第九十一話:王命の余波、二つの工房と変人の誘い
国王エルネスト三世による「特別研究科」創設の王令。その勅許奏聞権に基づく決定は、王国の隅々にまで、驚くべき速さと重みをもって浸透し始めていた。レオナール・ヴァルステリアという若き才能に対する国家レベルでの期待は、彼が関わる研究プロジェクトのあらゆる側面に、目に見える形での「後押し」となって現れていた。
その最も顕著な例の一つが、マルクスと共に進めるアヘンの研究であった。鎮痛という医療の根幹に関わるこの物質を、安全かつ有効に利用するための基礎研究。レオナールが作成し、マルクスを通じて教会へと提出された詳細な研究計画書とアヘン使用の申請。通常であれば、教会の厳格な審査と宮廷医師団の見解も求められ、数ヶ月、あるいは年単位の時間を要するはずのその手続きは、今回、信じられないほどの速さで結論が出た。
「レオナール様、やはり、王命の力は絶大でございますな」マルクスは、教会からの正式な許可証と、厳重に封印されたアヘンの輸送箱を前に、興奮と畏敬の念を隠せない様子だった。「申請いたしましたアヘン、その全量が承認され、本日、王宮の特別輸送便にてこちらへ届けられました。通常、これほどの量の劇薬が、これほど速やかに、かつ満額で供給されるなど、前代未聞のこと。ローネン州でのご功績と、この特別研究科への王家からの期待がいかに大きいか、改めて痛感いたしました。まさに、驚くべき早さでの決定です」
「……教会、そして王国が、我々の研究にそれだけの価値を見出してくれているということなのだろうな」レオナールは、静かに、しかしその言葉の重みを噛み締めるように応じた。供給されたアヘンは、東方の国々で採取され、黒褐色の樹脂状に固められた「生アヘン」と呼ばれるものだった。特有の甘く重い香りが、厳重な梱包の上からでも研究室に微かに漂ってくる。
「マルクスさん、早速ですが、この樹脂状アヘンを、様々な溶媒――まずはアルコール系のものから試しましょう――に少量ずつ溶解させ、先日調整を終えたカラムクロマトグラフィーでの分離に適した条件を探っていきましょう。おそらく、複数のアルカロイド成分が複雑に混じり合っているはずです。我々の目標は、その中から真に鎮痛効果を持つ主成分を単離し、可能であれば結晶化すること。そして、クヴィックを使った動物実験で、その効果と安全性を慎重に評価していくことになります」
「承知いたしました。まずは、このアヘン樹脂の溶解度試験からですね。その後、最適な固定相と移動相の組み合わせを見つけ出し、各フラクションを分離・分取していく。骨の折れる作業になりそうですが、やりがいはありますな」
マルクスは、長年培ってきた薬草や鉱物からの成分抽出の経験と、新たに習得したクロマトグラフィーの技術を駆使し、熟練の手つきでアヘンの分析準備に取り掛かった。彼の傍らでは、新しく研究チームに加わったクラウスが、精密天秤や特注のガラス器具の準備を黙々と手伝っている。その瞳には、未知の物質への探求心と、自らの技術が医療の進歩に貢献できるかもしれないという、静かな興奮が宿っていた。
その一方で、もう一つの重要な研究課題——アオカビからの抗菌物質探索に不可欠な、確実な濾過滅菌技術の確立——は、依然として難航していた。この課題の主担当となったクラウスは、マルクスが様々な環境から採取し、培養してくれた非病原性の細菌懸濁液を使い、レオナールが指示した通り、様々な素焼きの器や、目の細かい織物、さらには特殊な鉱物粉末を焼き固めた板など、考えうるあらゆる素材の濾過性能を、地道に検証し続けていた。
しかし、結果は芳しくなかった。ベルク紙よりはましな素材もいくつか見つかったものの、液体培地中の微細な細菌や、特に小さなカビの胞子を完全に、かつ安定して除去できるフィルターは、なかなか見つからない。
「やはり、既存の素材だけでは限界があるのかもしれません……」
