第七十二話:微小なる色彩
勅許奏聞権の内定という、国家レベルでの大きな動きと並行して、レオナールの個人的な探求もまた、静かに、しかし着実に新たな一歩を踏み出そうとしていた。学院から専用の研究個室という破格の待遇を与えられた彼は、山積していた学業の課題を驚異的な速さで片付けると、すぐさま次の研究テーマへと意識を向けた。それは、ヴァルステリア領の診療所でゴードン氏を診察した際に痛感した、診断技術の限界を突破するための試み――細胞や細菌を可視化するための「染色技術」の開発だった。
(まずは手近なところからだ。前世の合成色素など望むべくもない。だが、この世界にも、植物や鉱物由来の天然色素は豊富に存在するはずだ。それらの中から、細胞内の特定構造に親和性を持ち、かつ鮮やかな色を呈するものを見つけ出すことができれば……)
彼は、まず最も手軽に入手でき、比較的安全性が高いと考えられる植物由来の色素からスクリーニングを開始することに決めた。ターゲットは、口腔粘膜の細胞。採取が容易で、かつ細胞の基本的な構造(核や細胞質)を観察するには十分な対象だ。
「先生、ご相談したいことが」
レオナールは、物質科学研究センターの自室にターナー教授を招き、新たな研究構想を打ち明けた。細胞染色という概念自体、この世界にはまだ存在しない。彼は、いつものように、観察と推論を重ねる形で説明を試みた。
「先日、アシュトン先生からお借りした『深淵を覗く窓』で、水中の微生物などを観察しておりました。その際、微生物の種類によっては、体内に色のついた顆粒のようなものを持っているものがいることに気づきました。また、植物の花弁や果実が様々な色を呈するのも、何らかの色を持つ粒子、つまり『色素』を含んでいるからだと考えられます。もし、これらの色素の中には、人間の目には透明に見える細胞の特定の部分と、選択的に結合する性質を持つものがあるのではないでしょうか? それを利用すれば、これまで見えなかった細胞の構造を、色をつけて観察できるようになるかもしれません」
ターナー教授は、レオナールの突飛とも思える着想に、最初は眉をひそめた。
「細胞に色をつける、だと? ふむ……確かに、植物や鉱物の中には、鮮やかな色を持つものが数多く存在する。それらが、目に見えぬほど小さな細胞の構造と、何らかの親和性を持つ、か。考えたこともなかったが……荒唐無稽と切り捨てるには、君のこれまでの実績がそれを許さんな」
教授は、レオナールがローネン州で見せた分析能力と、原子論に関する鋭い洞察力を思い起こしていた。この若き研究者の言葉には、常に何らかの根拠と、常人には思いもよらない発想が隠されている。
「それに、もし成功すれば、アシュトンのあの珍妙な機械も、さらに有用な道具になるやもしれんな。よし、試してみる価値はあるだろう。それで、具体的にどうするのだ?」
「ありがとうございます、先生」レオナールは安堵の表情を浮かべた。「まずは、身近な植物から、色の濃い果実や花弁などを集め、その色素を抽出し、口腔内の細胞を染めてみる、という方法を考えています」
「なるほど。それならば、ギルバートに市場で手に入るものを探させるのが良かろう。ベリー系の果物や、色の濃い花……そうだな、例えば、あの深紅の『竜血花』や、紫紺色の『月影草』の類などは、強い色素を含んでいそうだ。薬効成分の抽出とは違う、純粋な『色素』の抽出という点では、我々のクロマトグラフィーの技術も応用できるやもしれんな」
ターナー教授も、新たな実験テーマに、知的好奇心を刺激されたようだった。
早速、ギルバートに指示が飛んだ。彼は主人の奇妙な依頼に少し戸惑いながらも、数日のうちに、王都の市場で手に入る限りの、様々な色のベリー系の果実(赤、青、紫、黒)、濃色の花弁(深紅、紫、藍色)、さらには薬草として知られるが強い色素を持つ植物の根や樹皮などを、大量に買い込んできた。
