根瓦が落ちていないか確認するためだ。
エミルとともに外へ出て確かめた。
ざっと見回すが、どこにも異常はなかった。
「じゃ、行くか──」
秀電は自転車を引っ張り出す。行き先は法隆寺である。法隆寺が地震でどうなっているか確認するのと、レイヤと合流するためだった。
それはつまり、エミルとの別れを意味していた。そういう約束だった。
すると、そこへ一台の自転車が走りこんできた。
麦沢祖父だった。どうやら地震の被害を心配して駆けつけてきたのだろう。
「おお、だいじょうぶだったか?」
外に出ていた秀電と灯雅に向かって言ってから、いっしょにいるエミルに目が留まり、
「おや、この子はたしかこないだも……」
「ああ、そうなんだ、友だちも心配して来てくれたんだ」
秀電がとっさにごまかした。
「そうか、秀電のガールフレンドだったかな」
状況からそう判断されても仕方なかったから、あえて反論しない秀電だった。好きに解釈してくれ、と。
「あの程度の地震なら、どうってことないよ」
灯雅がこの場を収めようとする。早く法隆寺に行きたかったから、だいじょうぶだと力いっぱい主張した。
「ああ、そうか……」
「おじいちゃんこそ、だいじょうぶだったの?」
「わしのところは平気だったよ」
「築年数がうちより古いおじいちゃんの家が平気なら、ここに被害があるわけないよ」
「うむ、それもそうか……」
「じゃ、友だちの家が心配だから、行くね」
法隆寺が気になる、と言っても現実感がなかったから、そう言った。
「いくよ、にいちゃん」
「おう」
二人して自転車を発進させる。
ペコリとおじぎしたエミルが二人を追うのを、祖父は、なんかへんだな、とほんの少し思いながらも見送った。
二台の自転車で法隆寺に向かった。灯雅のミニベロと秀電のシティサイクル。エミルは徒歩だが充電たっぷりだから自転車と併走するなどわけもなかった。ロボットだから疲れ知らずだ。
途中、町並みを見ても、どこも目立った破損は見受けられない。植木鉢が落ちて割れていたり、自転車やオートバイが倒れていたりするぐらい。外壁にひびが入っているのは見るからに古い建物で、今朝の地震で入ったひびかどうか怪しいところである。
道路を走るクルマも平常どおり。どこにも事故は起きていなかった。
国道25号線を渡り、法隆寺正面の松並木に着いた。巨木となった松の上からセミが賑やかに鳴いている。
まだ観光客の団体がやってくるには早く、土産物屋も開いたばかり。観光客がちらりほらりといる程度だ。さきほどの地震による被害はないようで、通常時どおり営業している様子である。
石畳を通った突き当たりの国宝・南大門は無事に建っていた。開いている門の向こうに見える中門、その向こうの五重塔は健在である。地震の影響はまったくない。
「大成功だな」
南大門に向かって左手にあるスペースに自転車を駐め、秀電はエミルに言う。
「うん、なにもかもうまくいってる」
エミルはこたえた。
高さ三十メートルの五重塔も堂々とそびえていた。震度5弱にも耐えた古の技術力に敬意を評したい。
「我々の勝利だよ」
その声とともに南大門から出てきたのは鉄村である。門への数段の石の階段を駆け下りて、
「それもこれも、きみらの協力があってこそだ。ありがとう」
丁寧に言われて、エミルは微笑む。
「わたしもうれしいです」
「さっき確認してきたが、どこにも被害はなかった。完璧だ」
そう言った鉄村の後から、レイヤがのっそりと現れた。
エミルがそれに気づく。
「あ、レイヤ」
駆け寄り、笑顔で手を握る。勝利の握手だ。
「やったよ。わたしたち、法隆寺を守った!」
「そうだな……」
当初の計画ではなく不本意ではあったが、結果がよかったのを認めないわけにはいかない。
上空からヘリコプターのエンジン音が降ってきた。報道局かそれとも消防署だろうか、地震の被害がないか確かめにきたのだろう。ぐるぐると旋回している。NHKの中継車が松並木道をやってきて、近くの駐車場へと入るのが見えた。騒々しくなりそうだった。そろそろ潮時だろう。
「おれたちの役目は終わった。エミル、次の目的地へ行くぞ」
「うん、そうね」
エミルは当然のようにうなずく。
「次ってなんだよ?」
灯雅は聞き逃さなかった。てっきり未来に帰るものだと思い込んでいた。
「未来には帰れないの」
エミルは驚愕の事実をあっさりと言い放った。
「そういうことなんだ」
と、後をレイヤが受けた。
「未来から来たのが、人間ではなくおれたちのようなロボットなのは、時間移動の技術がまだ不完全であるためというのもある。今回、エミルがイレギュラーを起こしてしまったし。だがそれよりも根本的なのは時間移動は過去への一方通行だということなんだ。未来に帰りたくない人間ならともかく、普通はそうは思わない」
「そうだったのか……」
「で、次の目的地、というか、時代はどこなんだ?」
感心する灯雅の横で、秀電が好奇心を抑えきれず聞いた。
「それは秘密なのか?」
「そうだな──」
レイヤは口ごもったが、ひとつうなずくと、
「もうここまで知られた以上、秘密にしてもしかたない。おれたちは昭和二十四年に行く。つまり、法隆寺金堂の火災があったときだ」
「え? ということは、あの火事を防ごうというのか?」
「そうだ。そのための準備もしてきている」
「歴史が変わるな……」