クラウスは、連日の実験で疲労の色を隠せないながらも、決して諦めることなく、新たなアプローチを模索していた。彼は、レオナールやターナー教授とも相談の上、ついに素材そのものから作り出すという、途方もない試みに踏み出した。王都の粘土職人から様々な種類の粘土を取り寄せ、その粒子径や焼成温度、成形方法などを変えながら、文字通り「フィルター専用のセラミック」を自作しようというのだ。
その結果、物質科学研究センターの裏手、普段はあまり使われていない中庭の一角には、クラウスが設計し、レンガ職人に依頼して作らせた、比較的小型ながらも本格的な実験用の窯がいくつも設置されることになった。彼は、まるで陶工のように、自ら粘土を捏ね、成形し、そして窯の火力を調整しながら、来る日も来る日も試作品を焼き続けている。その姿は、もはや精密測定の技官というよりは、未知の素材に取り憑かれた求道者のようでもあった。その執念が実を結ぶのか、まだ誰にも分からない。だが、彼のその真摯な探求こそが、未来の医療を支える重要な礎となることを、レオナールは確信していた。
そんな中、アヘン研究の初期データが出始め、クラウスが粘土と格闘する日々が続いていたある日の午後。レオナールの研究個室に、一枚の、相変わらず悪筆ながらもどこか勢いのある手紙が届けられた。差出人は、貴族学院のセドリック・アシュトン博士。
『レオナール君、息災かね? 先日君から送ってくれた染色プロトコルとやらは、実に興味深く、この儂も独自に様々な植物や鉱物の粉末を培養液に混ぜて、我が愛しの変形体や酵母ちゃんたちが、どのような色に染まるか試しておるのだ! これがまた、実に奥深く、奇々怪々な結果が得られておってな! 中には、細胞の一部だけが、まるで宝石のように輝き出すものもあるのだぞ! これはもう、芸術の域だ!
つきましてはだ、君が例のクロマトグラフィーとかいう小賢しい技で純度を高めたという色素を、ぜひともこの儂にも分けてもらいたいのだ。それを使って、我が『深淵を覗く窓』Mk-IVで、さらなる微小世界の色彩を探求してみたいのでな。
ああ、それから、他にもいくつか染色について相談したいことがある。君の慧眼を借りたいのだ。近いうちに、例の色素を持って、我が城まで馳せ参じるように! 面白いものが見られるかもしれんぞ? ぐへへ…』
アシュトン博士らしい、芝居がかった、そしてどこか挑戦的な文面に、レオナールは思わず笑みを漏らした。彼との染色法の共同研究(というよりは、博士の自由な探求への協力)は、襲撃未遂事件の後、しばらく停滞していたが、博士の探求心は、やはり危険への恐怖よりも勝っていたらしい。そして、レオナールが進めている色素の精製に、彼なりの興味と期待を寄せているようだ。
(アシュトン先生も、染色に本格的に取り組んでくれているか。彼独自の視点からのアドバイスは貴重だろう。そして何より、Mk-IVの性能は、染色法の評価において非常に重要だ。あれ以来いくつか精製に成功した色素を、あの究極の顕微鏡で見ることができれば、新たな発見があるかもしれない)
彼の胸は、アシュトン博士との再会と、研究の新たな進展への期待で高鳴った。
「ギルバート」
傍らに控える従者に声をかける。
「貴族学院のアシュトン先生からだ。近いうちに、精製した染色色素のサンプルを持って、ご挨拶に伺いたい。特別研究科の現状についても、改めてきちんとご報告しておきたいしな」
「かしこまりました、レオナール様。護衛の手配も含め、万全を期して準備いたします」
ギルバートは、主人がアシュトン博士と再び学術的な交流を深めようとしていることを理解し、迅速に対応した。二つの工房――アヘンと向き合うマルクスの薬化学の工房、そして土と炎と格闘するクラウスの陶芸(?)の工房――での地道な努力が続く中、レオナールの探求は、再び貴族学院の変人の砦へと、その歩みを進めようとしていた。




