第七十九話:研究室の拡充と森の民の報せ
勅許奏聞権による王令という国家レベルの承認は、レオナールの研究環境に劇的な変化をもたらし始めていた。副学長の尽力により、特別研究科の予算執行は、ターナー教授がセンター長を務める『アステリア学院 物質科学研究センター』を通じて行われることが早々に決定された。そして、その予算規模は、レオナールの予想を遥かに超えるものであり、以前副学長からも話があった通り、数名の専任研究員を雇用することも十分に可能な額であることが改めて確認されたのだ。それは、彼の研究を飛躍的に進展させる大きな追い風となるはずだった。
「研究員を、本格的に募集できるのですね…」
副学長から、予算の具体的な運用計画と人員雇用枠について正式な説明を受けたレオナールは、感慨深げに呟いた。これまでの彼の研究は、ターナー教授との共同作業が中心であり、細々とした実験準備やデータ整理は、ギルバートの手を借りるか、あるいは彼自身が夜を徹して行うのが常であった。しかし、彼の抱える研究テーマは、あまりにも多岐にわたり、そして壮大だった。
元素の地図作り――この世界の物質の根源を明らかにする基礎研究。細胞・微生物染色法の開発――未知の病の診断に不可欠な技術。そして、その先に見据えるのは、抗菌薬の開発、外科的アプローチの確立、さらにはトーマスからもたらされた兎人族の麻酔魔法の解析と応用……。どれもが、人類の医療を根底から変えうる可能性を秘めているが、同時に、膨大な時間と労力、そして多様な専門知識を必要とするものばかりだった。レオナール一人、あるいはターナー教授との二人三脚だけでは、その全てを同時並行で進めるには限界があることを、彼自身、痛いほど感じ始めていた。この物質科学研究センターという素晴らしい器を得た今、それを最大限に活かすためには、信頼できる仲間、共に探求を進めることのできる研究員たちの力が必要不可欠だった。
その日の午後、レオナールはターナー教授の研究室(今はセンター長室と呼ぶべきかもしれない、以前よりは格段に片付いた部屋)を訪れ、具体的な相談を持ちかけた。壁には、ターナー教授が長年かけて集めたであろう珍しい鉱石の標本や、レオナールがスケッチした原子モデルの試案などが、整然と、しかしどこか熱気を帯びて飾られている。
「先生、副学長先生との間で、研究員の雇用について具体的な話がまとまりました。正式に募集を開始し、我々の研究を手伝ってくれる仲間を迎え入れたいと考えております」
レオナールの言葉に、文献の山から顔を上げたターナー教授は、丸眼鏡の奥の目を細めた。その表情には、弟子の成長を見守るような温かさと、研究の新たな展開への期待が入り混じっている。
「ほう、ついにその段階か。まあ、君一人に任せておくと、いつ過労で倒れるか分からんと思っていたところだ。それに、儂もそろそろ、細かい実験作業よりは、全体の指揮や考察に集中したいと思っていたところでもある。特に、あのローネン州の連中と王宮の施設で作業した経験は、人に任せることの利点と難しさを改めて教えてくれたからのう。彼らの働きは見事だった」
教授は、ぶっきらぼうな口調の中にも、レオナールの負担を案じ、そして研究のさらなる進展への期待を滲ませた。ローネン州の分析プロジェクトは、結果的に国家を動かすほどの大きな成果を上げたが、それは同時に、レオナールとターナー教授だけでは決して成し遂げられなかったであろう、チームワークの賜物でもあったのだ。
「それで、先生。私の個人的な希望としては、二人……いえ、可能であれば三人ほど、専門知識と熱意のある方に来ていただければ、と」
「三人、か。まあ、君が抱えている研究テーマの数を考えれば、それくらいは必要かもしれんな。どのような人材を望むのだ? 具体的な心当たりでもあるのかね?」
レオナールは、迷うことなく答えた。彼の頭の中には、既に具体的な顔ぶれが、彼らの専門性と、研究に対する真摯な眼差しと共に、鮮明に浮かんでいたのだ。
