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12 迫る危機とエミルの使命

 ブリン、という名前だった。

 字川玲花が物心ついたときにはすでに家にいたメスの黒猫だ。玲花の最初の記憶は、ベビーベッドの柵の間からこちらを見ている猫の顔だったかもしれない。

 幼稚園、小学校と、ブリンとともに大きくなった玲花は、うれしいときも悲しいときもいつもいっしょだった。膝に抱いて話しかけているとジッと聞いてくれて、だから彼女は安心してどんなことでも、友人にも両親にも話せない秘密のことも話せた。なにも答えてはくれずとも、ブリンが気持ちを共感してくれているのは伝わってきた。

 中学校に上がったときには、もうブリンも歳をとっておばあちゃん猫となっていたが、玲花にとっては相変わらず良きパートナーだった。

 そんなとき、ブリンが死んだ。交通事故だった。道路の傍らで死んでいたのを母が見つけた。

 家に運ばれたブリンの亡骸を前に泣き暮らした。あまりのショックで学校を休んでしまったほど。

 それから半年がすぎ、中学二年にあがったある日、玲花はクルマに轢かれて、道路脇にまるでゴミのように転がる猫の死体を見た。

 交通量の多い25号線で、猫の死体を気にする人はだれもいなかった。玲花自身、車道の向こう側から見ているしかなかった。

 そこへやってきたのが麦沢灯雅だった。

 小学校はべつべつだったし、中学二年に上がって初めて同じクラスになったため、顔を覚えたのも最近だった。親しいわけでもなかったから声をかけづらかった。

 灯雅は自転車の前カゴに新聞紙に包んだ猫の死体を入れると、去っていく。

 玲花は自転車で追いかけた。

 竜田川の川岸に整備された公園に来た。

 植え込みの脇にスコップで穴を掘っている灯雅を遠くから見ていた。

 ほどなくして灯雅は去っていった。それから玲花がそこへ行ってみると、猫のお墓ができていた。木の板が盛り上がった土の上につき立てられていて、煮干しが供えられていた。

 そんなことがあってから、普段、他の男子とつるんでふざけ合っているところしか見せなかった灯雅のことを、玲花はその他の男子たちとは違う目で見るようになった。

 灯雅なら自分と気持ちを理解しあえるんじゃないか──そう思い、そしてその一方的な気持ちはだんだんと強くなっていった。

 だからやっと少しずつ話をし始められた灯雅と顔を合わせられない夏休みは、玲花にとっては不要な期間だった。

 ──灯雅と会えないなら、会いにいけばいい。同じ町内だし、スマホの番号も知っているし、メッセージのやり取りもやっていた。

 単純な思考で、それがすぐに行動に出た。

 ところが、エミルという存在が玲花にあせりをもたらした。

 灯雅の気持ちがエミルのほうを向いている──。

 エミルがただの女の子であってもそうだが、それ以上にロボットだということが、玲花の思いを複雑にした。

 相手はロボットだし灯雅に対してなにかできるわけじゃない、でも灯雅は女の子ロボットのいろんな能力に魅力を感じて、でもいくら可愛くてもロボットなんだから、いやいやエミルは普通のロボットじゃない……と、考えれば考えるほど情緒不安定になり、いても立ってもいられなくなった。

 エミルがどこから来たのかわからないのも玲花を不安にさせた。エミルの背後に大きな力を持つ何者かがいて、それが灯雅に危害を与えやしないかと──。

 いつまでものほほんと過ごせる日常が続くようには思えなかった。非日常への振り戻しがあるだろう、ドラえもんのようなローカルな騒動にはならないと、嫌な予感がして身が震えた。

 かといって、具体的な危険はまだなにもなく、漠然とした不安だけが先行しているだけでは、灯雅になにも伝えられず歯がゆい。とはいえ、それになにかがわかったとして、どんな行動が起こせるだろう?

 玲花はだから、なるべく灯雅といっしょにいよう、と決めた。なにかあってからなにも知らなかった、なんてならないために──。



 食事が遅くなった。用意をしている時間がなく、やむなくピデリバリーピザでもとることに。

 家族総出でなんとかリビングを片づけると、配達されてきたピザをみんなで囲んだ。義父さんもピザを食べて帰ったら、という母に、祖父は、「いや、かあさんが待ってるからな」と、帰ってしまった。

「とんだ一日だったな」

 父は陽気に言った。空き巣に入られたことなど、なんでもないかのように。秀電の「この空き巣事件は、エミルとなにか関係があるのではないか」という心配を払拭したい、という気持ちが見えて。

 だがいくら表面で否定しても、もし現実ただの空き巣ではなかったら──と思うと秀電は心が晴れず笑顔がない。

「考えすぎだよ」

 灯雅が黙る兄に声をかけた。

 しかし犯人はまだ逮捕されていないわけであるし、エミルと関係ないと完全否定できるほどの確信が持てないしで、心のどこかで「もしかしたら」という気がしてしまう秀電だった。

