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小川端の五右衛門風呂

 日本という国はどんな国と訊ねられると、まず多くの人は島国と答えるだろう。島国であることは当たり前だ。そういうことではなくて、どんな国かと更に訊ねると、とたんに答えに窮するのではないだろうか。インフラの整備された国、科学技術が発達した国、自由に発言でき、行動を監視束縛されない国という見方もできるだろう。しかし、そういう方向から見た国の像ではなく、子供のように素直な見方をしてほしい。

 日本は、山岳国家と考えられないだろうか。少なくとも私は個人的にそう思っている。しかも急峻なという形容詞が絶対に必要な山岳国家だ。それは国土であって国家ではないという反論もあろう。しかしそうすると、国家とは何ぞやということを定義づけねばならなくなる。国土なのか、国民なのか、国体なのか、はたまた文化を指して国家と定義づけるのかということだ。私はその総体を国家と考えているので、敢えて山岳国家といわせてもらう。


 南北に弧を描く列島は、水面に背を出した魚のようだ。その背には、立派なヒレがある。つまり、背びれに相当するように標高の高い峰々が続いているというわけだ。最高峰の富士山をはじめ、列島の中央部分には三千m級の山々が連なり、氷河すら存在する。そこから両端にむけて徐々に標高が低くなるが、二千m、千五百mといった峰々が延々と続いているのだ。そして、長さに較べて幅が極端に狭いことも特徴だ。それが地形的特長だ。

 更に、四周を海に囲まれていることや中緯度に位置すること。近海を暖流と還流が巡っていることが環境的特長だ。

 温帯域に位置し、暖流で更に温められることにより、多量の水蒸気が発生する。大陸の冷たい空気と、太平洋の暖かな空気が急峻な山でかき混ぜられ、水蒸気が雨となり、雪となる。そのおかげで飲み水に困ることがない。

 雨は、単に飲み水を供給するだけではなく、実は山を風化させてもいるのだ。ここで詳しくその仕組みを述べることは措くが、そうして風化した岩石が土となり、鬱蒼とした樹林を支えてきた。そして、大地のはるか底ではプレート同士が圧しつけ合っていて、日本列島をを盛り上げている。

 そういった自然の実に巧妙な仕組みの中で我々は生きているのだ。

 暖帯植物が繁茂する土地に寒帯植物も繁り、更には高山植物も自生する国土。浜辺で水浴びに興じながら、氷河がゆっくりと流れ下る土地。

 潤沢な飲み水と、豊富な植物相。それを糧に命を育む無数の生き物たちとともに、我々の祖先は営々と生命をつないできた。


 木々が頭上に作っていた雨避けトンネルはそこらじゅうが虫食いになって、それでも足らぬとばかりにハラハラと色づいた葉を落としている。歯抜けになった天井に、赤茶けた枝が重なっているのが見えた。太いソーセージほどもありそうなアケビが口を開いて、よく熟れた果肉を自慢げに揺らしているが、男は見向きもせずに坂を下っていた。

 くたびれたのジャンバーの肩に細かな木屑がついているのは、担いで入るチェーンソウから零れたものだろう。腰に締めている太いベルトには、賑やかな声を垂れ流す携帯ラジオ。それと、どう考えても季節外れの蚊取り線香が細い煙をたなびかせていた。歩くのにあわせてヒョコヒョコ動く鉈は、実際の目方以上に重みのある柄が存在感を際立たせている。

 少し風が出てきた。はらはらと足元を舞う落ち葉に足を取られまいと、地下足袋が用心深く踏みしめる。

 荒い石くれが顔を出す山土の小路。それでも二人が悠々すれちがえるだけに切り開いた小路を、男は山奥から下ってきた。男の左手は、先祖が切り開いたのを拡げるために削られた跡がそのままになっていて、植えたわけでもないシダが少しづつ覆いかくそうとしている最中だ。右手はストンと落ちている。そこには刈っても刈っても熊笹が伸びていた。

 歩きながら男が右手に視線をとめた。このご時世になって誰も捥がなくなった柿の木だ。平種無しのこの柿は、大きな実をつける。といっても渋柿なので、ひと手間かけねば食べることはできない代物だ。一晩、湯に浸けるなり、ビニール袋に密閉して焼酎かドライアイスを入れておけば市販の柿よりよほど甘くなる。しかし若者が減り、年寄りも次々にいなくなると、そうまでして食べようという者がいなくなってしまった。だから誰も手入れをしない。そんな、人に見放された柿は野生を取り戻したのか、幹回りが太くなって、縦横に枝を伸ばしていた。

 男が視線を向けたのは、ひときわ太い枝だった。いくら柿の枝が折れ易いといっても、あれだけ太い枝が簡単に折れるものではないからだ。山仕事をしている男の手は荒く大きいのだが、それと較べて見劣りしないような太さがある。それが見事に折れていた。

