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血液内科医、異世界転生する  作者:
Principal Investigator
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第九十八話:アヘンからの鎮痛結晶

レオナールたちの日常は、ファビアン・クローウェルがもたらした一つの情報によって、その穏やかな探求の様相を一変させた。アンブロワーズ伯爵領の代理人との交渉まで、残された時間はわずか一月。その短い期間で、彼らにとって魅力的な価値を持つ「交渉材料」を提示する。それは、レオナールの研究チームに課せられた、最初の、そして極めて重要な任務であった。


ファビアンが研究棟を後にするや否や、レオナールはすぐさまマルクスとクラウスを自らの個室に招集した。その表情には、いつもの冷静さに加え、目前に迫った期限を前にした、指揮官のような鋭い緊張感が宿っていた。

「マルクスさん、クラウスさん。急な話で申し訳ないのですが、現在進めている全ての研究を一時中断し、これから一月間、アヘンの粗精製に全力を注いでいただきたい。ファビアン殿からの要請で、外科技術の習得に関わる重要事項です」

彼の言葉に、二人の間に緊張が走る。レオナールは、手にしたベルク紙に素早く概念図を描きながら、作戦の概要を説明した。


「我々の目的は、一月以内に、アンブロワーズ伯爵領の代理人との交渉で『交渉材料』となりうる、具体的な成果を出すことです。現在マルクスさんにお願いしているような完璧な純度の結晶を単離する時間はありません。ですが、生アヘンから主要な不純物を取り除き、鎮痛効果を持つ有効成分を濃縮した『粗精製品』であれば、あるいは間に合うかもしれない。既存の薬草などとは比較にならない効果を持つことを、実証する必要があるのです」


そして、レオナールはもう一つ、極めて重要な点を付け加えた。

「そして、この工程は、可能な限り『無菌的』に行います。最終的に人体への応用を考える以上、我々の手で細菌などの汚染を混入させるわけにはいきません。これから行う全ての操作は、目に見えない敵との戦いでもあると認識してください」


その言葉は、単なる化学実験ではない、医療品製造に繋がる厳格な品質管理の始まりを告げていた。マルクスとクラウスは事の重大さを理解し、力強く頷いた。チームの全ての人的・物的リソースは、アヘンからの有効成分粗精製という、ただ一点の目標へと集中されることになった。


実験は、徹底した無菌操作の準備から始まった。クラウスは、使用する全てのガラス器具を、レオナール考案のオートクレーブ装置で入念に処理し、作業台の表面はマルクスが高純度のアルコールで繰り返し清拭する。

「では、始めます。マルクスさん、まずは生アヘンを少量、精密に秤量し、この溶媒に完全に溶解させてください。アルコール濃度が高いため溶媒は無菌的と考えて良いです。その後、何重にも重ねた滅菌済みのベルク紙で粗濾過し、明らかな固形不純物を取り除きます」


「承知いたしました」

マルクスは、長年の薬師としての経験に裏打ちされた慎重な手つきで、黒い樹脂の塊をメスで少量削り取り、クラウスが校正を終えたばかりの精密天秤でその重量を正確に測定する。特有の甘く重い香りが、クリーンなはずの分析室に濃厚に漂った。それを滅菌済みのビーカーに移し、アルコール溶媒を注ぎ、ガラス棒でゆっくりと、しかし確実に撹拌していく。アヘン樹脂は、アルコールの中で徐々に溶け出し、やがて紅茶のように濃厚な茶褐色の液体へと姿を変えた。マルクスは、その液体を何枚も重ねて滅菌処理を施したベルク紙で丁寧に濾過し、溶け残った微細な植物片などを取り除いた。


「次に、塩酸処理を行います」レオナールは続けた。「クラウスさん、この濾液に対して、計算通りの濃度の希塩酸を、1滴ずつ慎重に加えてください」

(モルヒネは塩酸塩、コデインはリン酸塩として製剤化されていた記憶がある。アヘンに含まれるアルカロイドは、本来、水に溶けにくい脂溶性の性質を持つはずだが、酸と反応させることでえんを形成し、水溶性に変わる。窒素原子が塩酸からのプロトンを受け取り、塩化物イオンとの塩を形成する。これにより極性が増し、植物性の樹脂成分との分離が可能になるはずだ)

