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血液内科医、異世界転生する  作者:
Principal Investigator
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第九十六話:濾過と精製、そして未知の光

王立アステリア学院の一角、物質科学研究センターの裏手に設けられた実験用の窯から、また一つ、熱気を帯びたセラミックの円盤が慎重に取り出された。夜の帳が下り、周囲が静寂に包まれる中、その窯の前にだけは、橙色の光と、一人の男の粘り強い探求の熱が満ちていた。


「……また、だめか」


クラウスは、焼きあがったばかりのフィルター試作品を、特製のトングで掴みながら深くため息をついた。その実直そうな顔は煤と汗で汚れ、普段は几帳面な彼の手も、粘土と炭素の微粒子で黒ずんでいる。商業省の技官として、常に清浄で精密な環境で仕事をしてきた彼にとって、この土と炎にまみれる作業は、全く未知の領域だった。


彼の足元には、ひび割れたり、歪んだりした無数の失敗作が、静かに積み重なっていた。レオナールが「真球生成」の魔法で作り出した1マイクロメートル径の均一な炭素粒子。それをポアフォーマー(気孔形成材)として粘土に混ぜ込み、焼き固めることで微細な孔を持つフィルターを創り出す。その発想は、技術者であるクラウスにとって、まさに革命的だった。孔径そのものを、原料となる粒子の大きさで規定するという、驚くほど直接的で、そして論理的なアプローチ。これならば、自分が長年培ってきた精密測定と品質管理の技術を最大限に活かせると、当初は胸を高鳴らせた。


だが、現実は彼の想像を絶するほどに繊細で、そして気まぐれだった。


「焼成温度をわずかに上げただけで、気孔が潰れて表面がガラス化してしまう。逆に下げれば、今度は強度が足りず、水を通しただけで脆く崩れる。炭素粒子の混合比率を、全体の1パーセント変えただけでも、濾過速度が半分以下になったり、あるいは逆に細菌を素通ししてしまったり……」


クラウスは、ベルク紙にびっしりと書き込まれた実験記録を睨みつけた。商業省の度量衡管理部門での彼の仕事は、定められた「基準」を、いかに誤差なく維持し、管理するかという戦いだった。そこには絶対的な正解があり、求められるのは完璧なまでの再現性だった。だが、これは違う。基準そのものを、この手で、ゼロから生み出さなければならない。その変数の多さと、結果の不安定さが、彼の技術者としてのプライドを苛んでいた。


(レオナール様は、この完璧なまでの均一性を持つ炭素粒子を、こともなげに生み出された。だが、それを生かすも殺すも、この私、クラウスの腕一つにかかっている。このままでは、あの方の期待を裏切ってしまう……)


彼は、失敗作の山を忌々しげに一瞥すると、再び新しい粘土の塊を手に取った。諦めるという選択肢は、この実直な男の辞書にはなかった。


一方、マルクスは、レオナールから与えられた複数の研究テーマに同時進行で取り組んでいた。その中でも特に重点が置かれていたのは、教会から供給されたアヘンの精製だ。黒褐色の樹脂状の生アヘンから、目的の鎮痛成分を単離するため、マルクスは様々な溶媒や温度条件を試しながら、クロマトグラフィーでの分離条件を探っていた。彼の長年の薬師としての経験と、抽出・精製技術が遺憾なく発揮されていた。しかし、アヘンに含まれるアルカロイド成分は複雑に混じり合っており、現在の固定相(主にベルク紙の原料でもあるリノ草の繊維を加工したものや、木炭を粉砕した粉末)だけでは、真に有効な成分を純粋な形で分離・単離するには限界を感じていた。


レオナールもまた、マルクスからの報告を受け、新たな固定相の必要性を痛感していた。前世で大学院生として出入りしていた研究室では、クロマトグラフィーにはシリカゲルやアルミナといった高性能な固定相を使用していたはずだ。


