第1話 山奥の工房に、血まみれの女が落ちてきた
硬質な音が響き、黒々とした金属の破片が石の床に散らばった。
女は、自身の胸元で真っ二つに裂けた分厚い魔鎧と、それを容易く断ち切った刃を信じられないといった目で見つめていた。
「……馬鹿な」
血まみれの女が、荒い息を吐きながら呻く。圧倒的な魔力を誇るはずの防御呪縛が、何の抵抗もなく斬り裂かれていた。彼女は膝をつきそうになるのを堪え、鋭い眼光を目の前の男に向けた。
「貴様……只人ではないな。聖剣ギルドの長か、それとも名高き英雄か」
だが、刃を握っていた男――ゲンは、面倒くさそうに首を掻いた。彼は薄汚れた前掛け姿で、手には飾り気のない無骨な剣を無造作に持っているだけだ。
「買い被るな。俺はただの鍛冶屋だ。しかも、お前が勝手に突っ込んできただけだろうが」
拍子抜けするほど平凡な名乗りに、女は絶句した。
時間を少し巻き戻す。
山奥にひっそりと佇む粗末な工房。
その主であるゲン――本名、柴田源吾は、かつて日本の小さな町工場で鉄を削り、熱し、焼き入れと焼き戻しを繰り返してきた職人だった。
どういう因果か、この魔法の世界へ迷い込んでからも、彼が金属を見る尺度は変わっていない。
魔力ではなく、熱と炭素と歪み。
それが、ゲンにとっての鉄の言葉だった。
ゲンは一人、作業台に向かって砥石を滑らせていた。
シュッ、シュッという規則正しい音が響く。手元にあるのは、鈍い銀黒色の輝きを放つ『黒曜銀』を打ち延ばした試作品の剣だった。
砥石に当てた刃から散る火花を、ゲンは目を細めて観察する。火花の先が細かく枝分かれして弾ける。
「……悪くない。炭素の入り具合は上々だ。粘りも出てるな」
独り言を呟いたとき、工房の木の扉が勢いよく開いた。
「ゲンさん! 頼まれていた素材、採ってきましたよ!」
埃まみれのローブを羽織ったエルフの少女、リュシアがどさりと麻袋を床に置いた。長い銀髪には枯れ葉が絡まっている。
「お疲れ。怪我はないか」
「私を誰だと思ってるんですか。元・王国魔法研究院の主席助手ですよ。これくらいの採集、造作もありません」
リュシアはふんぞり返りつつ、上着を脱いでゲンの横にやってきた。彼女は手際よく麻袋を開け、中身を作業台に並べていく。
「言われた通り、竜の骨粉と……それから、この黒い石。炭精石でしたっけ。これも一応拾ってきましたけど」
リュシアは煤けたような黒い石を指先でつまみ、不満げに顔をしかめた。
「本当にこんな石、何に使うんですか? 魔力反応なんて欠片もありませんよ。研究院じゃ、ただの滓として捨てられていた代物です」
ゲンは研ぎの手を止め、炭精石を受け取った。その表面のざらつきを指の腹で確かめる。途端に、彼の声の温度が少しだけ上がった。
「お前ら魔術師にはそう見えるんだろうな。だが俺に言わせりゃ、こいつは宝の山だ」
「はあ? 魔力が通らない石のどこがですか。だいたい、その黒曜銀だってそうです。魔力不活性のせいで魔法付与すら弾いてしまう。そんな扱いにくい金属に、魔力のない黒い石を混ぜて、何の意味があるんです?」
リュシアが呆れたように言うが、ゲンはニヤリと笑った。
「魔法が乗らないなら、金属そのものの質を上げればいいだけの話だ。この黒い石はな、鉄を鋼に変える鍵なんだよ。こいつをうまく混ぜ込んで焼き入れと焼き戻しをすれば、刃の硬さと粘りが格段に跳ね上がる」
「焼き……? なんですか、その小難しい専門用語は。大体、ゲンさんはいつもそうです。魔力という素晴らしい尺度があるのに、火花の散り方だの、割れ口だの、よくわからないことばかり気にして……」
リュシアはぶつぶつと文句を言いながらも、手際よくゲンの作業台の散らかりを片付け始めた。
「あー、ほら、削りカスが散らかってます! 食事にするから少しは休んでくださいって、いつも言ってるじゃないですか。倒れられたら私が困るんですからね!」
「わかった、わかった。キリのいいところでやめる」
ゲンが適当に生返事をした、その時だった。
ズドォォォン!!
