第九十七話:ファビアンの真意
ファビアン・クローウェルからの来訪を告げる伝令を受け取ったレオナールは、すぐに研究室の扉を開け、彼を丁重に迎え入れた。物質科学研究センターの研究個室は、レオナールが最も集中して思索を巡らせ、研究計画を練るための居城だ。しかし、この場所もファビアンのような要人が訪れることで、一瞬にして独特の緊張感に包まれる。ファビアンの訪問は、常に何か国家的な重要事柄の進展を意味していたからだ。
「ファビアン殿、ようこそお越しくださいました。何か急ぎの用件でもございますでしょうか?」
レオナールが問いかけると、ファビアンはいつものように冷静沈着な面持ちで頷いた。その瞳には、すでに本題に入る準備が整っていることを示す、鋭い光が宿っている。
「レオナール公子、お忙しいところ誠に申し訳ない。早速だが、単刀直入に伺おう。君が、現在『アヘン』に関する研究を進めていると耳にしたのだが、それは真実かね?」
ファビアンの問いかけに、レオナールは一瞬、眉をひそめた。アヘンの研究は、マルクスを介して教会に申請し、つい先日許可が下りたばかりであり、公的な発表はまだ一切行われていない。それがファビアンの耳に入ったということは、彼が非常に高度で広範な情報網を持っていることを意味していた。
(情報源はどこだ…? マルクスさんを通じて教会に提出した計画書の情報が、何らかの形でファビアン殿に伝わったのか? いや、あるいはもっと直接的なルートか。ファビアン殿が手配し、常に影のように付き従う護衛たち。彼らは私の安全を守ると同時に、私の行動を監視し、ファビアン殿に報告する義務も負っているのだろう。ならば、私がマルクスさんとアヘン研究について話し合ったり、教会への計画書を作成したりしていたことも、当然彼らの知るところとなり、その情報がファビアン殿の耳に入るのは、むしろ当然の流れと考えるべきか)
どちらにせよ、自身の研究が常に監視下にあることを改めて認識させられ、レオナールは僅かな警戒を覚えつつも、隠す必要もないと判断し、素直に認めた。
「ええ、その通りです」レオナールは、落ち着いて答えた。「マルクスさんの協力を得て、教会を通じて正式な研究計画書を提出し、先日、幸いにも研究許可をいただくことができました。鎮痛作用を持つ成分の精製と、その安全かつ有効な利用法を探るのが、現在の主な目的でございます」
「そうか。やはりそうであったか」ファビアンは深く頷いた。彼の表情には、予想通りの情報を得たことへの満足感が浮かんでいる。
「それで、ファビアン殿は、なぜそのようなことをお尋ねになるのですか?」レオナールが、問い返した。ローネン州の件が一段落し、王宮での分析任務も完了した今、アヘンのような個人的な研究テーマにファビアンが興味を示す理由が、レオナールにはすぐには理解できなかった。
ファビアンは、窓の外の青空に視線を向けた後、再びレオナールの目を見据え、その真意を語り始めた。彼の声は、周囲の静けさに溶け込むように低く、しかし明確に響き渡った。
「実は、一月後に王都で、王国の辺境防衛戦略に関する重要な関係者会議が開催されることになっている。この会議には、王国の主要な辺境伯や、国境を守る有力貴族の代理人たちが参集する予定だ。その中には、アンブロワーズ伯爵の代理人も王都までやってくることになっているのだ」
レオナールは、その言葉に内心で息をのんだ。アンブロワーズ伯爵領。彼がファビアンから得た情報によれば、そこにはこの世界では極めて珍しい外科的技術が存在し、限定的ながら人体解剖すら行われている可能性のある、まさに彼が求めていた「外科への道」を開く鍵となる地だ。ファビアンが以前、その情報を断片的に与えてくれたが、まさかこれほど早く、その地の最も主要な関係者との接触の機会が訪れるとは予想していなかった。この偶然とも思えるタイミングは、ファビアンの周到な計画の一部なのだろうか。
「その会議の際に、私はアンブロワーズ伯爵の代理人と交渉しようと考えている。彼らは、長年培ってきた『外科的技術』を門外不出の秘伝として守っている。それを、我々に――具体的には君に――教えてもらうことはできないかと」
ファビアンの言葉は、レオナールが求めていた「外科への道」を開くための、まさに絶好の機会を示唆していた。これは単なる協力要請ではない。レオナールの個人的な探求目標と、王国の国防という国家的な利益を巧みに結びつけようとする、ファビアンならではの戦略的な動きだ。
「その交渉の材料として、だ」ファビアンは続けた。彼の目は、レオナールの反応を注意深く観察している。「君が、アンブロワーズで役立つであろう薬、つまり、彼らの外科治療をさらに発展させうるような『強力な鎮痛薬』を開発しているという情報を提示したいのだ。もし、君がその可能性を示せるのならば、彼らも秘匿してきた技術を開示することに前向きになるかもしれん」
