第九十三話:爆炎の魔術師と真球の魔法
アシュトン博士の混沌とした研究室を後にしたレオナールは、クレアの研究室があるという、別棟の反対側の最も奥まった区画へと向かった。アシュトン博士の言葉通り、その区画の廊下は他の場所よりも心なしか煤けており、時折、壁に補強が加えられたような跡が見受けられる。そして、一番奥の、一際頑丈そうな扉の前で足を止めた。扉には、簡素ながらも「―爆発魔法応用学―」と記された真新しいプレートが掲げられていた。
(なるほど、爆発魔法応用学、か……)
レオナールは、軽く息を整えると、扉を丁寧にノックした。しかし、中からの返事はない。もう一度、少し強めにノックしてみるが、やはり応答はなかった。不在なのだろうか、と彼が扉から離れようとした、その時。
ドォン!
先ほどアシュトン博士の研究室で聞いたものよりも、さらに近距離で、そして鮮明な爆発音が、今度は扉の向こう側ではなく、建物の外、おそらくは隣接する中庭のような場所から響いてきた。同時に、微かな振動と、何かが高速で風を切るような音、そして金属が硬い何かにぶつかるような甲高い残響。
(この音は……間違いない。クレア先生だ)
レオナールは、迷わず音のした方角へと足を向けた。別棟の裏手に出ると、そこには壁に囲まれた、実験用と思われる簡素な中庭が広がっていた。その中央で、防護眼鏡をかけ、革のエプロンを身に着けた一人の女性が、地面に置かれた金属製の的と、その手前にある奇妙な筒状の装置を、真剣な眼差しで見比べていた。
長い栗色の髪を無造作に後ろで一つに束ね、頬にはうっすらと煤が付いている。しかし、その真剣な横顔は、レオナールの記憶にある、かつての聡明で、少し勝ち気な家庭教師の面影を色濃く残していた。最後に会ったのは彼が7歳の頃だから、もう7、8年の歳月が流れている。当時20代後半だった彼女も、今は30代後半のはずだが、その研究に打ち込む情熱的な姿は、以前と少しも変わっていないように見えた。むしろ、経験を重ねたことで、その知的な美しさには、さらに磨きがかかっているようでもある。
「クレア先生」
レオナールが声をかけると、女性――クレアは、驚いたように振り返った。そして、レオナールの姿を認めると、その大きな瞳をさらに大きく見開き、やがて信じられないといった表情で、ゆっくりと彼に近づいてきた。
「……レオナール様? 本当に、レオナール様なの……? まさか……こんなに、大きく……」
彼女の声には、驚きと、そして再会を喜ぶ温かい響きがあった。レオナールもまた、懐かしい恩師の変わらぬ姿に、自然と笑みがこぼれた。
「はい、クレア先生。ご無沙汰しております。レオナールです」
「まあ! 本当にレオナール様だわ! あなた、最後に会った時はまだ私の肩くらいしかなかったのに、今ではすっかり見上げるような立派な青年に……。それに、レオナール様の噂は、この貴族学院にも届いているわよ! ローネン州での素晴らしい活躍、そして何よりも、王立学院に新設されたという『特別研究科』の最初の学生に選ばれたんですって? ターナー先生という、あの偏屈で有名な教授と共同で、次々と画期的な論文を発表しているとも聞いているわ。本当に、あなたは私の自慢の教え子よ!」
クレアは、手放しでレオナールの成長と業績を褒め称え、その目には教え子の成功を心から喜ぶ教師としての輝きがあった。レオナールもまた、彼女の変わらぬ快活さと、自分を覚えていてくれたことへの感謝で胸がいっぱいになった。
「先生こそ、お変わりなくご活躍のようで、何よりです。先ほどの音も、先生の研究の成果の一部かと拝察いたします」
レオナールの言葉に、クレアは悪戯っぽく笑った。
「ふふ、聞こえちゃった? ちょっと派手にやりすぎたかしら。隣の部屋の…ああ、アシュトン先生のことね。あの方は…その、一度研究に入り込むと、周りが全く見えなくなるみたいで…。時々、すごい剣幕で『静かに!』って怒鳴り込んでこられるの。私の実験の音が、彼の…そう、『愛しの微生物』とやらを観察する邪魔になるんですって。まあ、お互い様ではあるのだけれど…あの、なんというか、独特の…ええと、ねちっこい感じの視線で何かを観察される時の雰囲気とか、周りを気にしない言動とかは、正直ちょっと…苦手なのよねえ」
