第七十八話:兎人の秘術、麻酔への光明
ターナー教授と共に進める元素の地図作りは着実に進展を見せ、先日アシュトン博士から正式に譲り受けた『深淵を覗く窓』Mk-IIIの調整もようやく終え、いよいよ本格的な細胞染色法の開発に着手しようとしていた、まさにその矢先のことだった。レオナールは、植物色素の抽出手順と化学的性質に関する考察をベルク紙にまとめていたが、その集中は、控えめなノックの音によって破られた。
「レオナール様、トーマス様がお見えです。お通ししてもよろしいでしょうか」
扉の外から聞こえるギルバートの声に、レオナールはペンを置いた。「ああ、頼む」と応じると、間もなく扉が静かに開き、トーマス=ベルクが少しばかり興奮した面持ちで入室してきた。彼の手には、何枚かのベルク紙の束が、いつものようにしっかりと握られている。その目には、商談を前にした時のような鋭さと、友人に対する親しみが同居していた。
「やあ、トーマス。急な訪問だが、何か進展があったのか? 君がわざわざここまで足を運んでくれるとは、余程のことだろう」
レオナールの言葉に、トーマスは力強く頷き、持参した資料をレオナールの広大な執務机の一角に丁寧に広げた。
「レオナール様、以前ご依頼いただいていたアンブロワーズ伯爵領とグライフ商会について、いくつか確度の高い情報が得られましたので、ご報告にあがりました。例の件、ファビアン殿からもたらされた情報だけでは、まだ不明瞭な点が多かったかと存じますので」
レオナールは、トーマスの配慮に感謝しつつ、彼の報告に意識を集中させた。ファビアンの情報は確かに重要だったが、それはあくまで国家的な視点からの断片。ベルク商会が持つ、より地元の経済活動や噂話に根差した情報網が、その隙間を埋めてくれる可能性に期待が高まる。
「まず、グライフ商会が高度な外科的技術を保有していることは、ほぼ間違いないようです」トーマスは、落ち着いた口調で切り出した。「アンブロワーズ領内だけでなく、近隣の領地からも、戦傷や複雑な怪我を負った者が、多額の治療費と引き換えに彼らの治療を受けているという話が複数確認できました。治療内容は徹底して秘匿されており、具体的な術式や使用される道具などは一切不明ですが、少なくとも、四肢の切断のような、通常の薬師では到底不可能な治療が行われていることは確かなようです。そして、その成功率は、噂の域を出ませんが、決して低くない、と」
「やはりそうか…」レオナールは静かに頷いた。「外科技術の存在は確からしいな。ファビアン殿が示唆していた、限定的な解剖についてはどうだろうか? 何か情報は?」
トーマスは、わずかに表情を曇らせ、首を横に振った。
「そちらについては、残念ながら確たる情報は得られませんでした。グライフ商会が解剖を行っているという噂自体は、確かに存在します。しかし、それが公然と、あるいは金銭の授受を伴って定期的に行われているという証拠は見つかりませんでした。彼らがその外科技術をどのようにして維持・発展させているのか、その核心部分…特に、人体構造に関する知識の源については、依然として厚い謎のベールに包まれたままです」
レオナールは内心で(やはり、そう簡単には尻尾を掴ませないか)と呟いた。解剖は、この世界の倫理観や法制度に照らして、極めてデリケートな問題だ。たとえ一部の進取的な領主の黙認があったとしても、それが公になることはないだろう。グライフ商会も、その技術の根幹に関わる情報を、そう易々とは漏らすまい。
「ですが」とトーマスは言葉を続けた。彼の目に、再び興味深い光が宿る。「もう一つ、非常に重要な情報があります。グライフ商会で外科治療の担い手として雇用されている亜人についてです。ファビアン殿のお話では詳細不明でしたが、彼らは主に『兎人族』である可能性が高い、ということが分かりました」
「兎人族…」レオナールは、その種族名に心当たりがあった。学院の図書館で読み漁った博物誌や各地の風土記の中には、確かに様々な亜人種に関する記述があり、兎人族の存在も記されていたはずだ。多くは、その身体的特徴——例えば、跳躍力に優れる、聴覚が鋭敏であるといった、動物的な側面からの記述が中心で、彼らが持つ固有の文化や特殊な能力については、あまり詳しい情報は得られていなかったと記憶している。レオナールが真に驚いたのは、その兎人族が、外科という極めて専門的な分野で、しかも中心的な役割を担っているという、全く予想外の事実だった。一体、彼らのどのような特性が、外科医療と結びついているというのだろうか?