 熊のやつ、こんなところまで下りてきたか。と男は眉をひそめた。

 こんな里近くに下りてこなくたって、山には栗もドングリも豊富に自生しているはずだ。村人が競うように栗拾いをしたのは、もうずいぶん昔のことだ。手入れができていない山に自生する栗は、実こそ大きいが虫喰いが酷く、甘味も少ない。そんなものを都会に出た子供たちに送ったところで歓迎されないのは目に見えている。だからわざわざ拾いに行く者がいるなど、ここしばらくは聞いたこともない。それに、たとえ村人が採ったところで、熊の食料を脅かすほどには持ち帰れないはずだ。だいいち重いのだし、度を越せば熊が里に下りてくる虞がある。

 男は、担いでいたチェーンソウを草の上に降し、柿の木に近づいて行った。


 小路から草叢に足を踏み入れると、そこらじゅうに橙色の斑点が転がっていた。熟れて落ちた実などほとんどなく、どれもこれも爪先で踏んでも潰れたりはしない。それどころか、ツルンと滑って転がるほど堅い実だ。明らかに何者かがわざと落としたものだ。

 振り仰ぐと、無秩序に伸ばした枝先には、どこから落ちたのかわからないほど、立派な実が鈴なりに生っていた。

 ざらっとした木肌に目をやると、荒い縦キズがいくつもついていた。やっぱり熊か。そう思った男は、腰に提げた蚊取り線香を手にすると、草叢といわず、幹の周囲といわず、細い煙をしみこませて回った。まだこれだけ実をつけていることだから、きっとまた喰いに来るだろう。そのとき、こうして人間の匂いを嗅げば山へ帰るのではないか。嗅覚の強い熊のことだ、線香の匂いに遠くから気付くだろう。男の狙いはそこにあった。

 折れた枝を確かめてみると、やはり男の拳ほどの太さがあった。これほどの枝を折るとすれば、きっと親熊に違いない。そう考えながら男は鉈を振るった。裂けてささくれ立った傷口をそのままにしておくのは忍びない。

 男は頭上を見回して一本の枝に目を留めると、それをスカッと斬りおとした。これでもかというほど艶々した実が十ばかりついている枝だった。


 ここは、とある山村。都会からはるか遠く、地方都市からすら見捨てられたような陸の孤島。あるものといえば、鬱蒼とした山林と、季節にかかわりなく流れる清冽な水くらいだ。しかし都会的安楽を望みさえしなければ、穏やかに暮らすに十分な糧を山が与えてくれる。


 山と山の狭間に十軒ばかりの家が点在する地域、昔風に表現するなら隠れ里だ。男がまだ学校に通っていた頃には、確か三十軒くらいの家があった。それだけの家があったから秋祭りも地域で行っていたものだ。しかし年寄りが死に、若い者が都会へ出てゆき、主を失った家だけがポツン、ポツンと残った。それぞれの先祖が眠る墓所も、しだいに草に埋もれ、枝を伸ばした木々に呑みこまれてしまう。ゆっくりと朽ちてゆく家は、まるで塔婆のようだ。

 山と山が迫った土地と述べたが、実際は山の割れ目のような土地だ。山津波さえおきなければ風を凌ぐに便利な土地でもあった。

 人々は、山の亀裂に沿って家を建て、適うかぎり自給自足の暮らしを守っている。


 山の合わせ目に川が流れている。岩清水や何十という谷を集めた流れで、昔も今も生活の水をまかなってくれるし、小さいとういえ、田畑を潤してくれる流れだ。

 先人はその流れを引き込むように小川を作った。小魚が泳ぎ、小粒ながらシジミも住んでいた。大雨が降ると沢蟹が列をなして下り、村人はびしょ濡れになりながら天の恵みに歓声を上げたものだ。

 やがて簡易水道がそれぞれの家に水を届けるようになって、小川はその役割を失ってしまった。

 水汲みが大変だからということで小川端に作られていた風呂も、長年にわたる役目を終えた。

 さまざまなことば便利になり、こんな山奥でも都会と同じように暮らしてゆける。ありいがたいことだと思う反面、男の心にさざ波が立った。それはきっと、あの柿の木を見たからだろう。人に忘れられた柿の木は、誰も手入れをしていないというのに大きな実をつけた。人が見向きもしないのなら、せめて熊にでも食べてもらおうと考えているのだろうか。なら、人が使わなくなった小川は、なにを思うのだろう。


 家に帰りついた男が、なにを思ったのか風呂桶をゴシゴシ洗った。すっかり赤錆びた五右衛門風呂に水を張るのは何年ぶりだろう。十年、二十年、いや、もっと前から内湯を使っていたはずだ。底が抜けるというようなことは考えもせず、小川の水をザブザブと汲んだ。

