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血液内科医、異世界転生する  作者: あ
Principal Investigator
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第八十四話:青きカビの希望、見えざる盾の鍛錬

国王エルネスト三世より「特別研究科」創設の王命が下ってから数週間。レオナールは、王立アステリア学院内に用意された広大な研究個室で、新たな研究生活の基盤を固めつつあった。その最初の取り組みの一つが、マルクスとの面談で具体的な道筋が見えたアヘンの研究であった。鎮痛という医療の根幹に関わるこの物質を、安全かつ有効に利用するための基礎研究は、外科医療の発展にも不可欠と考えられたからだ。レオナールは早速、研究目的、アヘンの入手を教会から行うことの明記、そして抽出される有効成分の分析・検証計画などを詳細に記した研究計画書を、ベルク紙数枚にわたり丁寧に作成した。


「マルクスさん、先日お話ししたアヘンに関する研究計画書です。あなたの薬師としての立場と知識、そして教会との繋がりが、この研究を進める上で不可欠となります。どうか、教会関係者の方々へ、この計画の重要性と安全管理体制について、ご説明いただけないでしょうか。特に、我々が開発したクロマトグラフィーを用いれば、アヘンに含まれる様々な成分を分離し、その中から真に鎮痛効果を持つ有効な成分だけを、より純粋な形で取り出すことができるかもしれません。そうなれば、不要な成分による副作用を減らし、より安全な形でその恩恵を患者さんに届けることができる可能性があります」

研究員としての活動を正式に開始したマルクスに、レオナールは完成したばかりの計画書を手渡した。その表情は真剣そのものだった。


マルクスは、レオナールの計画書に目を通し、その緻密さと倫理観への配慮、そしてクロマトグラフィーという新技術の応用可能性に深く頷いた。

「レオナール様、承知いたしました。この計画書であれば、教会側にもご理解いただけることでしょう。私が責任をもって、しかるべき筋へとお繋ぎし、研究許可を得られるよう尽力いたします。アヘンは劇薬なればこそ、その研究は慎重かつ厳格に行われねばなりませんからな」

マルクスの心強い言葉に、レオナールは深く感謝した。これで、鎮痛薬開発への道が、また一歩開かれた。


そして、アヘンの研究と並行して、レオナールは長年構想しつつも、そのあまりの壮大さと困難さから本格的な着手をためらっていた、もう一つの重要な研究テーマへと、ついに踏み出す決意を固めた。それは、細菌感染症に対する特効薬——「抗菌薬」の開発であった。王都の薬師通りで見た梅毒が疑われる症例。そして何よりも、愛する母エレオノーラの命を最終的に奪った、あの時の高熱と全身状態の悪化――おそらくは制御できなかった細菌感染症に対する、痛恨の記憶。前世では当たり前であった強力な抗菌薬が存在せず、ただ無力感に打ちひしがれるしかなかったあの経験は、レオナールの胸に深く刻まれていた。これらは目に見えない病原体が引き起こす悲劇であり、それらを根本から治療する手段の確立は、彼の医師としての魂が最も強く求めるものの一つだった。ヴァルステリア領で見たゴードン氏のような、白血病が強く疑われる血液の病とはまた異なる、しかし同様に多くの人々を苦しめているであろう「見えざる敵」との戦いだ。


(前世では、ペニシリンの発見が医療の歴史を大きく変えた。この世界にも、同様の奇跡が眠っているかもしれない。いや、奇跡ではなく、地道な観察と実験、そして科学的な思考によって、それは見つけ出せるはずだ)

彼の最初のターゲットは、前世のペニシリンの故事に倣い、「アオカビ」であった。


「ギルバート、頼みがある。王都周辺の、なるべく多様な環境——例えば、古いパン屋の片隅、湿気の多い森の朽木、あるいは保存状態の悪い果物などから、青緑色や白っぽい綿状のカビが生えているものを、いくつか集めてきてもらえないだろうか。もちろん、直接手で触れたり、胞子を吸い込んだりしないよう、細心の注意を払って」

ギルバートは、主人のまたしても奇妙な収集依頼に一瞬眉をひそめたが、レオナールの真剣な眼差しに、何も言わずに頷いた。「かしこまりました。すぐに手配いたします」


数日後、レオナールの研究個室の隣に設けられた彼専用の小規模な実験準備室には、ギルバートが集めてきた様々な種類のカビ(らしきもの)が付着したパンの切れ端や朽木、果物の皮などが、ガラスシャーレに入れられて並べられた。その光景は、事情を知らない者が見れば、ただのゴミの山にしか見えないだろう。


レオナールは、アシュトン博士から譲り受けた顕微鏡『深淵を覗く窓』Mk-IIIを慎重に調整し、それぞれのカビの胞子や菌糸の形態を観察し、スケッチしていく。

(この、筆先が分かれたような特徴的な分生子を持つものは…ペニシリウム属に近いかもしれない。こちらは、もっと球状の胞子嚢か…アスペルギルス属の可能性も…)

前世の知識と、目の前の観察結果を照らし合わせながら、彼はいくつかの有望そうなカビを選抜した。次に、それらを培養し、抗菌物質を産生しているかどうかを調べる必要がある。


彼は、マルクスに協力を仰ぎ、カビを液体培養するための培地の調製に取り掛かった。薬草の煮出し汁や、麦芽糖、そして微量の鉱物塩などを組み合わせ、様々な組成の培地を試作する。そして、選抜したカビをそれぞれの培地に植え付け、温度と湿度を管理しながら数日間培養した。