 当のエミルは、さほど深刻そうな顔をしていない。もそもそとピザを口に押し込んでいる。

 依然として記憶は戻っていない。ロボットのメモリから失われてしまっているのなら永久に記憶が復活することはあり得ないが、エミルの自己修復機能がどこまで信用できるのかまるっきり不明な状況では空き巣との関連も探れない。

「このピザ、おいしいです」

 愛想ではなく、本当にそう思っているようだ。

「それはよかったな」

 と、父は笑う。

「気に入ったなら、もっとお食べ」

「未来には、デリバリーピザなんか、ないの?」

 灯雅が純粋に興味本位で尋ねた。

「それも禁則事項に引っ掛かって、言えないとか」

 冗談半分で父親が言うと、エミルは、ううん、と首を振る。

「未来でもピザはあるけど、わたしは食べたことがないの」

「っていうか、エミルはどんな食べ物が好きなの?」

 ピザをかじる灯雅はのびたチーズが紙箱に落ちてしまうのをくい止められない。

「とくにこれっていうのはないの。味がついていたらおいしく感じられるけど、電気エネルギーになる有機物なら味がなくてもなんでも食べられるよ」

「へええ」

 と、家族全員が相づち。

「料理が失敗しても食べてくれるから、いいわね」

 母のセリフは実感がしみじみ出ていた。料理が苦手で、ときどきとんでもない味のメニューに、息子たちから不評を買っていたから。

 灯雅はといえば、そのへんの飛び回る鳥を捕まえてむさぼる野生の獣のようなエミルを想像し、対して秀電は生ゴミを荒らすカラスのようなエミルを想像したが、食事中ゆえ二人とも黙っている。

「まぁ、プロの板前じゃないんだから、毎回料理をうまく作れっていうのも、無理な話だしな」

 父は母のフォローを忘れない。

「食べ物を食べなくても、太陽電池で充電はできるんだけど、一日の活動時間を確保するには一日かかっちゃうから、別途プラグ充電や有機物で補う機能が内蔵されているの」

 エミルは三角形にカットされたピザを巻き寿司のように巻いて、いっぺんに口に入れるという、大胆な食べ方。イオンモールのフードコートでも見せた豪快な食べっぷりにつられて、つい兄弟も食べるペースが速くなる。Lサイズ四枚のピザが、余ってしまうどころか、きれいに完食できそうだった。

「といっても、未来で食べることができるのは──」

 エミルは突然黙る、というか静止した。三秒ほどしてから、

「ごめんなさい、ここから先は言えないわ」

 どうやら「禁則事項」というものにひっかかったらしい。

「もうそろそろ、そうくると思ってたよ」

 イスからずり落ちそうな素振りで、灯雅。

「わたしもしゃべりたいんだけど、しゃべろうとすると、喉のへんにブレーキがかかったようになるのよ」

 エミルはチリソースピザを、辛さも平気で咀嚼する。空き巣のことなど、本当に気になっていない様子がうかがえた。

 エミルが気にしていないのなら……と麦沢一家はその話題には触れず、ごまかすように決着する。

 しかし、やはり、無関係ではなかった。



 その夜、壊された玄関のカギを急遽新しく取り付け、窓なんかも念入りに戸締まりを確認したということもあって、なにかが起こるとはだれも思っていなかった。

 ところが──。

 午前二時。深夜まで起きていた秀電、灯雅の兄弟も、さすがにこの時間は眠っていた。とくに秀電は明日もクラブ活動がある、睡眠はしっかりとらないと怪我につながる。

 同部屋の灯雅も、兄が眠っているのに一人起きているわけにもいかず、早々に布団に潜っていた。

 おやすみ運転のエアコンの風がかすかに部屋を冷やす。

 エミルはクローゼットのなかで、こちらもスリープモード。食べたピザが体内で電気エネルギーに分解され、せっせとバッテリーを充電している。もうブレーカーの落ちる心配はない。

 不意にエミルのまぶたが開いた。クローゼットをあけると、しっかりした足取りで一歩ずつ歩いて、ベランダに出られるサッシを開けた。ムッとする熱帯夜の熱い空気のなかを進むと、ためらいもなく手すりを乗り越えた。

 空中に身を踊らせるが、屋根から落ちたときのように不様に地面に衝突したりはしない。さっと空中で身をひるがえし、体操選手のようにきれいに着地した。

 家の前にトヨタ・ハイエースが停まっていた。そして、三人の人影。いずれも黒い服を身にまとっていて、夜の闇にまぎれてしまいそう。お互い一言もしゃべらないから、いるかいないかわからなくなる。