秀電はその言葉を舌の上で吟味するかのようにつぶやく。重大なことに関わっている、という感覚がリアルに感じられない。
「変わると、どうなるんだよ?」
灯雅が少し不安げに兄に聞いた。タイムパラドックスについては、もちろん知っていた。だが、あくまで理屈の上での話であって、実際にはどうなるかは知らない。
「影響はないさ」
レイヤは力強く言いきった。
「おれたちがこの時代に来れているのがその証拠さ。時間と空間、この宇宙は、けっこう柔軟にできているもんなんだ。なんの心配もない」
本当にそうなのかどうか確かめるすべはなく、聞いているほうは互いに当惑ぎみの顔を見合わせるほかなかった。
「そろそろ行こうよ、レイヤ」
エミルがレイヤを促す。未練の欠片も見せない。その点が、やはりロボットなのだろう。
「名残惜しいな……」
灯雅はつぶやく。もう二度と会えないと想うと、自然、涙がこぼれ出た。手で拭いもせず、頬をつたった。
「いろいろとありがとう。楽しかったよ」
対照的に、エミルの口調は極めてドライだ。ロボットに惜別の感情はない。時間移動が可能な未来なら、そんな機能は実現可能だろうが、エミルを製作した技術者はそこまで凝らなかったらしい。
「さようなら、灯雅、秀電。それから、パパさんとママさんにもよろしくね。──あれ、どうしたのかな?」
エミルの両目から涙があふれていた。その意味が自分でわからない。だが、
「灯雅と同じだね」
と言った。
言葉で返事ができず、灯雅はうなずくしかなかった。
エミルはふいに灯雅を抱きしめた。
予想していなかった灯雅だったが、自然と受け入れた。ロボットとは思えない温かい体だった。
ほんの数秒。体を放し、
「もう、行くね……」
頭上の空間に黒い渦が回転していた。
レイヤがその真下に移動する。その隣でエミルが手を振る。
二人の体がすっと宙に浮いた。五十センチほど浮き上がると、まるで渦に向かって跳躍しようとする獣のようにいったん停止し、直後、すごい速さで渦に吸い込まれていった。
そして、もう役目は終わったとばかりに、渦も消滅した。まるで最初からなにもなかったかのように痕跡すらない。あっけなく、愛想のない別れであった。
「行っちゃったな……」
秀電が、確認するかのようにつぶやく。
「にいちゃん……」
灯雅はやっと手の甲で涙を拭った。
「おれたちも帰ろう」
「我々も撤収だ。ご協力、感謝する」
麦沢兄弟に礼を言う鉄村にうなずき返し、二人は乗ってきた自転車にまたがる。
が、ペダルをこいで、門前の石畳を走り出そうとして、足が止まった。
字川玲花がそこにいた。赤い自転車にまたがって、ちょうどいま来たばかりといった感じである。
「麦沢くん……」
秀電は苦笑し、
「先に帰ってるぜ」
ボン、灯雅の肩を叩くと、ひとりで行ってしまう。
取り残されて、しばしの沈黙する灯雅。
「いつからいたの?」
泣いていたから決まりが悪い。見られてなかったかな、と思う。
「エミルは、帰っちゃったんだね?」
「あ、うん……」
本当は未来に帰ってしまったわけではないが、灯雅はそうこたえた。
「寂しい?」
「いや」
反射的に否定してしまうのが男子中学生であった。素直に肯定できないプライドがあった。
「そ」
字川は自転車を降り、スタンドを立てかけて歩み寄った。
「麦沢くんには、わたしがいるしね」
元気づけようとしているようにも見えるが、あからさまだった。しかしそれで一気に気分が変わった。
(字川の存在は、ありがたいと思うべきなのかな)
そう思った。エミルの存在が大きすぎて、字川の気持ちに応える余裕がなかった。そこまで器用ではなかったから。
「地震、だいじょうぶだった?」
思い出したように訊く。
「うん、なんともなかったよ」
「そっか。それならよかった……」
もしなんらかの被害があっても、字川は灯雅のもとに駆けつけていたかもしれないが。
話が続かず、なんとなく気まずく感じていると、
「行こうか?」
と聞いてくる字川。
「どこへ?」
まだ午前中。法隆寺の門前は地震騒ぎもなく、いつもの賑わいを見せ始めていたが、ほかの場所はまだ営業を始めていない時間だ。
「どこでもいいじゃない」
字川の笑顔が陽に照らされて、より明るく見えた。
──場所なんかどこでもいい。大事なのはそこじゃない、時間だ。
しかし灯雅はそれに気づかない。
「どこでもって……」
戸惑う。
「いいの、どこでも」
ペダルに足をかけて、字川は力強く言った。
クマゼミの声が激しい。夏休みはまだ始まったばかりなのだ。二人には時間がありあまっていた。それをどう使うかで夏休みの思い出は大きく変わってくるだろう。その分岐点に、二人は立っているのを知る。
「よし、とりあえず、どっかに行こう」
灯雅は努めてすっきりした声でこたえ、ペダルをこぎだす。
NHKの取材クルーの一団が二人のわきを通り過ぎ、法隆寺・南大門へと入っていった。
この日記録された最大震度は5弱で、時間は十四秒ほどであった。その後も震度4程度の余震が何度か発生したが、法隆寺を始め、町内全体に目立った被害は出なかった。屋根瓦が落ちたり、古いボロ空き家が倒壊するぐらいで、怪我人もほんの数人に留まった。電気や水道などのインフラも供給が止まることはなかった。阪神大震災のときとさほど変わらない揺れだったな、と過去それを経験した斑鳩の里の人たちはそう回想した。