けたたましい轟音と共に、工房の天井が派手に砕け散った。
土煙と瓦礫が舞う中、作業台の上に何かが墜落してきた。
「なっ……!?」
リュシアが悲鳴を上げて後ずさる。
もうもうと立ち込める粉塵が晴れた後、そこに蹲っていたのは一人の女だった。
豪奢だが所々がひどく破損した漆黒の魔鎧を纏い、全身が血に塗れている。長い黒髪は乱れ、その額からは赤い血が一筋流れていた。
女はふらつきながらも立ち上がり、周囲を鋭くねめ回した。壁に立てかけられた無数の鉄剣や工具、そしてエルフのリュシアと、前掛け姿のゲン。
「……ここが、人間どもの武器工房か」
女の声は酷く掠れていたが、有無を言わさぬ威圧感があった。
「追っ手の犬どもめ。この私を追い詰めたつもりだろうが、ただでは死なん。せめてこの工房の主だけでも道連れにしてくれる……!」
完全に誤解していた。女はゲンを、人間軍に武器を供給する元凶だと見なしたらしい。
「おい、待て。勘違いだ」
ゲンが面倒くさそうに手を振って制止しようとしたが、女は聞く耳を持たなかった。
彼女は血まみれの手で腰の長剣を引き抜き、床を蹴った。凄まじい踏み込みの速度。狙いはゲンの首筋。
(馬鹿野郎、話を聞けっての)
ゲンは舌打ちし、とっさに手元にあった試作品の剣を掴み上げた。
逃げる暇も、反撃する暇もない。
剣を構える姿は、どう見ても武人のそれではなかった。足運びも重心も滅茶苦茶で、ただ迫る刃の前に鉄板を差し出すような構えだった。
彼はただ、迫り来る凶刃に対し、自らの試作品を斜めに構えて盾にするしかなかった。
女が渾身の力で振り下ろした刃と、彼女自身の身を覆う分厚い魔鎧の突起が、ゲンの構えた剣に激突する。
――次の瞬間。
甲高い金属音と共に、あり得ないことが起きた。
女の魔鎧は、あらゆる物理攻撃を弾き魔力を減衰させる絶対の防御呪縛が施されていたはずだった。しかし、ゲンの持つ飾り気のない剣の刃は、その見えない防御の層を完全に「無視」してすり抜けた。
勢い余って前のめりになった女の魔鎧に、試作品の鋭利な刃が深々と食い込む。
刃はそのまま地金を捉え、布を裂くような音を立てて、分厚い漆黒の鎧を真っ二つに両断してしまった。
床に散らばる鎧の破片を見て、女は愕然と息を呑んだ。
「貴様……只人ではないな。聖剣ギルドの長か、それとも名高き英雄か」
「買い被るな。俺はただの鍛冶屋だ。しかも、お前が勝手に突っ込んできただけだろうが」
ゲンは手元の試作品の刃こぼれを確認し、安堵の息を吐いた。竜の骨粉がうまく靭性を補っている。この程度の衝撃なら折れる心配はない。
女は信じられないものを見る目でゲンの剣を見つめ、やがてその場にがくりと膝をついた。張り詰めていた糸が切れたように、彼女の呼吸は浅く、早い。
「……その刃の切れ味。魔法の干渉を一切受けず、我が魔鎧の地金そのものを断った……」
女は苦しげに息を吐きながらも、眼光だけは爛々と輝かせてゲンを見上げた。
「その刃、我が軍に必要だ」
「は?」
「私は……滅びかけた魔王軍を統べる王、ルヴィア・グランディア……。頼む、その技術を……我らに……」
そこまで言い残し、女――魔王ルヴィアは意識を手放して床に倒れ伏した。
沈黙が下りる工房。ゲンは頭を掻き、面倒なことになったと天を仰いだ。
一方、部屋の隅で硬直していたリュシアが、ふらふらと歩み寄り、青ざめた顔でゲンの手元にある剣を指差した。
「ゲ、ゲンさん……。その剣、さっき言っていた黒曜銀と……竜の骨粉を、一緒に鍛えたんですか……?」
「ああ。炭精石も混ぜてな。それがどうかしたか?」
ゲンが平然と答えると、リュシアはワナワナと震え出した。
「ど、どうかしたかじゃありません! 魔力不活性の黒曜銀と竜骨を混ぜて鍛えるなんて……それ、教会から『魔力暴走を引き起こす』って禁忌指定されてる技術じゃないですか……!」
リュシアの悲鳴じみた声が、壊れた天井の向こう、青空へと吸い込まれていった。