 エミルがハイエースに近づく。無表情に。そして、開け放ったスライドドアからクルマの中に乗り込んだ。

 エミルがシートにつくのを確認して、黒ずくめの一人もあとから乗り込み、ドアを閉める。あとの二人は運転席と助手席に収まった。

 すぐにエンジンがかけられ、ハイエースはさっと走り出す。

 国道25号線の法隆寺東交差点を南に曲がり、県道109号線を進んで大和川をわたってすぐの法隆寺インターから西名阪自動車道の東行き車線に入った。

 車内は無言だった。黒ずくめの男たちはもちろんだが、エミルも口を開かなかった。目は開いているが、どこか焦点が合わず、意識があるようには見えない。

 ハイエースは天理料金所をすぎ、名阪国道の上り坂にさしかかる。深夜のためか交通量は少ない。ベッドライトがカーブの重なる道路を照らす。時速は80キロをキープ。

 福住、一本松、針をすぎ、三重県との県境にさしかかったときだった。

 突然、車体が不自然に揺れ出した。右に左に振れて、まるで嵐の中の船のよう。

「まずい」

 ハンドルをとられ、運転していた男はさすがに声を上げた。なにが起こっているのかわかっているようだった。ほかの二人にも緊張が走った。

 このままでは横転してしまうと、ブレーキを踏む。が、間に合わない。

 ハイエースは紙でできているかのように軽々と浮き上がり、道路横の林の中に突っ込んでいった。

 木々が折れ、枝が窓ガラスを突き破った。エアバッグが瞬間的に作動して運転席と助手席の二人を保護するが、シートベルトをしていなかったエミルは車内を跳ね回った末にガラスの割れた窓から飛び出してしまった。

 木と木の間に挟まるようにしてワゴン車が止まる。

 しばらくうめき声をあげていた助手席の男は、運転席の男がぐったりしているのを見ると、生死を確かめることなくドアをあけ、車外に転がり出た。

 人の踏み込むことのない林の中は、堆積した腐葉土が地面を覆い、歩こうとすると足首までめり込んだ。ヘッドライトが照らす範囲以外は星明かりも届かない濃密な闇に、ジジジジと虫の音が満ちている。

 懐から引き抜いた男の手には拳銃が握られていた。右手はグリップを握り、左手はグリップの底を包み込むようにして。扱い慣れた動作だ。

 周囲に視線を走らせるが、この暗さでは目が慣れてもそれほど見えない。しかも木々が視界をさえぎって、すぐ近くにだれかがいても気がつかないだろう。クルマから投げ出されたエミルがどこかに倒れているはずだが、位置がまったくわからない。

 男は耳をすます。腐葉土を踏む足音を頼りに応戦するつもりなのだ。走行中のクルマを空中に浮かび上がらせた存在がどんかものか見当がついているようで、油断なく周囲を探っている。

 突然、男の体が弾け飛んだ。まるで見えない巨人の手で振り払われたかのように。

 太い杉の幹に激突。頭を強打し、声を上げる間もなく意識を失う。拳銃も役に立たなかった。

 静寂。ヘッドライトだけが煌々と、開き直っているかのように明るい。

 そこに、どこからともなく新たな人影がひとつ現れた。ハイエースの上から垂直にスッと下りてきた。

 腐葉土と下生えを踏む音が、静かな林にガサリといやに大きく響いた。地面に降り立つと、足下に両手を伸ばす。引っ張り上げられたのはエミルである。

「さ、立ってくれ」

 男の声が呼びかけると、エミルは夢から醒めたように、うなだれていた頭を起こす。それから体を支えてくれている声の主を暗闇で見すかそうとした。

「この時代の政府関係者に捕まるところだったぞ」

「アナタハ、ダレ?」

 たどたどしく、エミルは言った。意識が混濁しているようだった。

「やれやれ、ハッキングされちまって……。もうあまり時間がないんだ。おれたちにやらなくちゃならないことがあるってのは覚えてるかい? 法隆寺に戻るぞ。こんなところに長居は無用だ」

 そう言うと、歩けるか、とエミルに訊く。エミルがうなずくと、手を引っ張って歩き出す。

 すぐに林を抜けた。

 名阪国道にクルマが走り抜けてゆく。

「事故はまだ通報されていないようだ。だがもたもたしてはいられない。面倒なことになる前にズラかろう」

 空が白み始めてきていた。

 ぼんやりとしたかすかな明るさの中で、エミルはその顔を見返した。若い男の顔だった。

「あ……レイヤ……?」

 その名が口をついて出た。

 青年は微笑を返した。

「思い出したか? けれども自己修復機能がちゃんと作動していないようだな。調整しないと」

「…………」

 エミルは首をかしげる。まだ状況が理解できていなかった。

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