(シリカゲル……二酸化ケイ素を原料に、特定の条件下で合成するんだったか? 細孔構造を制御して、表面積を広げる必要があるはずだが……さすがにそこまでの知識は持ち合わせていない。この世界の素材で、吸着性に優れ、かつ分離能の高い新しい固定相を見つけるのは、一筋縄ではいかないだろう)


彼は、アヘンから分離された画分を評価する方法にも頭を悩ませていた。ローネン州の件では、原因物質が単純な無機化合物であったため、硫化水素水による呈色反応で容易に可視化できた。しかし、アヘンの有効成分は有機化合物であり、特定の呈色反応で選択的に検出するのは困難が予想された。既に動物を用いた活性測定は試しているものの、アヘンのように複雑な成分が混じり合ったものを、一つ一つの画分ごとに動物に投与して効果を測定することは、途方もない労力と動物の犠牲を伴う。


(何か、もっと効率的で、非侵襲的な検出方法はないものか……)


そんなレオナールの脳裏に、以前魔道具工房の技師長から借り受けた、あの「光感知の魔道具」のことが浮かんだ 。あのセンサーは、彼の「光らないスパーク」、つまり高エネルギーの不可視光にも反応した。


(あの光センサーと、高エネルギーのスパーク……。もし、それらを組み合わせれば、クロマトグラフィーで分離された物質を、その性質に応じて自動的に検出する「検出器」のようなものが作れないだろうか? HPLC(高速液体クロマトグラフィー)でも、溶媒で分離した物質をUV(紫外線)吸収で検出していたはずだ。特定波長の光を当てると、特定の物質だけが光を吸収したり、あるいは蛍光を発したりする、という原理を利用できないか?)


このアイデアは、レオナールの胸に新たな希望の光を灯した。高エネルギーの不可視光は、物質の分子構造に干渉し、その電子状態を励起させることがある。その際、物質が特有の波長の光を吸収したり、あるいは異なる波長の光を放出する「蛍光」現象が起きる可能性がある。もし、アヘン中の特定の有効成分が、この不可視光に対して特異的な反応を示すのであれば、それは画期的な検出方法となるだろう。しかし、そのためには、まずアヘンの各成分がどのような波長の光を吸収・放出するのか、その特性を調べる必要がある。そして、その特性に合わせて、不可視光の波長を調整する技術も必要となる。


そんな思考に没頭していたある日の午後、レオナールの研究個室の扉がノックされた。ギルバートが手紙を携えて入室してきた。それは、ファビアン・クローウェルからのものだった。


『レオナール・ヴァルステリア公子殿。

ご息災にてお過ごしのことと存じます。

貴殿のローネン州における分析のご功績、並びに特別研究科における日々の研究にご尽力されていること、私も常に拝察しております。

つきましては、少々貴殿にお伺いしたい儀がございます。近いうちに貴殿の研究棟へ伺いたく存じますので、貴殿の都合の良い日時をいくつかご教示いただければ幸いです。

敬具

ファビアン・クローウェル』


手紙の内容は簡潔で、具体的な用件は記されていなかった 。しかし、ファビアンが「研究棟へ伺う」とわざわざ記していることから、レオナールはすぐにその内容が公的なものではない、非公式なものであることを察した。軍務省内にあるファビアンのオフィススペースへの呼び出しではなく、レオナールの研究棟までわざわざ来訪するという事実が、その推察を裏付けていた。


(一体、何用だろうか……? ローネン州の件が一段落し、しばらくは直接的な接触はないだろうと考えていた矢先の出来事だ。もしかしたら、王宮内で何らかの動きがあったのかもしれない。外科医術への道筋に関する情報だろうか? あるいは、ゴルディン商会絡みの新たな動きか?)


彼の胸には、期待と、そしてわずかなソワソワとした感情が交錯していた。未知の事態への予感と共に、レオナールは約束の日を待つことになった。

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