 灰ともゴミともとれないものを掻き出した焚口で、藁束が一気に炎を上げた。細く割った薪をくべ、枯れ枝を突っ込むと、パチパチと音をたてて炎が燃え盛る。十分に火勢が増すと、太い薪をくべた。


 納屋からバケツを持ってきた男が、柿の実を捥ぐ。そして実を捥がれた枝の先端を鉛筆のように尖らせた。

 本当なら煙突が立っているはずの穴からモウモウと出ていた煙が、急に男を包んだ。酷く咽て煙から逃れようとするのだが、煙は面白がって男につきまとう。が、それにも飽きたのか、これまた急に川のほうに流れてゆく。いつの間にやら風が出てきたようだ。

 咳き込むのが治まった男は、涙目をこすりながら柿の実をてにした。そのヘタめがけて尖らせた枝先を刺してはバケツに入れる。いったい何をしようとしているのだろう。


 何度か薪をくべなおすうちに、湯が沸いてきたようだ。

 晩秋の日暮れは早い。そうでなくとも周囲を山に囲まれた、地面の裂け目のような土地柄から、日暮れは里より三十分は早い。実際のところ、まだ四時くらいだろうが、辺りは既に薄闇が忍び寄っていた。

 湯船に腕を突っ込んで乱暴にかき混ぜていた男が、パパッと身につけているものを脱いだ。脱衣籠などという洒落たものなどあるはずがなく、男は脱いだものを洗い場の隅に積み上げた。そんな短い時間なのに肌が粟立ってくる。

 湯加減は少しぬるめだが、ゆっくり浸かるには反って良いのかもしれない。

 そうして湯船に片足突っ込んだ男が急に動きを止めた。早く温まりたいばかりにうっかりしていたのだが、湯船の底に敷くものを用意していなかったことに気付いたのだ。

 昔は、湯船にスノコを浮かべていた。その上に乗れば底に足をつけずにすむからだ。スノコがなかったら下駄のまま浸かったりもした。なぜなら、そうしないと足の裏を火傷してしまう。五右衛門風呂の底は、炎に直接炙られているということを失念していた。すっかり近代的な風呂を当たり前と考えるようになったが為の失敗だ。さりとて、ずっぷり浸けた足を引き抜くと余計に寒さが堪えるだろう。男は何か代用になるものを探しているのか、キョロキョロと辺りを見回したが、それらしいものが見つからなかったようで、口をへの字に結んだ。そしてあらためて湯船に体を浸していった。

 湯船の壁に足を突っ張って、尻を浮かせる。湯船に寝そべったような格好だ。足の裏と後頭部、そして肩口だけがセメントの浴槽に触れて冷たい。しかし背中や腹がじんわり温まってきて、なんとも気持ち良さそうだ。薪を焚いて沸かした湯は柔らかい、そんなことを感じているのだろうか、男はゆっくり目蓋を閉じた。


 風呂小屋は、素人の慣れぬ大工仕事で建てられていた。四隅の柱にしたところが、山から切り出した間伐材を適当に使っているし、板壁にしたところで隙間だらけ。内側に壁土を塗りつける手間など省いている。肝心の屋根もそうだ。大工が使うような真っ直ぐな板が買えなかったのだろう、歪んだ板を寄せ集めてあるので空が見える。雨の日には笠さえ必要だ。もちろん電燈など備わってはいない。

 男が修学旅行に行ったとき、大浴場に産まれて初めて入ったのだが、そのときに冷たい雨が首筋に当たって驚いた。こんな立派な風呂でも雨が漏るのだろうかと天井を見上げると、どこにも隙間のないコンクリートの天井があるだけだ。おかしいなと思いながら体を洗っていると、またしてもポタン。冷たい滴だ。

 どういうことだと見上げると、湯気に隠れるようにたくさんの水玉が垂がっていた。視界の中でそれがヒューッと落ちるのが見えた。公衆浴場にすら行ったことがない男にとって、産まれて初めての体験だった。

 そんなことを思い出しているのか、男の頬がだらしなく弛む。ゆっくりと目蓋を開けた男の視線の先に、屋根の隙間を通して星が煌めいている。

 小川のせせらぎを聞き、山の薫りを嗅ぎ、火照った頬を風になぶられながら星を仰ぎ見る。そんな贅沢な風呂に自分は浸かっている。


 すっかり暗くなった空間に橙色をした焚口が鮮やかだ。そこだけ、何かがあることがわかる。そしてどこからともなく、太い吐息と、忍び笑いが流れていた。


 ちなみに、件のバケツに風呂の湯を入れ、しっかり蓋をしてバケツごと湯船に入れておくと、明日の朝には渋が抜けているはずだ。ほんのひと手間かければ、あの柿が甘くなる。

 いったい誰が考えだしたことやら。


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