第一章「パンケーキと紅茶とスミレ」
おばあさまが亡くなった。おばあさまが何歳だったのか、正直、私にはわからない。何百年も生きていたと噂する人もいる。
ともあれ、おばあさまの遺した魔法の家は、弟子の私が受け継ぐことになった。
魔法の家は時々気まぐれに別の土地に移動する。今朝は王国のはじっこの森の中にいた。窓からとげとげした木々が見える。
(フィー! いい加減に起きな!)
ベッドでまどろんでいた私は、ばっと飛び起きた。おばあさまに叱られる、と思ったけれど、そうだ、もうおばあさまはここにはいないんだ。またぱたりとベッドに倒れ込む。
魔法使いの考え方は少し変わっている。死ぬことを終わりとはとらえない。おばあさまもそうだった。自分の亡くなる時期を悟ると、身のまわりをテキパキ片付けて、
「また会えたら、あの世か、この世か、どこかでね。フィー、元気でおやり。この家と猫たちをよろしくね」
と、少し笑って、死者の世界へ旅立ってしまった。
「……私はそんな風には考えられない」
枕の下に頭をもぐり込ませて、私はぼそぼそつぶやいた。目の奥が熱くなる。
コンコンコン、と窓を叩く音がする。びっくりして、目をこすってから駆け寄ると、窓際の木の枝に、ほほえみながら腰掛けている人が見えた。ここは二階だ。急いで窓を開ける。
「おはよう、ユル」
「『おはよう』よりも、『こんにちは』の時間ですよ。フィー」
ユルは紋章のある長衣を着ていて、後ろに半透明な翼が生えている。彼自身の肌や髪の色が薄いので、なんだか全体的に光っているようにも見える。
彼は王国に命じられて、私のこと、というより、私の家を見張っているのだが、
「グレタがいないからといって、不規則な生活はよくありません」
最近、ちょっと口うるさくなった気がする。
「ユル、私、もう十五歳なんだから、一人でちゃんとやれるわ」
「まだ寝間着姿なのに?」
彼はハシバミ色の目を瞬かせ、
「ほら、もうお日様があんなに高くなっていますよ」
と、空へあごをしゃくり、窓から家の中へ入ってきた。
「いま着替えるところだったの!」
私はベッドのへりにかけてあった服を引っ掴んで、バスルームへ駆け込んだ。
「猫たちへごはんはやりましたか?」
「まだ!」
私とユルの声を聞きつけたのか、ブチ、トラ、シロ、三匹の猫たちがみゃあみゃあいいながら二階に上がってきた。
私が身支度をして台所へ下りていくと、エプロンをつけたユルがしゃがみこみ、お皿に顔をうずめている猫をなでていた。
ユルは私にもにこりとして、バスルームからブラシを持ってくると、
「フィー、髪が乱れてます」
と、私をイスに座らせて髪にブラシをかけ始めた。
「まだ一週間なのよ」私は少しぐったりして言った。「もうちょっと悲しんでいてはだめ?」
「悲しんで、ほかのことが投げやりになるくらいに?」
「猫たちのごはんのことは悪かったわ」
「そういうフィーこそ、ちゃんと食べていますか」
顔が見えなくても彼が微笑んでいるのはわかる。穏やかな話し方だった。
「この時が来るとわかっていて、グレタもあなたに、心持ちや家のことを、前もって教えていたはずですよ」
「わかっていても、悲しくなるのはどうしようもないの。勝手に向こうからやって来るんだもの。心の中に」
消え入りそうな声で言うと、後ろからハンカチがそっと差し出された。どうして王国の騎士がこんなものを持ってるんだろう。変なの、と思いながら、私はそれを顔に押し付けた。
ユルの手が丁寧に、私のぼやけた亜麻色の髪の毛を梳かして、編んでいるのがわかった。髪を結える天使なんて、本当に変なの。
「しばらくは悲しんでいてもかまいません。でもちゃんと何か食べてください」
ぽん、と私の肩を叩いて、ユルは台所へ行き、何かガチャガチャし始めた。
「お腹も空かないし、何もする気が起きないの」
私は聞こえないくらい小さくつぶやいて、テーブルの上にうなだれて、目をつぶった。
猫のうちの一匹が私の足元にすり寄って、その場で寝そべったのを感じた。
窓から差してくる日の光がまぶたに明るくて、暖かくて、ああ、畑と花の世話をしなくては、と思う。
バターと甘いバニラの香りが漂ってきて、何かをじゅうじゅう焼く音も聞こえる。お湯の沸く音も。
そのうち足音と、ことりとそばに何かが置かれる気配がして、私は、はっと目を開けた。お皿の上にほかほかのキツネ色をした……
「パンケーキです。紅茶でいいですか?」
バターとメープルシロップの壺も持ってきてくれたあとで、ユルが台所から尋ねる。
「うん」
返事をしながらも、私は少し驚いて、ぼんやりしてしまった。どうしてユルはこんなものを作れるんだろう?
