第22話 リュシアの過去
前線基地での視察と野営を終え、魔王城の地下大工房へと戻ってきた夜。
巨大な火山炉の火は最小限に落とされ、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。壁に掛けられたランプの淡い灯りだけが、広大な石造りの空間を照らし出している。
ゲンは自分の作業台に腰掛け、使い込まれた愛用のハンマーの手入れをしていた。
長年の使用で乾燥し、鉄の頭と樫の柄の間にわずかな隙間ができている。ゲンは薄く削り出した新しい木の楔を接合部に当て、別の小さな木槌でコツコツと叩き込んでいく。
少し離れた場所では、リュシアが乳鉢に竜の骨粉を入れ、乳棒でゴリゴリと擂り潰す作業をしていた。
一定のリズムで響いていたその擂り潰す音が、ふと止まった。
「……ギルドの連中、本当に責任転嫁ばかりで酷かったですね」
リュシアがぽつりと、前線基地で魔法越しに聞いた人間側の鍛冶長の言葉を蒸し返した。
「でも、人間の組織なんてあんなものです。価値がなくなったものは、本当に簡単に切り捨てますから。……石も、技術も、ひとも」
それは、彼女がかつて、崩れた山奥の工房で炭精石を見た時に零した言葉と同じだった。
ゲンは楔を打ち込む手を止めず、視線だけをリュシアに向けた。
「いつか言いかけた話だな」
「……はい」
リュシアは乳棒を置き、自らの膝の上で両手をきつく握り合わせた。ランプの灯りに照らされた彼女の横顔は、どこか青ざめて見えた。
「私、元・王国魔法研究院の主席助手だったって言いましたよね。自分で言うのもなんですが、結構優秀だったんですよ」
彼女は淡々と、しかし微かな強がりを混ぜて語り始めた。
「前線で見えない鉱脈を探り当てる『鉱脈探知の術式』や、遠隔地へ物資を途切れさせず送るための『転移術式』。あの辺りの研究は、ほとんど私が一人で組み上げたんです。徹夜ばかりで、ひどい労働環境でしたけどね」
「物資を送るため、か」
「はい」
リュシアは小さく頷いた。
「それと……本当は、前線で重傷を負った人を、安全な後方へ退避させたかったんです」
ゲンの木槌を振るう手が、ほんの僅かに止まった。
「戦場では、助かるはずの人まで死にます。治療する場所へ運ぶのが間に合わないから。だから、物資を送り込むだけじゃなくて、傷ついた人を一瞬で後方へ戻せたらって……」
リュシアは自嘲するように笑った。
「まあ、理想だけは立派ですよね」
「だが、手柄は上に取られたんだろ」
ゲンが端的に言うと、リュシアは小さく目を伏せた。
「ええ。研究院の先生たちの名前で大々的に発表されました」
一拍。
「それに……王国魔法研究院の最大の後援者は、聖剣教会でした」
ゲンの眉が僅かに動いた。
「教会?」
「はい。研究費も設備も、かなりの部分を教会が出していたんです」
リュシアは膝の上で組んだ指に、少しだけ力を込めた。
「その代わり、『王国防衛のため』という名目で、重要な研究成果は途中経過まで逐一提出させられていました。実験記録も、術式の構成も、改良点も……」
「完成する前からか」
「……はい」
ランプの炎が小さく揺れた。
「だから、教会は知っていたはずです。少なくとも、私が何を作ろうとしていたのか。理論の途中段階から、全部」
静かな工房に、コツン、と木槌の音が一つだけ響いた。
「それでも私は、完成させれば誰かを助けられると思っていたんです」
リュシアの声が、僅かに掠れた。
「物資を送れる。傷ついた人を後方へ逃がせる。ちゃんと完成させれば、戦場で死ぬ人を減らせるって」
彼女は唇を噛んだ。
「だから研究を続けました。そして……術式は、完成しました」
ゲンは何も言わない。
「完成した直後です」
リュシアの声から、少しだけ感情の波が抜け落ちた。
「成果は全部、上の人間たちの名前で発表されました。私が作った術式も、実験記録も、全部」
「……それで、お前は邪魔になった」
「ええ」
リュシアは自嘲するように笑った。
「まあ、助手の手柄が上のものになるのは、どこの世界でもよくある話です。……でも、成果を全部吸い上げられて、術式が完成した後……私という『知恵の出どころ』は、彼らにとってただの邪魔者になったみたいで」
リュシアの声が、さらに平坦になる。