クレアは、言葉を選びながらも、ほんの少しだけ眉を寄せ、早口にそう付け加えた。その表情には、アシュトン博士の奇行に対する困惑や呆れに加えて、彼の踏み込みすぎるような独特の態度に対する、わずかな嫌悪感が滲んでいた。レオナールは、アシュトン博士のあの研究スタイルと、周囲への無頓着さ、そして時折見せる粘着質なまでの執着心を思い出し、クレアの言葉に内心で深く頷きつつ、苦笑を禁じ得なかった。(確かに、クレア先生が苦手意識を持つのも無理はないな…)
彼女は、先ほどまで調整していた筒状の装置に目をやった。それは、金属製の頑丈な台座に固定され、筒の先端は的の方を向いている。
「それで、先生。今はどのような研究を?」
「ええ、それがね……」クレアは、少しだけ表情を曇らせた。「以前は、とにかく爆発の規模を大きくして、そのエネルギーを最大化する研究に夢中だったの。でも、純粋な破壊力だけを追求する研究は、なかなか予算も降りにくくてね。それに、制御の難しさという壁にもぶつかってしまって……」
彼女は、かつての研究の行き詰まりを正直に語った。
「それで、少し視点を変えてみたの。研究を続けるため、不本意ではあるのだけれど、大規模な爆発は一旦封印して、今は『小規模な爆発の精密な運用』をテーマに、色々なアイデアを試しているところなのよ」
クレアは、筒状の装置を指差した。
「その一つが、これ。金属の球を、この筒の中で小規模な指向性爆発を起こして、高速で射出する装置。そうね…『魔力投射機』とでも呼べばいいかしら。将来的には、もっと精密に、安全に、そして様々な用途に応用できるようなものを目指しているの」
彼女の説明に、レオナールは内心で(やはり、銃器の開発か。先生らしい、直接的で強力な発想だ)と納得した。
「それでね、今一番頭を悩ませているのが、この射出する金属球なのよ」クレアは、足元に転がっていた小さな金属球を一つ拾い上げた。「以前は、鋳造で一つ一つ手作りしていたのだけど、どうしても完全な真球を作るのが難しくてね。球の形が歪んでいると、飛翔軌道が安定しないし、威力も落ちてしまうの。困っていたのだけど、最近、古い文献の中から面白い魔法を見つけてね」
彼女は、目を輝かせながら続けた。
「『真球生成』の魔法よ。材質は何でもいいの。金属でも、石でも、木片でも。それをこの魔法陣の上に置いて、必要な魔力を込めれば、あっという間に任意の大きさの真球に変形させてくれるの。鋳造の手間も省けるし、何よりも精度が高い。今はこの魔法を使って、様々な材質や質量の金属球を試作して、射出実験を繰り返しているところなのよ」
(真球は、投射物として考えた場合、空気抵抗や回転安定性の面で、必ずしも効率的とは言えないだろうな……。先端を尖らせたり、ライフリングのような回転を与える工夫が必要になるはずだ。だが、任意の素材を完璧な真球に変形させる魔法、か。それは、別の応用が考えられるかもしれない)
レオナールは、クレアの言葉に純粋な科学的興味を抱きながら、質問した。
「その真球生成の魔法ですが、先生。『任意の大きさ』の真球を作れる、と文献には? 例えば、大きさの上限や下限といった制限は特にないのでしょうか?」
「そうねえ……」クレアは首を傾げた。「文献には、特に大きさの制限については書かれていなかったわね。私は、この装置で使う、せいぜい指の先くらいの大きさの弾になるようなサイズしか試したことがないから、正確なところは分からないけれど……。でも、理論上は、十分な材料と魔力さえあれば、それこそ家くらいの大きさの真球だって作れるんじゃないかしら? ちょっと試してみたい気もするけれど、さすがにそんな大きな金属塊を用意するのも大変だし、置き場所にも困るわね」
彼女は、悪戯っぽく笑った。その発想は、やはりどこか爆発好きの彼女らしい。
「では、逆に、小さい方はどうなのでしょうか? 例えば、砂粒のように小さな真球や、あるいは、それこそアシュトン先生が観察されているような、目に見えないほどの微小な真球を作ることも、理論的には可能なのでしょうか?」
レオナールのその問いに、クレアは一瞬、きょとんとした顔をした。彼女の興味は、あくまで「弾」としての実用的なサイズに向いていたのだろう。それより小さなものを作るという発想は、全くなかったようだ。
「小さい方……? そうねえ、考えたこともなかったわ。でも、魔法の原理からすれば、できない理由はないんじゃないかしら?ねえ、レオナール様、ちょっと試してみる?」
爆発魔法はロマン