やがて、いくつかのフラスコの中では、カビが液体表面に見事なマットを形成し、培地の色も微妙に変化し始めた。

「よし、十分に増殖したようだ。次に、この培養液から菌体を取り除き、上清だけを回収する」

レオナールは、以前ローネン州の血液サンプル処理で用いた、魔法による高速回転を利用した簡易遠心分離の技術を応用し、培養液中の菌体を沈殿させた。さらに、目の細かいベルク紙をフィルターとして用い、上清を丁寧に濾過していく。


「さて、この濾過した上清が本当に無菌かどうか、そしてカビの胞子などが残っていないかを確認する必要があるな」

レオナールは、濾過した上清のごく一部を、新しい滅菌済みの液体培地(カビも細菌も増殖しやすいもの)に数滴加え、数日間、注意深く培養を続けた。

しかし、数日後、その確認用の培地は僅かに白濁し、顕微鏡で観察すると、元のカビとは異なる、ごく微細な細菌と思われるものの増殖が確認された。さらに、いくつかの培地では、濾過したはずのカビの胞子が発芽し、再び菌糸を伸ばし始めているものも見られた。

「……やはり、ベルク紙だけでは限界があるか」レオナールは眉をひそめた。「紙の繊維の隙間を、細菌や小さなカビの胞子が通り抜けてしまっているようだ。これでは、正確な抗菌活性の評価はできない」

彼は、ベルク紙の製造工程——植物繊維の叩解度や、繊維を漉く際の密度、そして乾燥工程など——を再検討する必要性を感じた。より目の細かい、均一な構造の紙を作るか、あるいは紙以外の、例えば目の細かい絹織物や、あるいは特殊な鉱物粉末を焼き固めた多孔質の板のような、新しい濾過素材を開発する必要があるかもしれない。あるいは、魔法による滅菌――例えば、特定の波長の光を照射する、あるいは微弱な魔力で直接微生物を不活化するといった方法も、並行して模索すべきだろう。


「マルクスさん、もう一つ重要な仕事をお願いしたいのです」レオナールは、濾過上清の確認作業を一旦中断し、マルクスに向き直った。「抗菌薬の開発には、その薬が効くべき相手、つまり病気の原因となる微生物が必要です。そこで、マルクスさんには、王都や近隣の診療所、あるいは教会が運営する施療院などで見られる様々な感染症の患者さんから、その原因と思われる菌体を、可能な範囲でサンプリングしてきていただきたいのです」

「感染症の…菌体を、ですか?」マルクスの顔に、緊張の色が浮かんだ。それは、目に見えない病の源に直接触れるという、薬師にとっても未知で、そして危険を伴う可能性のある作業だった。


「ええ。例えば、化膿した傷口の膿、咳がひどい患者さんの痰、あるいは高熱を出している方の血液などです。これは、以前ローネン州の調査の際に準備した個人用防護具一式です」レオナールは、研究室の棚から、トーマスに手配してもらった未使用の布製マスク、革手袋、布製ガウン、そして水晶ゴーグルを取り出し、マルクスに手渡した。 「サンプリングの際には、必ずこれらを着用し、直接検体に触れたり、飛沫を吸い込んだりすることのないよう、細心の注意を払ってください。患者さんの同意を得ること、そして何よりもマルクスさん自身の安全を確保することが最優先です。採取した検体は、滅菌した容器に入れ、できるだけ速やかにこちらのセンターに持ち帰っていただきたい。そして、可能であれば、その患者さんの症状や、検体の簡単な性状(色、匂い、粘度など)も記録していただけると助かります」

レオナールは、具体的な手順と注意点を説明し、安全対策の重要性を改めて強調した。


「……承知いたしました」マルクスは、レオナールから手渡された防護具の重みを確かめながら、しばしの沈黙の後、静かに、しかし決意を込めて頷いた。「レオナール様の目指される医療の実現のため、そして何よりも、今まさに病に苦しむ人々を救うため、このマルクス、できる限りの協力をさせていただきます。この防護具があれば、安心して作業に臨めます」

彼の薬師としての使命感が、未知への恐怖を上回った瞬間だった。レオナールの徹底した安全への配慮が、彼の決意を後押ししたのかもしれない。

「ありがとうございます、マルクスさん。あなたのような方の協力がなければ、この研究は決して進みません」レオナールは、心からの感謝を伝えた。


マルクスが病原微生物のサンプリングに奔走してくれるであろう、これからの一月ほどの期間。レオナールは、その間に、フィルターの性能向上をはじめとした殺菌方法開発と、採取されてくるであろう様々な微生物を培養し、同定し(アシュトン博士の顕微鏡と、開発中の染色技術が鍵となるだろう)、そしてアオカビの培養上清がそれらに対してどのような効果を示すのか、そのスクリーニング手法を確立することに全力を注ぐつもりだった。


(クラウスさんが合流するまでには、基本的なスクリーニングの流れを確立しておきたい。彼が来れば、その精密な技術で、より効率的かつ定量的な評価が可能になるはずだ)

青きカビが秘める未知の力。それは、この世界の医療に革命をもたらす「見えざる盾」となるかもしれない。レオナールの新たな、そして壮大な挑戦が、静かに、しかし確かな熱意をもって、この王国の片隅で始まろうとしていた。彼の頭の中には、阻止円が鮮やかに現れるシャーレの光景が、既に描き出されていた。

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