それは、レオナールが望んでいた「外科への道」を開くための、ファビアンなりの「お膳立て」だった。レオナールは、ファビアンの周到な計画に感嘆する。彼は、レオナールの目的を見抜き、それと国家の利益とを巧みに結びつけようとしているのだ。特に、アンブロワーズ伯爵領が長年、隣国との国境紛争の最前線であり、戦傷治療が彼らの死活問題であったことを考えれば、ファビアンの提案は彼らの最も切実なニーズに直接訴えかけるものとなるだろう。
しかし、レオナールの頭には、ファビアンの期待と現実とのギャップが浮かんだ。
「ファビアン殿、お気持ちは大変ありがたいのですが、アヘンの研究はまだ基礎検討段階に過ぎません。つい先日、教会からアヘンを供給されたばかりで、有効成分の純粋な単離には至っておらず、もちろん最終的な製剤化までの道のりは、正直に申し上げて、まだ非常に長いと言わざるを得ません」
その言葉に、ファビアンの表情は変わらなかった。彼の冷静な視線は、レオナールの言葉の奥にある可能性を探っているかのようだ。
「それは承知している。君が、その研究を開始したばかりであることは、私も承知の上だ。だが、たとえ最終的な製剤化に至っていなくとも、途中の段階で構わない。今後の発展が期待できる、何らかの具体的な成果を示すことはできないか? 例えば、現時点での粗精製品であったとしても、既存の鎮痛薬と比べて、より強力な効果や、あるいはより安全な特性を示すといった、目に見える形での進展は?」
ファビアンの目は、期待に満ちてレオナールを見つめていた。彼の言葉の裏には、この交渉を成功させるために、あらゆる可能性を探りたいという強い意志が感じられた。それは、たとえ未完成の段階であっても、その「可能性の片鱗」を示すことが、相手の心を動かす鍵となると知っている、経験豊かな戦略家の視点だった。
レオナールは、思考を巡らせた。確かに、アヘン研究は始まったばかりだが、マルクスがアヘン樹脂から複数の画分をクロマトグラフィーで分離する試みは既に開始している。その中には、有効成分が比較的濃縮されたものが得られる可能性は十分にある。もし、それを動物実験で試すことができれば、具体的な薬効を示すことが可能かもしれない。
「……安全性試験を十分に行う必要はありますが」レオナールは、慎重に言葉を選びながら答えた。「もし、精製度が完全ではない、いわゆる粗精製の段階でよろしければ、ある程度の薬効を持つものを精製することは可能かもしれません。生アヘンをそのまま用いるよりも、不要な成分が取り除かれる分、少なくとも副作用は少なく、純度を高めることができれば、より安全で効果的なものを作り出すことができる可能性は十分にあります。それが、彼らの求める『強力な鎮痛薬』の期待に応えられるかどうかは分かりませんが、可能性を示すことはできるかと」
それは、レオナールの立場として示しうる現実的な提案だった。そして、この機会を逃す手はない、ともレオナールは考えていた。ファビアンがここまで道筋をつけてくれるのであれば、それに乗らない手はないだろう。アンブロワーズ伯爵領の外科技術は、彼が理想とする医療体系の最後のピースなのだ。
「分かりました、ファビアン殿。一月という短い期間ではありますが、まずはアヘンの粗精製に全力を注ぎ、アンブロワーズ伯爵代理人との交渉に使えるような、具体的な成果、少なくとも今後の発展を期待させるような進捗を出せるよう尽力いたします」
レオナールの力強い言葉に、ファビアンは満足げに頷いた。彼の顔には、微かな笑みが浮かんだように見えた。
「期待しているぞ、レオナール公子。君のその言葉で、この交渉の勝算はぐっと高まった。何か必要なものがあれば、遠慮なく申し出てほしい。あらゆる支援を惜しまない」
ファビアンは、そう言い残すと、レオナールの研究室を後にした。彼の足取りは、来た時よりも幾分か軽やかになったように見えた。王国の辺境防衛、そしてレオナールの才能の活用。その両面で、彼は大きな手応えを感じ取ったのだろう。
残されたレオナールは、すぐにマルクスとクラウスを呼び寄せた。彼らが現在取り組んでいる研究も重要だが、このファビアンの要請は、それを上回る優先度を持つ。
「マルクスさん、クラウスさん。急な話で申し訳ないのですが、これまでの研究を一時中断し、これから一月間、アヘンの粗精製に集中していただきたい。ファビアン殿からの喫緊の要請だ」
彼の言葉には、新たな、そして喫緊の任務への決意が満ちていた。