同時に、誰かに料理を作ってもらうのが久しぶりで、嬉しくて、胸のあたりがほんわり温かくなる。私はパンケーキにバターを塗り、シロップをかけると、ナイフとフォークを手にして、パンケーキを切り分けた。
口に運んだとたんに、びっくりして目を見開く。もぐもぐしてから、台所へ声を張り上げた。
「これ、おばあさまの味!」
「少しクリームチーズを入れたんです。グレタはそうしていたでしょう」
ユルはこちらに微笑んだ。
「え! まさかユルも食べたことあるの?」
「ありません」
「じゃあ、なぜ作れるの?」
「グレタにレシピをもらったんです」
「……どうして?」
「グレタがあなたを心配して、私に託したんですよ」
どういうことなんだろう、おばあさまが私を心配するなんて、想像できない、と私は考え込む。
もうおばあさまに理由を聞くことはできない。でも、何だか久しぶりに、世界に一人ぼっちじゃないみたい。おばあさまがいた時みたい。
外はぱりっとしていて、中はふんわりしっとり、ほんの少しクリームチーズの風味が広がる。バターとメープルシロップのじんわりしみたところが甘くておいしい。
ユルがティーカップを二つ持ってきた。熱い紅茶が湯気を立てている。
彼は向かいに座り、にこにこしながら私のことを眺めていた。自分だけパンケーキをぱくついていた私は気まずくなって、はい、とパンケーキのフォークを差し出した。
ユルはちょっと目をぱちぱちしてから、笑ってその一口をぱくりとした。私はまじまじとその様子を眺めた。
「食べるのね」
「え、いけなかったんですか?」
「ううん、いいの! 天使がパンケーキを食べるのは珍しいなって思って……。でも花も食べるし、お茶も飲むんだから、パンケーキも味見ぐらいするわよね」
ユルはきょとんとして、紅茶を飲んでから私へ尋ねた。
「花を食べるというのは、フィーが小さい頃、おままごとで花のデザートを出してくれた時のことですか?」
「そうよ」
あの時、私が遊びで出したスミレの花を、ユルは本当にむしゃむしゃ食べたのだ。
私が真面目な顔をしていると、ユルは口元に手をやって、ふふっと笑い出した。
「どうしたの?」
「私だって、そこらへんに咲いている花を、突然、取って食べたりはしませんよ。あの時は、食べないとあなたが悲しむかなと思ったんです」
「え! そうなの?」
「それに、私たち翼人も、ちゃんと食事をしますよ」
「人間みたいに? 味見だけじゃなく?」
はい、と相手はうなずく。
「そうなのね……」
ユルがお腹を空かせている印象が全くなかったので、ちゃんと食事をすることにも気づかなかった。自分の勘違いといい加減さに、顔が熱くなってくる。
「ごめんね。スミレの花、おいしくなかったでしょう?」
「うーん、ちょっと苦かったですね。でもフィーが喜んでいたので、食べてよかったなと思いましたよ」
ユルの透き通った色のまつげが合わさって、その後で少しハシバミ色の瞳がのぞいた。
「だからね、フィー、笑ってくださいね。悲しんでもいいので。しばらくしたらまた」
私はまた何かが込み上げてきて、急いでパンケーキを口に放り込んでもぐもぐし、ティーカップ越しに、
「わかった。ありがとう」
と言った。今日は泣きそうになってばかりだ。
昼過ぎに、ユルは仕事に戻っていった。去り際にあれこれ言い含められた。
「戸締りはきちんと。知らない人をむやみに家に上げてはいけませんよ。それから……」
完全に留守番する小さい子みたいな扱いだった。
「ユルはこの家を見張りに来ているのよね?」
私が目をすがめて尋ねると、そうですよ、と当たり前のように返された。とてもそうは思えないのだけれど。
いよいよ行ってしまうという時、彼は羽ばたきながら振り向いて微笑んだ。
「また明日」
その言葉は何だか今の私の心を明るく照らした。
「また、明日ね!」
私も両手を振ってそう返した。ブチ、トラ、シロの三匹も私の足元に集まってきて、ユルの後ろ姿を見送った。私はしゃがんで、ブチの背中をなでた。
「大丈夫よ。明日また会えるからね」
みゃあ、とブチは私を見上げて目を細めた。
「みんな」と私はトラとシロもなでた。「ここのところ、ちゃんとしてなくってごめんね。明日は早起きするから」
猫たちに宣言し、よし、と立ち上がって私は腕まくりした。
畑と花の世話をしよう。できることからちょっとずつ。おばあさまの魔法の家を守るのは私の仕事だ。
それから今度は、私がユルに何か作ってあげよう。何がいいかな?
考えると、明日が少し楽しみになった。
「グレタのレシピ」〜一口メモ〜
「パンケーキ」:フィーはパンケーキなら、どんなに元気がなくても食べる。初心者にはおすすめの手作り菓子。