「用済みと見なされた瞬間に、口封じで暗殺されかけました。深夜の研究院で毒を盛られ、命からがら逃げ出して……追手を撒きながら、この魔王領の山奥に隠れ住んでいたってわけです。その時にゲンさんの工房を見つけて、無理やり転がり込んだんです」
静かな工房に、彼女の言葉が重く響く。
手柄を奪われ、命まで狙われる。それは、彼女が人間社会という巨大な組織から受けた、修復しがたい深い傷だった。
「……だから」
リュシアは俯き、震える声を必死に押し殺すように続けた。
「魔王様が大工房や星鉄の鉱山、それにたくさんのドワーフの部下をゲンさんに用意した時、私、すごく不機嫌になっちゃって……すみませんでした」
「あ?」
「怖かったんです。ゲンさんに立派な環境が整って、私がいなくても素材が集まるようになったら……私が役に立たなくなったら。そうしたら、今度はゲンさんに『もう要らない』って、処分されるんじゃないかって。……馬鹿みたいですよね」
役に立たなければ、捨てられる。
それが、彼女の過剰な世話焼きや、ルヴィアからの提案に対してムキになって反発していた態度の裏側にあった『捨てられ不安』の核だった。
沈黙が落ちた。
ゲンは無言のまま、ハンマーの頭に打ち込んだ楔の余分な部分を小刀で切り落とし、柄の具合を確かめるように手の中で数回弄んだ。
緩んでいたハンマーの頭は、新しい楔によってしっかりと柄に固定され、もう微塵もガタつくことはない。
ゲンはそのハンマーを作業台に置き、リュシアの方へと身体を向けた。
「……馬鹿だな」
ぶっきらぼうで、一切の装飾もない一言だった。
「えっ……」
「転移術式だの何だのは知らねぇ。だがな、お前の探知魔法がなきゃ、あの『泥石』は見つからなかった。今すり潰してる竜骨粉だって、お前が命懸けで採ってこなきゃ、うちの剣はとっくに折れてる」
ゲンは説教も、気の利いた慰めも口にしなかった。ただ、現場の事実だけを端的に突きつけた。
「お前が作ってきた素材で、この工房は回ってんだ。お前を捨てた奴の目が節穴だっただけだろ」
リュシアが弾かれたように顔を上げる。
「俺は職人だぞ」
ゲンは冷徹な、しかし確かな体温を持った目で、エルフの少女を見据えた。
「手に馴染んだ道具や、使える助手を捨てるほど、俺の目は節穴じゃねぇよ」
それは、「役に立つ素材が要る」という事実と共に、「お前という助手が要る」という明確な肯定だった。
「……ゲンさん」
「第一、お前がいねぇと、誰がこの散らかった工房を片付けて、俺に飯を食わせるんだよ。ドワーフのむさいおっさん共に飯を作らせろってのか」
最後につけ足された、不器用極まりない照れ隠しの言葉。
リュシアは目を丸くして呆然としていたが、やがて、その大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪え、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「も、もう! そういう面倒な生活の世話を、全部私に押し付ける気ですね! ゲンさんは本当に、私がいないと何もできない大雑把な人なんですから!」
いつもの辛辣な口調。だが、その声にはもう、強がりや不安の震えは一切混じっていなかった。彼女は好意と安堵を、精一杯の『否定の形』で表現していた。
「仕方ありません! これからもこの優秀な元・主席助手が、ゲンさんの健康管理から危険素材の調達まで、隅から隅まで管理してあげますからね! 覚悟しておいてください!」
「ああ、頼むわ」
ゲンは短く返し、再び作業台の上の道具に視線を落とした。
リュシアも乱暴に袖で目元を拭い、竜骨粉のすり潰し作業に戻る。
ゴリゴリという乳鉢の音が、先ほどまでの不安なリズムとは違い、力強く、心地よいテンポで大工房に響き始めた。
人間社会から捨てられたエルフの少女は、偏屈な鍛冶屋の隣という確かな『居場所』の楔を、心の奥深くにしっかりと打ち込まれたのだった。
二人の距離が静かに、だが決定的に縮まった夜。
しかし。
リュシアが完成させた『転移術式』の理論が、研究の途中段階から聖剣教会へ渡っていたこと。
そして、その術式が本来の目的とはまるで違う形で、遠く離れた聖王国アルヴァレムの奥の院において、人間側による卑劣な奇襲の牙として研ぎ澄まされつつあることを。
この時の二人は、まだ知る由もなかった。




