第八十三話:新たなる仲間、鎮痛への光明
マルクスとクラウスとの面談は、レオナールの予想以上に速やかに、そして非常に前向きな雰囲気の中で進んだ。王立アステリア学院の一角、物質科学研究センター内に設けられたレオナールの新しい研究個室は、まだ真新しい木の香りが漂い、壁一面に作り付けられた書架には、これから彼の知識の源となるであろう書物が徐々に運び込まれつつあった。先日トーマスから個人的に贈られた、落ち着いた深緑色の革張りの椅子に腰掛けた二人は、レオナールからの正式な研究員としての招聘に対し、それぞれ期待と、わずかな緊張の入り混じった表情で真摯に応じた。
まず、薬草学と鉱物知識に長け、温和な人柄のマルクス。彼は、レオナールの申し出を聞き終えるやいなや、人の良さそうな笑みを一層深め、二つ返事で快諾した。
「レオナール様、このマルクス、喜んでお力添えさせていただきます。私の知識が、レオナール様やターナー先生の進められる壮大な研究の、ほんの僅かでもお役に立てるのであれば、これ以上の喜びはございません。私はもともと、特定の組織に長期間属するというよりは、様々な場所からの依頼に応じて薬草の鑑定や調合、時には鉱物薬の助言などを行っておりましたので、比較的自由な立場です。いつでも研究に参加できます」
その言葉には、長年培ってきた専門知識を新たな分野で活かせることへの純粋な喜びが感じられた。ただ、と彼は少しだけ申し訳なさそうに、しかし大切なこととして付け加えた。
「一つだけ、お願いと申しますか、ご理解いただきたい儀がございまして。私は、王都の大教会に正式に登録されている薬師でもありまして、時折、長年懇意にしていただいている教会から、医療行為、特に薬剤の使用に関する助言を求められることがあるのです。まあ、ほとんどが古くから伝わる薬草の適切な使い方や、禁忌に関する確認、あるいは稀な症例に対する薬学的見解といった、私の専門知識を必要とするご相談程度なのですが…。そちらの依頼には、可能な限り応じさせていただきたいと考えております。もちろん、こちらの研究に支障が出ない範囲で、ということは重々承知しておりますが、よろしいでしょうか?」
「もちろんです、マルクスさん。あなたのその豊富な知識と経験は、私たちの研究にとって不可欠なものですから、ご心配には及びません。教会へのご協力は、研究に支障のない範囲で続けていただいて全く構いません。むしろ、教会との繋がりは、将来的に我々の研究成果を社会に還元する上で、重要な意味を持つかもしれません」
レオナールの快諾と、彼の立場への深い理解を示す言葉に、マルクスは心から安堵した表情を浮かべ、改めて深く頭を下げた。「ありがとうございます。必ずや、お役に立てるよう尽力いたします」
次に、精密測定と実験器具の扱いに卓越した技術を持つクラウス。彼は、実直そうな顔つきをわずかに緊張させ、背筋を伸ばしたまま、しかしはっきりとした口調で答えた。
「レオナール様、この度のご招聘、誠に光栄に存じます。以前、ローネン州の調査でご一緒させていただいた際、レオナール様の科学的な分析手法と、真理を探究される真摯な姿勢に、技術者として深い感銘を受けました。私も、ぜひ特別研究科の一員として、レオナール様とターナー先生の研究のお手伝いをさせていただきたいと、強く願っております」
彼の言葉からは、レオナールの手腕に対する純粋な敬意と、新たな研究への参加意欲が明確に感じられた。
「ただ、誠に恐縮ながら、現在所属しております商業省の度量衡管理部門からの正式な退職手続きと、後任への業務引き継ぎに、少々時間を要するかと存じます。私の担当業務は、王国の度量衡の基準維持という、地味ではありますが重要なものですので、疎かにはできません。およそ一月ほどお待ちいただければ、全ての引き継ぎを完了させ、必ずこちらへ馳せ参じます」
「分かりました、クラウスさん。あなたのその誠実な仕事ぶりに、改めて敬意を表します。一月後、お待ちしております。あなたの精密な技術は、我々の研究の精度を格段に向上させてくれるでしょう。焦る必要はありませんから、しっかりと引き継ぎを済ませてください」
レオナールの温かい言葉に、クラウスは深く頭を下げ、その目には新たな職場への期待と、これまでの職場への責任感が同居しているようだった。
こうして、二人の強力な仲間を得る見通しが立ち、レオナールの研究体制は大きく前進することになった。クラウスが正式に合流するまでの間、まずはマルクスと共に、レオナールが現在最も力を入れている研究テーマの一つに取り組むことになった。そのための環境も、物質科学研究センターの設備と、レオナール専用の研究個室の存在によって、以前とは比較にならないほど充実していた。