レオナールの疑問を察したかのように、トーマスは核心の情報を続けた。
「はい。そして、彼らが外科的処置に深く関わっている最大の理由ですが、どうやら兎人族には、他者に作用して痛みを感じにくくさせる、特有の魔法があるようなのです。それを利用して、手術中の患者の苦痛を和らげている、と」
「痛みを感じにくくする魔法だと…!?」
今度こそ、レオナールの目が見開かれた。麻酔。彼が渇望し、その必要性を痛感していた、安全な外科手術に不可欠な技術。その鍵が、特定の種族の特殊能力という、全く予想もしていなかった形で目の前に現れたのだ。
「ええ。どのような原理の魔法なのか、詳細は不明です。ただ、兎人族の中でも特定の者だけが使える、あるいは長年の厳しい修練によって習得できる、極めて特殊な技能のようで、グライフ商会はそうした能力を持つ兎人族を優先的に雇用し、破格の待遇で囲い込んでいるとのことです」
レオナールの頭の中で、バラバラだった知識のピースが、急速に繋がり始めていた。彼は以前、王立学院の図書館で古代魔法に関する文献を渉猟していた際、「対象の五感を鈍麻させ、現し世の苦しみから一時的に解放する呪法」といった記述や、「精霊の力を借りて心の平穏をもたらし、肉体の苦痛を忘れさせる秘術」といった、やや曖昧で象徴的な表現を目にしたことがあった。それらは、失われた高度な治癒魔法の一端なのか、あるいは単なる気休めや、宗教的な儀式の一種だろうと、当時はそれほど深く追求していなかった。だが、トーマスの言葉は、それらの記述が、特定の種族に限定された形で、実用的な「麻酔魔法」として現存している可能性を強く示唆していた。
(麻酔魔法……。古文書の記述は、単なるおとぎ話や象徴的な表現ではなかったというのか。しかも、それが特定の種族の特技として、実用レベルで使われている…。これは、とてつもない情報だ!)
前世では、吸入麻酔薬や静脈麻酔薬、あるいは硬膜外麻酔といった、科学的根拠に基づいた洗練された麻酔技術が存在した。この世界でそれを再現するには、薬理学、生理学、そして何よりも安全な麻酔薬そのものの発見と開発が不可欠であり、その道のりは果てしなく遠いと感じていた。しかし、もし魔法による安全かつ効果的な麻酔が存在するならば、話は全く違ってくる。それは、この世界の医療レベルを、一気に数段階引き上げる可能性を秘めている。
「トーマス、その兎人族の魔法について、さらに詳しい情報を集めることは可能だろうか? 例えば、具体的にどのような効果があるのか——意識レベルへの影響、筋弛緩作用の有無、術後の回復過程など。それから、魔法の持続時間はどれくらいなのか、使用する兎人族の練度によって効果に差が出るのか、そして最も重要なことだが、副作用や危険性のようなものは報告されていないのか。あるいは、その魔法を使う兎人族が、アンブロワーズ領以外にもコミュニティを形成していたり、他の地域でも同様の技術が使われたりしている事例はないのだろうか……」
レオナールの口からは、次から次へと具体的な質問が溢れ出た。それは、医師としての、そして研究者としての、尽きない知的好奇心と探求心の表れだった。
トーマスは、レオナールのその熱意に圧倒されながらも、真剣な表情で頷いた。
「最大限努力しますが、アンブロワーズ領、特にグライフ商会は情報を厳しく管理しており、兎人族の魔法に関しては、その中でも最高レベルの機密事項とされているようです。ですが、いくつか手掛かりはあります。アンブロワーズ領は、もともと亜人との交易も盛んな土地柄であり、ベルク商会も細々とながら取引関係があります。そのルートを辿り、慎重に情報を集めてみましょう。時間と費用はかかるかもしれませんが……」トーマスは言葉を選びながらも、可能性を示唆した。
「ありがとう、トーマス。君の情報は、いつもながら非常に重要だ。費用については心配ない。私の個人資産から、あるいはターナー先生と相談して研究費から捻出することも可能だろう」レオナールは、友人に深く感謝した。「この『兎人族の麻酔魔法』は、俺が目指す医療にとって、文字通りブレイクスルーになるかもしれない。外科治療の可能性を、大きく広げる鍵だ」
彼の胸には、新たな探求への強い動機と、それを実現するための具体的な道筋が見え始めていた。グライフ商会の外科技術そのものに直接アクセスするのは、現時点では困難かもしれない。だが、兎人族の麻酔魔法。その原理を解明し、もし可能ならば自分でも再現、あるいは改良し、より安全で普遍的な技術へと昇華させることができれば、外科手術の安全性と適用範囲は飛躍的に高まるはずだ。
(彼らがどのような麻酔を行っているのか…それが分かれば、アンブロワーズ家やグライフ商会と交渉する際の、強力なカードにもなり得る。あるいは、彼らの持つ高度な外科技術を学ぶための、何らかの交換条件として提示できるかもしれない)
レオナールは、思考を巡らせ始めた。兎人族の麻酔魔法。それは、彼が目指す「魔法医療」の未来を照らし出す、一条の光明となるかもしれない。まずは、その魔法の正体を徹底的に調べること。それが、アンブロワーズ伯爵領という、外科の秘境への扉を開く、次なる一歩となるはずだ。




