赤き瞳の術者、示された可能性
翌朝、夜明けの薄靄がまだ王都の西側市場を包む中、レオナールとトーマスは、従者ギルバートと数名の護衛を伴い、昨日ミミルと約束した場所へと足を運んでいた。市場の喧騒が本格的に始まる前の、比較的静かな時間帯。それでも、荷馬車を引く音や、早朝から準備を始める商人たちの声が、活気ある一日の始まりを告げている。
「本当に、あっさりと教えてくれると良いのですが……」
トーマスが、期待と不安の入り混じった声でレオナールに囁いた。昨日のミミルの言葉は軽やかだったが、グライフ商会周辺で嗅ぎまわっていた際の情報の秘匿性を考えると、まだ半信半疑な部分が残っているのだろう。
「ああ。ミミル殿の様子からは、少なくとも彼自身は『痺れの術』をそれほど重大な秘密とは考えていないようだった。問題は、実際に術を使える方がどう考えているか、だな」
レオナールも、期待を胸にしながらも、慎重な姿勢を崩さなかった。彼の脳裏には、アンブロワーズ領のグライフ商会と、彼らが独占的に行っているという外科的処置、そしてそこに深く関わっているとされる兎人族の姿があった。その技術の根幹に、この『痺れの術』があるのだとすれば、そう簡単に全容が明らかになるとは思えなかった。
約束の場所である薬草商「緑葉堂」の倉庫裏手に着くと、既にミミルの姿があった。彼は、日の光を浴びてルビーのように輝く赤い瞳を細め、にこやかに二人を迎えた。その隣には、もう一人、小柄な兎人族の女性が静かに佇んでいた。
「よう、レオナール様、トーマス様。約束通り、術が使えるヤツを連れてきたぜ」
ミミルが、いつもの軽妙な口調で紹介する。
隣に立つ女性は、歳は二十代半ばといったところか。ミミルよりもさらに柔和な顔立ちで、長く豊かな亜麻色の毛並みが印象的だった。服装はミミルと同様、動きやすい革製の旅装束だが、腰には薬草を入れる革袋の他に、小さなナイフや、骨を削ったような細い道具がいくつか下げられているのが見える。彼女もまた、大きな赤い瞳でレオナールたちをじっと見つめていたが、その視線はミミルのような好奇心よりも、むしろ静かな観察と、どこか内省的な雰囲気を漂わせている。
「こちらはリラ。オラと同じ集落の出で、『痺れの術』にかけては、そこらの若いのよりゃあ、ちいとばかし上手だ。リラ、こっちがヴァルステリアのレオナール様と、ベルク商会のトーマス様だ」
リラと紹介された女性は、レオナールとトーマスに向かって、深々と、しかしどこかぎこちないお辞儀をした。その動作は、人間の貴族社会の礼儀作法に慣れていないことを示している。
「リラ、と申しますだ。ミミルから、話は聞いておりますです。わっちの術が、何かお役に、立てるなら……」
彼女の声は、ミミルのような明瞭な訛りとは少し異なり、言葉の端々に不慣れな丁寧さと、わずかな詰まりが感じられた。一生懸命、人間の言葉を選んでいるような、そんな印象を受ける。
「リラ殿、本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」レオナールは、丁寧に挨拶を返した。「私はレオナール・ヴァルステリア。薬学と、そして人体の仕組みについて学んでいる者です。あなた方の『痺れの術』が、人の苦痛を和らげる上で非常に重要な技術であると聞き、ぜひともその原理と効果について、学ばせていただきたいのです」
彼は、研究者としての真摯な態度で、自身の目的を伝えた。リラは、レオナールの言葉に静かに頷き、ミミルの方をちらりと見た。ミミルが「大丈夫だ、レオナール様は悪い人じゃねえよ」とでも言うように軽く頷くと、リラは再びレオナールに向き直った。
「分かりましただ。わっちの術でよろしければ、お見せしますです。……どこに、おかけすれば、よろしいですかな?」
その辿々しいながらも真摯な承諾に、レオナールだけでなく、トーマスも驚いた表情を見せた。ミミルの言葉通り、彼らはこの術を秘匿するつもりは毛頭ないようだ。
「では、リラ殿。もしよろしければ、私の左腕にお願いできますでしょうか。まずは、この辺り、手首の少し上に」
レオナールは、自身の左腕の、比較的感覚の鋭敏な部分を指さした。前世の医師としての経験から、麻酔の効果を最も客観的に評価できる部位を選んだつもりだった。
リラは静かに頷くと、レオナールの腕の前に進み出た。彼女は目を閉じ、精神を集中させるように、ふぅ、と細く息を吐く。そして、ごく短い、しかし独特のリズムを持つ数節の言葉を、囁くように口にした。それは、レオナールには理解できない、古の呪文のような響きを持っていた。詠唱が終わると同時に、リラはそっと右の人差し指をレオナールの腕の指定された部分に、触れるか触れないかの距離でかざした。
その瞬間、レオナールの腕の、指をかざされた部分を中心とした直径にしておよそ2センチメートルほどの範囲に、奇妙な感覚が走った。ピリピリとした微かな痺れの後、急速にその部分の感覚が鈍麻していく。まるで、薄い膜が一枚覆いかぶさったかのように、触覚や痛覚が曖昧になっていくのが分かった。
(……これは!)
