第九十二話:変人の砦と爆炎の調べ
王立アステリア学院での自身の研究と、マルクス、クラウスという新たな仲間たちとの連携も徐々に軌道に乗り始めたある日の午後、レオナールは約束通り、貴族学院にいるセドリック・アシュトン博士の研究室の扉を叩いた。手には、ターナー教授やマルクスと共に物質科学研究センターで新たに分離・精製に成功した、数種類の純度の高い植物由来の色素サンプルを収めた木箱を抱えている。これらは、細胞染色法の開発において、アシュトン博士の持つ『深淵を覗く窓』Mk-IVによる詳細な観察と、彼の独創的な視点からの評価が不可欠だと考えられたからだ。
研究室の扉を開けると、そこは相変わらずアシュトン博士の「城」と化した混沌の空間だったが、以前訪れた時よりも心なしか整理されているような、いや、単に彼の「作品」である怪しげな培養瓶や乾燥標本、そして用途不明の金属部品の配置が、彼なりの法則性をもって変化しただけなのかもしれない。部屋の主であるアシュトン博士は、巨大な『深淵を覗く窓』Mk-IVの接眼レンズに顔を埋めるようにして何事かぶつぶつと呟いており、レオナールの入室にも気づかない様子だった。その集中力は、まさに彼の研究への没頭ぶりを物語っている。
レオナールが静かに声をかけると、博士はようやく顔を上げ、レオナールの姿を認めるなり、分厚い眼鏡の奥の目を子供のように輝かせた。
「おお、レオナール君ではないか! 待ちかねたぞ! 約束の色素は持ってきたかね? さあさあ、こちらへ!」
その時、研究室の窓の外から、ドォン!という、腹に響くような鈍い爆発音が、地響きと共にわずかに伝わってきた。窓ガラスがビリビリと微かに震える。レオナールは一瞬眉をひそめたが、アシュトン博士はまるで日常茶飯事であるかのように、全く意に介する様子がない。またか、といった顔で空を一度睨めつけただけだ。
レオナールは、その音にはとりあえず意識を向けず、持参した木箱を開け、中から丁寧にガラスの小瓶を取り出し、アシュトン博士の前の作業台に並べていった。
「先生、こちらが先日お話しした、新たに分離・精製した色素サンプルです。それぞれ、異なる植物から抽出し、クロマトグラフィーを用いて純度を高めたものです。この深紅色のものは竜血花から、こちらの鮮やかな青色のものは月影草の変種から、そしてこの黄色い粉末は…」
レオナールが説明を始めると、アシュトン博士は子供が新しい玩具を与えられた時のように、目をキラキラと輝かせながら小瓶を一つ一つ手に取り、光にかざしたり、匂いを嗅いだり(レオナールは内心、大丈夫だろうかと少し心配したが)し始めた。
「ほう、ほう! これはまた、実に見事な色合いではないか! 特にこの青! 深海の底の静寂を思わせる、実に神秘的な色だ! これで我が愛しの酵母ちゃんたちを染め上げたら、一体どんな姿を見せてくれることやら…ぐへへ…」
アシュトン博士は、早速いくつかの色素を微量、シャーレに取った自身の培養液に混ぜ込み、顕微鏡の準備を始めた。その手際は、普段のだらしなさからは想像もつかないほど素早く、正確だ。
「実はな、レオナール君」博士は、顕微鏡を覗き込みながら、興奮した口調で語り始めた。「君から以前もらった染色プロトコルを参考に、この儂も独自に染色方法の改良を試みておったのだ! 例えば、ミョウバン――そう、あの媒染剤として知られる白い結晶だ――あれを、細胞や微生物の染色に応用できないか、とな! 君も知っての通り、ミョウバンは布を染める際に、色素を繊維に強く定着させ、発色を良くする効果がある。ならば、細胞という名の『微小なる布地』に対しても、同様の効果が期待できるのではないかと考えたわけだ!」
「ミョウバンを、細胞染色に…ですか?」レオナールの声には、素直な驚きがあった。(ミョウバンを細胞染色に…!? 正直、全くの想定外だ。布を染める際に金属塩が媒染剤として使われることは知っていたが、まさかそれが生体染色にも応用できるとは…。グラム染色開発のために、あのルゴール液のような媒染剤をどうやって再現するか、ぼんやりと考えてはいたが、ミョウバンのような布の媒染で使うものが、細胞や細菌の染色にも有効だとは思いもよらなかった。だが、よく考えれば、金属イオンと色素と結合させ、不溶化することで定着性を高めるというのは、化学的に見て非常に合理的な発想だ。アシュトン先生、やはりただの変人ではない。その着眼点は、時として本質を突く…!)