「先生が話題に挙げた、エルミーラさんのチームの方々です。彼女の統率力と調整能力は素晴らしいものでしたが、今回は特に、実際に手を動かし、分析の中核を担ってくださった方々にご協力をお願いしたいのです。具体的には、薬草学と鉱物知識に長け、抽出や精製技術にも明るいマルクスさん。そして、精密測定と実験器具の扱いに卓越した技術を持ち、どんな微細な変化も見逃さない観察眼を持つクラウスさん。最後に……刻印回路技術者であり、精密な魔力制御に関しては右に出る者のいないセリアさん。彼女たちのような、確かな技術と真摯な研究姿勢を持つ方々ならば、我々の研究を大きく前進させてくれるはずです。ローネン州のプロジェクトでは、彼女たちの専門的な手腕がなければ、あの短期間での原因物質特定は不可能だったでしょう」
レオナールは、それぞれの専門分野と、プロジェクトでの具体的な貢献を挙げながら、彼らが即戦力として、そして将来の発展のためにも不可欠な人材であることを強調した。
ターナー教授は、レオナールが挙げた名前に、ふむ、と深く頷いた。彼もまた、王宮での分析作業を通じて、彼らの能力の高さを間近で見ていたのだ。単なる技術者としてだけでなく、未知の課題に対して真摯に取り組み、解決策を見つけ出そうとする探求心をも、彼らは示していた。
「確かに、あの者たちならば信頼できるだろう。特に、セリア君の魔力制御の精密さ、クラウス君の測定技術の確かさは、我々の元素研究においても大きな力となるはずだ。マルクス君の薬草や鉱物に関する知識も、染色法の開発や、あるいは将来的な薬物探索において貴重なものとなるだろう。よし、彼らに的を絞って声をかけてみるのが良いかもしれんな。公募という形を取りつつも、彼らにとっても魅力的な条件を提示し、こちらから積極的に働きかける、というわけだ。」
「ありがとうございます、先生。もし、彼ら三人が揃って応募してくれたなら……その時は、全員採用させていただきたいと考えているのですが」
「ふん、予算の心配はするな、と副学長が太鼓判を押したのだろう? ならば、ためらう必要もあるまい。優秀な人材は、いくらいても困ることはない。三人とも、か。それは賑やかになりそうだな。そして、君の研究も、ようやく本格的な『チーム』として動き出すわけだ」
教授は、少しだけ楽しそうな、そしてどこか遠い目をして呟いた。かつて、彼が若くして教授となり、多くの才能ある学生たちと共に研究に明け暮れた日々を思い出しているのかもしれない。その言葉には、レオナールの研究が新たなステージへと進むことへの、確かな期待が込められていた。
話がまとまると、レオナールは早速、物質科学研究センターの正式な研究員募集の告知を学院の掲示板に張り出す手配をすると共に、マルクス、クラウス、そしてセリアの三人に宛てて、個別の手紙を書き始めた。それは、公募の案内という形を取りながらも、彼らのこれまでの貢献への感謝と、レオナール自身が彼らの能力をいかに高く評価し、そして共に新たな研究に挑戦したいと願っているかを、真摯な言葉で綴ったものだった。特にセリアに対しては、彼女の持つ刻印回路の専門知識が、レオナールの構想する未来の医療機器開発において、どれほど重要な意味を持つか、という期待も僅かに滲ませた。この新しい研究センターで、彼らが持つそれぞれの専門性と、レオナールの医学知識・魔法技術が融合すれば、計り知れないほどの成果を生み出すことができるかもしれない、という熱い思いを込めて。
三通の手紙を書き終え、丁寧に封蝋を施そうとしていた、まさにその時。再び、彼の研究個室の扉がノックされた。ギルバートが顔を覗かせ、「レオナール様、トーマス様が至急お話したいことがあると、お見えです」と告げる。
(トーマスが? このタイミングで? 彼のことだから、また何か重要な情報を持ってきたに違いない)
胸騒ぎと、新たな情報への期待が入り混じる中、レオナールはギルバートにトーマスを通すよう指示した。
息を切らせて入ってきたトーマスは、レオナールの顔を見るなり、いつになく真剣な、そして興奮を隠しきれない表情で切り出した。
「レオナール様! 大変です……いや、大変な情報が入りました! 以前お話しした、兎人族の件です!」
「兎人族の? 何かわかったのか!?」レオナールも、思わず身を乗り出した。兎人族の麻酔魔法は、外科への道を開くための、最も重要な鍵の一つなのだ。その情報収集はトーマスに依頼していたが、これほど早く具体的な報せが届くとは予想していなかった。