レオナールは、内心で興奮を抑えきれなかった。ミミルの説明通り、意識ははっきりしており、腕も自由に動かせる。しかし、術をかけられた部分だけが、確かに感覚を失っているのだ。持参していた細い針(もちろん滅菌済みだ)で、その部分を軽く突いてみる。痛みは全く感じない。ただ、何かが触れている、という圧迫感だけがぼんやりと伝わってくる。
(まさしく、局所麻酔だ……。リドカインの皮下注射で得られるような、明確な鎮痛効果と感覚遮断。効果範囲も限定的で、術者の意図通りにコントロールされている。詠唱と指をかざすという単純な動作で、これほどの効果が得られるとは……)
彼は、この世界の魔法が持つ、未知の可能性を改めて感じていた。
「いかが、ですかな?」
リラが、少し不安そうな表情でレオナールの顔を覗き込んだ。その問いかけも、どこかぎこちない。
「素晴らしい……。本当に、素晴らしい効果です、リラ殿」レオナールは、感嘆を隠さずに言った。「痛みが完全に消えています。もし、よろしければ、もう一箇所、試させていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい、構いませぬです」
リラの返事は、やはり少し硬いが、承諾の意思は明確だった。
「では、こちらの肘の内側……この部分にお願いします」
レオナールは、右肘の内側、皮膚のすぐ下を尺骨神経が走行している部分を正確に指さした。もし、この『痺れの術』が、神経そのものにも作用するのなら……。
リラは再び頷き、先ほどと同じように短い詠唱の後、レオナールの肘に指をかざした。数秒後、レオナールの右手の小指と薬指の半分、そしてそれらに繋がる手のひらの一部に、特徴的な痺れと感覚鈍麻が広がっていくのが分かった。
(……間違いない! 尺骨神経ブロックだ! 神経伝達を、選択的に、かつ可逆的に遮断している! なんという精度だ……!)
前世で、超音波ガイド下に針を進め、神経周囲に局所麻酔薬を注入することで得ていた効果が、この世界では、魔法によって、かくも容易に実現されている。その事実に、レオナールは戦慄に近い感動を覚えていた。この技術があれば、小規模な外科手術であれば、患者にほとんど苦痛を与えることなく施行できる可能性が飛躍的に高まる。
「レオナール様……? 大丈夫ですか? 顔色が……」
トーマスが、レオナールのただならぬ様子の変化に気づき、心配そうに声をかけた。彼の目には、友人が突然、腕の感覚を失っていく様子が、奇妙で、そして少し恐ろしく映っていたのかもしれない。
「ああ、大丈夫だ、トーマス。むしろ、感動しているんだ」レオナールは、興奮を抑えながら答えた。「リラ殿、ミミル殿、本当にありがとうございました。この術は……私が想像していた以上に、素晴らしい可能性を秘めていることが分かりました」
彼は、改めて二人の兎人族に深く頭を下げた。
「それにしても……」トーマスが、まだ信じられないといった表情で口を開いた。「これほど重要な技術を、こうも簡単に見せていただけるとは……。正直、驚いています。我々が以前、アンブロワーズの方で情報を集めようとした時は、まるで鉄壁のようなガードで、兎人族の方々が特別な術を使うという噂すら、なかなか掴めなかったのですが……」
その言葉に、ミミルはきょとんとした顔をした。
「え? そうなのかい? 別に、この『痺れの術』は、オラたちの間じゃ、そんなに隠すような大層なもんじゃねえよ。昔から、怪我した時に使う、便利な知恵袋みてえなもんだ。グライフ商会? ああ、アンブロワーズの、あの大きな店だろ? オラたちは、あそことは直接取引もねえし、どんなやり方してるかなんて知らねえよ。あそこは、なんだか色々と『秘密』が多いって噂は聞くけどな」
ミミルのあっけらかんとした言葉に、レオナールとトーマスは顔を見合わせた。
(……そういうことか)レオナールは、全てを理解した。
グライフ商会は、その高度な(そしておそらくは倫理的にグレーな部分も含む)外科的処置を秘匿するために、兎人族の『痺れの術』の存在も、外部に漏れないよう厳重に管理していたのだろう。彼らが囲い込んでいる兎人族も、口止めされているか、あるいは外部との接触を制限されているのかもしれない。だから、ファビアンがアンブロワーズ側から情報を探ろうとした際や、トーマスが商業ルートで調査した際には、その情報が固く閉ざされていたのだ。
だが、ミミルたちのような、グライフ商会とは直接関わりのない兎人族のコミュニティにとっては、『痺れの術』は生活の知恵であり、特に秘匿するようなものではなかった。彼らが今回、こうもあっさりとレオナールに協力してくれたのは、レオナールの真摯な態度と、薬草商エルダスという信頼できる仲介者がいたこと、そして何よりも、彼らの文化の中では、この術を独占したり、秘密にしたりするという発想自体があまりなかったからなのかもしれない。
「どうやら、我々は少し、遠回りをしていたようですね」
トーマスが、苦笑しながら言った。
レオナールも頷いた。だが、遠回りをしたからこそ、グライフ商会の存在や、この世界の外科医療の特殊な状況を知ることができた。そして今、目の前には、その壁を打ち破る可能性を秘めた、具体的な技術がある。
(この『痺れの術』……。その原理を解明し、もし可能ならば、他の人間でも使えるように改良したり、あるいはもっと効果範囲や持続時間を調整できるような、新しい魔法として体系化したりすることができれば……。外科手術の安全性と適用範囲は、飛躍的に高まるはずだ)
レオナールは、リラとミミルに改めて深く感謝の言葉を述べ、彼らの集落へ帰る準備が終わるまで、さらに『痺れの術』に関する詳細な話を聞かせてもらうことにした。その赤き瞳の術者が持つ秘術は、彼が目指す未来の医療を照らし出す、一条の確かな光明となるはずだった。彼の探求の旅は、また新たな、そして刺激的な局面を迎えていた。