「その通り! そして、その結果は驚くべきものだったぞ!」アシュトン博士は、接眼レンズから顔を上げ、得意満面に胸を張った。「ミョウバン溶液で細胞を前処理してから染色すると、しない場合と比較して、色素の定着が格段に良くなり、特に核と細胞質の色のコントラストが、それはもう見違えるほど鮮明になったのだ! まるで、ぼんやりと霞んでいた風景が、雨上がりの空のようにくっきりと浮かび上がってくるようだったわい! どうだね、この儂の慧眼! 君も、媒染の重要性には気づいておったかね?」
「先生、その発想は…まさに慧眼と申し上げるほかありません!」レオナールは、自身の思考の枠を超えた発見に、素直な称賛の言葉を向けた。「恥ずかしながら、ミョウバンが細胞染色にこれほど有効に応用できるとは思い至りませんでした。しかし、先生のおっしゃる通り、色素と対象物をより強く結びつけるという点で、非常に理にかなっています。布を染める際と同様、細胞染色においても、この『結びつきを強める』という考え方は、より鮮明で安定した染色像を得るための鍵となりそうですね」
「ふむ、やはり君も分かっておったか。さすがは我が好敵手だ」アシュトン博士は、満足げに頷いた。
その時、再び窓の外で、先ほどよりもやや大きな爆発音と、それに続いて何かが砕け散るような甲高い音が響いた。今度は、さすがのアシュトン博士も顔をしかめ、窓の方を忌々しげに睨みつけた。
「まったく、あのお転婆娘め! また何か派手にやらかしておるな! 貴族学院にいるクレアとかいう女性研究員が、最近になって爆発魔法の応用とかいう、実に騒々しい研究を始めてからというもの、この有様だ! おかげで、我が愛しの微生物たちが、振動で怯えてしまうではないか! 実にけしからん! うるさくてかなわんわい!」
アシュトン博士は、やれやれといった様子で肩をすくめた。
「クレア……先生? あの騒音の主が、やはりクレア先生でしたか」
レオナールの口から、懐かしさと共に、ある種の納得の言葉が漏れた。爆発魔法の研究。それは、かつて彼が幼い頃、ヴァルステリア家で魔法の基礎を教えてくれた、あの聡明で、少し勝ち気な家庭教師、クレアが得意とし、そして情熱を注いでいた研究テーマそのものだ。彼女がこの貴族学院で研究を続けていることは以前から知っていたが 、まさかこれほどまでに近隣に影響を及ぼすような「騒々しい」実験を、この別棟で行っているとは想像もしていなかった。
「おお、君も知っておるのかね? なかなかの美人ではあるが、いかんせん研究内容が物騒でな。おかげで、この別棟の住人は、儂くらいのものよ。他の研究室は、皆、振動と騒音を嫌って、とっくに本館の方へ移ってしもうたわい」
アシュトン博士は、やれやれといった様子で再び肩をすくめた。
(クレア先生が、やはりここで……。最後に会ったのは、7歳頃だったか。もう7、8年も前のことだ。彼女の研究は、その後どうなったのだろう。爆発魔法の応用……。アシュトン先生がこれほど迷惑がるほどの規模とは、相当な進展があったのかもしれないな。そして、もしかしたら、医学の分野でも……例えば、衝撃波による結石破砕のような、全く新しい治療法に応用できる可能性も、ゼロではないかもしれない)
レオナールの胸に、様々な思いが去来する。かつての恩師との再会への期待。彼女の研究の進展への興味。そして、それがもたらすかもしれない未来への、漠然とした予感。
「先生、そのクレア先生の研究室は、どちらにあるのでしょうか? もし、ご迷惑でなければ、少しご挨拶に伺いたいのですが。以前、大変お世話になった方なのです」
「ほう、君の知り合いかね。それならば、話は別だ」アシュトン博士は、少し意外そうな顔をしたが、すぐにニヤリと笑った。「クレア嬢の研究室は、この棟のちょうど反対側、一番奥の、一番頑丈に補強された部屋のはずだ。まあ、行くなら気をつけることだ。いつ爆発に巻き込まれるか分からんからな。ぐへへ」
「ありがとうございます。では、少し失礼して、ご挨拶に行ってまいります。色素の評価については、戻ってから改めてご相談させてください」
レオナールは、アシュトン博士に一礼すると、高鳴る胸を抑えながら、クレアの研究室があるという廊下の奥へと歩き出した。予期せぬ爆発音が、彼にとって、懐かしい過去と、そして新たな可能性への扉を開く合図となったのかもしれない。