「はい!」トーマスは頷き、一気にまくし立てた。「彼らの主な自治区の場所が、ほぼ特定できました。アンブロワーズ伯爵領のすぐ隣、というわけではありませんが、そこからさほど遠くない、王都との中間に位置する広大な森林地帯の一部のようです。そして、さらに重要なことが!」
トーマスは、そこで一度言葉を切り、周囲を気にするように声を潜めた。
「かのゴルディン商会が再編される過程で、様々な利権や取引ルートが明るみに出たのですが、その中の一つに、ある中堅の薬草商会が、その兎人族の自治区と、古くから薬草の取引を行っているという情報があったのです。どうやら、再建前のゴルディン商会も間接的にその薬草取引のルートを利用していた時期があったようでして、その情報が今回の再建の過程で我々ベルク商会にもたらされました。ゴルディンが直接取引していたわけではないようですが、その薬草商会とは繋がりがあった、と」
「薬草商会が、兎人族と薬草取引を…?」レオナールは、その情報の意味を素早く分析した。アンブロワーズ領のグライフ商会とは別のルートで、兎人族との接点が見つかったということか。そして、その情報源が、皮肉にもゴルディン商会の再編過程にあったとは。
「そして、ここからが本題です」トーマスの目が、鋭く光った。「その取引ルートを通じて、明日、あるいは明後日にも、兎人族の行商人の一団が、王都の城壁近くの指定市場まで、薬草の納品にやってくるという情報を掴みました。彼らは定期的に王都を訪れているようですが、今回は特に大規模な取引になる見込みだとか。その薬草商会が仲介する形になるでしょう」
「兎人族の行商人が、王都に…?」
「はい。そして、レオナール様。もし、お望みであれば…私の手配で、その行商人の代表者と、直接お会いし、お話をする機会を設けることが可能かもしれません。もちろん、相手が応じるかどうかは分かりませんし、彼らが麻酔魔法について簡単に口を開くとも思えませんが、少なくとも、接触の糸口は作れるかと。…いかがなさいますか?」
トーマスの言葉は、レオナールにとって、まさに渡りに船だった。兎人族の麻酔魔法について、これほど早く直接的な情報を得るチャンスが訪れるとは。しかし、同時に、一抹の不安もよぎる。
(亜人族……。これまで、王都の雑踏の中で、獣人の姿を遠目に見たことはあるが、直接言葉を交わしたことなど一度もない。ましてや、兎人族という、文献でもあまり詳しく触れられていない種族だ。彼らは、人間に対してどのような感情を抱いているのだろうか? 警戒されたり、あるいは敵意を持たれたりする可能性は? 下手に接触して、彼らの機嫌を損ねるようなことになれば、麻酔魔法の情報どころではなくなってしまうかもしれない……)
わずかな躊躇。それは、未知なるものへの当然の警戒心と、事を慎重に進めたいという彼の性格から来るものだった。だが、それは一瞬だった。彼の知的好奇心と、医療の未来を切り拓きたいという強い使命感が、その不安を打ち消す。
「……ありがとう、トーマス。その機会、ぜひともお願いしたい」レオナールは、顔を上げ、友人に力強く答えた。「兎人族の方々が、どのような魔法を使い、それがどのような原理で作用するのか…。直接お話を伺えるのであれば、それに越したことはない。危険は承知の上だ。準備を頼めるだろうか? 彼らの文化や習慣について、事前に何か知っておくべきことがあれば、それも教えてほしい」
トーマスは、レオナールの決意に満ちた表情を見て、満足げに頷いた。
「かしこまりました。では、早速手配を進めます。おそらく、明日の午後には、具体的な時間と場所をご連絡できるかと。彼らの習慣については、仲介する薬草商会の者から、できる限りの情報を集めてお伝えします。くれぐれも、護衛は万全に」
「ああ、もちろんだ」
トーマスが退出した後、レオナールは書き終えた手紙に視線を向けた。研究員の募集、そして兎人族との接触。彼の研究は、新たな仲間と、未知の知識との出会いによって、また一つ、大きな転換点を迎えようとしていた。