面談が終わり、クラウスが「一月後、改めてご挨拶に伺います」と固い決意を滲ませて退室した後、レオナールはマルクスに改めて向き直った。窓から差し込む柔らかな日差しが、室内に並べられた真新しい実験器具をキラキラと照らし出している。
「マルクスさん、早速ですが、今後の研究の展望について、いくつかお話ししておきたいことがあります。特に、あなたの薬草学と物質精製の専門知識が、鍵となるであろう分野です」
彼は、ベルク紙に記した構想図を広げながら、熱意を込めて説明を始めた。
「現在、私が貴族学院のセドリック・アシュトン先生…ええ、少々風変わりな方ですが、微小なものを観察する独自の道具をお持ちでして…その先生と共に進めているのが、細胞や微生物を可視化するための『染色技術』の開発です。ご存知の通り、多くの細胞や、病の原因となるかもしれないさらに小さな微生物は、それ自体に色がほとんどなく、そのまま観察してもその詳細な姿を捉えることは困難です。そこで、特定の構造や成分だけを選択的に染め上げる色素を見つけ出し、それらを目に見える形にできれば、病気の診断は飛躍的に進歩するはずです。アシュトン先生の観察道具と、この染色技術、そして以前ローネン州の分析で用いたクロマトグラフィーによる分離技術を組み合わせることで、より解像度が高く、目的の対象を選択的に、かつ鮮明に染め分けが可能な技術を模索しています。マルクスさんの薬草や鉱物に関する深い知識は、新たな色素の発見や、その効率的な抽出・精製方法の確立において、必ずや大きな力となるでしょう。天然物の中には、我々がまだ知らない、驚くべき特性を持つ色素が眠っているかもしれませんからね」
「細胞や微生物の染色……。それはまた、我々薬師の常識を遥かに超える、壮大な試みですな」マルクスは、レオナールの言葉に目を見張り、その革新的な発想に驚嘆の声を上げた。「ですが、もしそれが実現すれば、病の原因究明に、まさに革命が起きるやもしれません。これまで手探りだった診断が、確かな目を持つことになるのですから。微力ながら、私の持つ全ての知識と経験を注ぎ込み、全力でお手伝いさせていただきます」
マルクスは、目を輝かせながら力強く頷いた。彼の知的好奇心は、レオナールの言葉によって大きく刺激されたようだった。
「そしてもう一つ、これは薬師であるマルクスさんには、少々驚かれるかもしれませんが……」レオナールは、周囲に軽く視線を配り、少し声を潜めて続けた。「私は、外科的な治療技術にも強い関心を抱いています。現在の薬草学や、限定的な治癒魔法だけでは、どうしても救えない命があることを、これまでの経験で痛感してきました。身体の内部に直接手を加え、病巣を取り除いたり、傷ついた部分を修復したりする技術。それが確立されれば、治療の選択肢は格段に広がるはずです。その点で、先日、アンブロワーズ伯爵領で、戦傷治療に特化した高度な外科的処置が行われているという情報を得ました」
「外科……アンブロワーズで、ですか?」マルクスの表情が、わずかに曇った。辺境の、しかも戦傷という言葉が、穏やかな彼に一瞬の影を落としたのかもしれない。王都で薬師として活動してきた彼にとって、それは縁遠い、そしてどこか不穏な響きを持つ言葉だったのだろう。
「ええ。そして、そのアンブロワーズの外科治療において、兎人族の方々が『麻酔』の役割で非常に重用されているようなのです」 レオナールは、先日ミミルとリラに会って実際に『痺れの術』を体験した経緯を、その効果の驚くべき正確さや安全性も含めて、手短に説明した。「驚くべきことに、それはまさしく局所麻酔でした。彼らの協力があれば、外科手術の安全性と精度は飛躍的に向上するでしょう。本来であれば、その術者を王都に招き、研究に協力していただきたいところですが、彼らの生活や文化を尊重すれば、それは現実的ではありませんし、倫理的にも問題があるでしょう」
「兎人族の麻酔魔法……。そのようなものが、本当に実在したとは……。古の伝承やおとぎ話の中にしか存在しないものとばかり…」マルクスは、驚きを隠せない様子だった。その目は、未知の魔法への畏敬と、医学の新たな可能性への期待で揺れていた。