クラウスはマイクロピペットを手に取り、一滴、また一滴と、寸分の狂いもなく希塩酸を滴下していく。茶褐色の液体は、酸が加えられるたびに、わずかにその色合いを変化させ、微かな反応熱を発した。


「よし、そこまでです。では、この溶液から溶媒を完全に除去します」

レオナールは、そのビーカーを自らの前に置くと、静かに目を閉じ、意識を集中させた。彼の手がビーカーの上にかざされると、特殊な魔法《精密乾燥プレサイス・ドライ》が発動する。アルコール溶媒だけが、熱による変質を伴うことなく、急速に、しかし穏やかに気化していく。


やがて、ビーカーの底には、どす黒く、粘り気のある樹脂状の物質と、その中に混じるようにして、白く輝く微細な結晶の混合物が残った。


「これが、脂溶性の不純物と、塩化して水溶性になったアルカロイドの混合物……。ここからが本番です」

レオナールは、その析出物に、今度はクラウスが用意した滅菌済みの蒸留水を加えた。すると、彼の予測通り、白い結晶は速やかに水に溶け出したが、黒い樹脂状の物質は溶けずに底に沈殿したままだ。


「この水溶液を、再度ベルク紙で濾過します。今度は、より目の細かいものを使いましょう」

再び、慎重な濾過作業が行われる。黒く粘り気のある樹脂はベルク紙の上に残り、透明な、しかし目的の成分が溶け込んでいるはずの水溶液だけが、下のビーカーへと滴り落ちていく。


最後に、レオナールは、その透明な水溶液が入ったビーカーを、石英ガラス製の清潔な結晶皿に移し替え、再び《精密乾燥》の魔法を発動させた。今度は、水の蒸発だ。

マルクスとクラウスが、固唾を飲んで見守る中、皿の中の水が静かに姿を消していく。そして、水分が完全に失われたその瞬間。

皿の底には、純白の、そして極めて整った形状の針状結晶が、まるで冬の朝の霜が降りたかのように、キラキラと輝きながら析出していた。それは、先ほどの黒い樹脂とは似ても似つかぬ、精製された純粋さの証だった。


「……できた。これが、アヘンから抽出した、水溶性アルカロイドの結晶……」

レオナールは、その美しくも強力な力を持つであろう結晶を前に、静かに呟いた。

「素晴らしい……! 生の樹脂から、これほど純粋な結晶を取り出すとは……!」マルクスが、感嘆の声を上げる。

「この精密な工程……。一つ一つの段階に、明確な意図がある。まさに科学の叡智ですな」クラウスもまた、その合理的な分離プロセスに、技術者として深い感銘を受けていた。


「ありがとうございます。ですが、まだ終わりではありません」レオナールは、顔を上げた。その目には、確かな手応えと、次なるステップへの決意が宿っていた。「この結晶が、本当に我々が求める鎮痛効果を持つのか、動物実験で慎重に評価していきます。ですがその前に、マルクスさん、お願いしたいことがあります」


レオナールは、完成したばかりの純白の結晶を、滅菌済みの薬さじでごく微量、慎重に掻き取った。


「この結晶が我々の求める薬効を持つことはほぼ間違いないでしょう。ですが、交渉材料として、そして将来の医療応用を見据える上で、もう一つ極めて重要なことがあります。それは、この精製品が『無菌』であることの証明です」


彼は、その微量の結晶を、マルクスが用意していた栄養豊富な寒天培地のシャーレへと移した。


「このサンプルを、数日間、最適な温度で培養し、細菌やカビのコロニーが一切出現しないことを確認してください。もし何か増殖してくるようであれば、我々の無菌操作のどこかに問題があったということです。薬効評価は、この無菌性試験をクリアしてから開始します」


その指示は、レオナールの医師としての、そして科学者としての厳格さを示すものだった。マルクスは、その徹底した品質管理の思想に深く頷き「承知いたしました。必ずや、完璧な結果をご報告いたします」と、力強く応じた。


化学という名の鋭いメスによって、アヘンという混沌から取り出された、純白の結晶。その真価が問われる、次なる試練が始まろうとしていた。

アヘンの精製プロセスはこれまで以上に雰囲気だけで書いてるので諸々よろしくお願いします

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