「そこで、別のアプローチとして、薬物による鎮痛、特に強力な『鎮痛薬』の開発を進めたいと考えています。効果的な鎮痛薬があれば、患者さんの苦痛を和らげ、より複雑な外科手術を行う上での大きな助けとなるはずです。その点でお伺いしたいのですが……現在、アヘンのような強力な鎮痛作用を持つ物質は、どのように扱われているのでしょうか? マルクスさんは教会にも登録されている薬師でいらっしゃいますから、そのあたりの事情にお詳しいのではないかと」
レオナールの問いに、マルクスは少し考え込むように顎に手を当て、慎重に言葉を選びながら答えた。
「アヘン、でございますか……。確かに、あれは比類なき鎮痛作用を持つと同時に、一度その魔力に取り憑かれれば、心身共に人を破滅へと導く、恐ろしい劇薬でもあります」彼の声には、その物質が持つ二面性への深い理解と警戒が滲んでいた。「アステリア王国において、アヘンは国家と教会によって極めて厳しく管理されており、許可なく民間で売買することは、たとえ少量であっても重罪とされ、発覚すれば即刻摘発の対象となります。その流通経路も厳しく監視されています」
「やはり、厳重な禁制なのですね……」レオナールの声に、わずかな落胆の色が浮かんだ。
「はい。ですが」マルクスは続けた。「例外がございます。アヘンの医療目的での使用、所持、そして輸入は、王国においては教会組織にのみ、極めて厳格な条件の下で許可されているのです。特に、末期の病によって耐え難い苦痛に苛まれる方や、戦場での重傷、あるいは事故による激しい痛みなどで、他のどのような薬草を用いてもその苦痛を取り除くことができない患者様に対して、教会に所属し、特別な認可を受けた薬師や神官が、細心の注意を払いながら使用することがあります。主に、これ以上の治療法がない場合の、痛みを和らげ、穏やかな終末期を迎えるための、最後の手段として、ですね。その使用量や頻度も、厳格に記録・管理されています」
「教会のみが、そのような特権的な扱いを……。では、そのアヘン自体は、どこから供給されているのですか?」
「主な産出国――東方のいくつかの国々が知られておりますが――では、多くの場合、現地の教会組織がアヘンを栽培する芥子の畑の管理から、アヘンの採取、そしてその品質管理に至るまで、全ての工程を厳格に統制していると聞いております。そして、その教会ルートを通じて、アステリア王国の教会へと、正規の輸入品として、年に数回、少量ずつですが供給されているのです。アヘンの取り扱いに関する法制度や社会的な認識は、国によって大きく異なり、アステリア王国のように教会管理下で限定的に医療使用を認める国もあれば、国民感情や宗教的理由から完全に禁止している国、あるいは逆に、驚くほど緩やかな規制しかない国もあると聞きます。まさに、その対応はまちまち、といったところでしょうな」
マルクスの説明は、レオナールが想像していた以上に複雑で、宗教と国家が深く関与する、この世界の薬物管理の一端を垣間見せるものだった。
「なるほど……。非常にデリケートな問題であることは理解できました。では、もし私が、純粋な研究目的でアヘンを使用したいと考えた場合、それは可能なのでしょうか? 例えば、その鎮痛成分を抽出し、より安全な形での利用法を探る、といった目的です」
「はい」マルクスは力強く頷いた。「レオナール様が王立アステリア学院の特別研究科という公的な立場で、その研究目的と必要性、そして安全管理体制について詳細な計画書を作成し、教会を通じて正式に申請されれば、許可が下りる可能性は十分にございます。特に、私のような教会登録薬師がその研究計画に関与し、監督責任を負う形であれば、話はよりスムーズに進むかと存じます。もちろん、入手できるアヘンの量には限りがあり、その管理と使用に関しては、通常の薬品とは比較にならないほど厳格な規定が設けられることになりますが、研究のための道が完全に閉ざされているわけではございません」
マルクスの言葉は、レオナールにとって新たな、そして大きな光明だった。アヘンという強力な物質を、研究という公的な目的の下で、正当に扱える道がある。それは、彼が目指す鎮痛薬開発、ひいては全身麻酔法の確立に向けた、非常に重要な一歩となる可能性を秘めていた。
「貴重な情報をありがとうございます、マルクスさん。あなたの知識と、教会との繋がりは、本当に頼りになります。この件、本格的に検討を進めたいと思います」
レオナールは、心からの感謝を伝えた。新しい仲間、マルクスの加入によって、彼の探求はまた一つ、具体的な道筋を得たのだった。染色技術の向上、そして鎮痛薬開発への挑戦。彼の心は、次なる研究への期待と、それを支えてくれる仲間たちへの信頼で満たされていた。