レオナールの新しい研究個室は、たちまち色とりどりの植物素材で埋め尽くされた。彼はターナー教授と手分けして、それらを乳鉢ですり潰し、水やアルコール、あるいはレオナールが示唆した「酸味や苦味の度合いを変えた溶液」を用いて色素を抽出していく。赤、青、紫、黄、茶……様々な色の液体が、ガラス瓶の中に並んでいく様は、まるで錬金術師の実験室のようだった。
抽出した色素液の準備が整うと、レオナールはアシュトン博士から譲り受けた旧式の顕微鏡――彼が「最初の拡大観察箱」と呼んでいた、それでもこの世界では貴重な観察道具の一つだ――を、センター内の、今はまだ彼の専用実験スペースとして割り当てられている一室に持ち込んだ。新しい研究棟は、まだ全ての設備が整っているわけではないが、基本的な実験を行うには十分な環境だった。
彼は、まず自分の口腔内から、清潔な木片で粘膜をそっと擦り取り、それをスライドガラス(これも特注で作らせたものだ)に薄く塗りつけた。そこに、抽出した色素液を一滴垂らし、しばらく時間をおいてから余分な液を洗い流し、カバーガラスをかけて顕微鏡で観察する。
最初は、なかなかうまくいかなかった。色素が細胞に全く染まらないか、あるいは細胞全体がべったりと染まってしまい、内部構造など全く見えない。
「やはり、そう簡単ではないか……」
レオナールは試行錯誤を繰り返した。色素液の濃度、染色時間、洗浄方法、そして媒染剤(色素の定着を助ける物質)として、ミョウバンや鉄塩のようなものも試してみる。ターナー教授も、時折様子を見に来ては、物質の化学的な性質から助言を与えてくれた。
「その赤色の色素は、溶液の酸味を強めてみれば、より良く発色する……いや、より強く細胞の特定の部分に色がつく性質があるやもしれん。試薬の液性を調整してみてはどうだ?」
「こちらの紫色の色素は、アルコールによく溶ける。固定の際に、細胞内の脂が失われないよう注意が必要かもしれんな」
何十種類もの色素を試し、来る日も来る日も顕微鏡を覗き続けるレオナール。その地道な努力は、数週間後、ようやく一つの光明を見出した。
ギルバートが「珍しい」と言って持ってきた、熟すと黒に近い紫色になる、北方の辺境でのみ採れるという小粒のベリー。その果汁を濃縮し、レオナールが調整したわずかに酸性の媒染液と共に口腔細胞を染めてみると――
「……! 見えた……!」
顕微鏡の視野の中に、淡い紫色に染まった扁平な細胞がはっきりと見えた。そして、その中央には、より濃い紫色に染まった、丸い構造物――細胞核が、明確に浮かび上がって見えたのだ。細胞質も、核ほどではないが、淡く均一に染まっている。
(完璧ではない……。だが、核と細胞質が、確かに染め分けられている! これなら、細胞の基本的な形態観察は十分に可能だ!)
彼は、同じベリーの色素で、染色時間や濃度、媒染液の条件を変えて何度か繰り返し試し、最もコントラスト良く染まる条件を見つけ出した。それは、前世のヘマトキシリン・エオジン染色のような鮮明さには程遠いものの、この世界で初めて「細胞の内部構造を意図的に可視化する」ことに成功した瞬間だった。
「先生! ご覧ください!」
レオナールは興奮してターナー教授を呼んだ。教授も、顕微鏡を覗き込み、紫に染まった細胞核を見て、目を見張った。
「ほう……! これは……確かに、細胞の中の『核』と思われる部分が、濃く染まっておるな! 周りの部分とは明らかに色が違う。面白い! 実に面白いぞ、レオナール君! 君の着想は、やはり正しかったようだ!」
教授は、子供のように目を輝かせた。この発見が、将来の生物学や医学に、どれほど大きな影響を与える可能性があるか、彼にも予感できたのだろう。
レオナールは、その後も他の植物色素でのスクリーニングを続けた。いくつかの濃色の花弁からも、細胞質を淡く染めるものや、核の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせるものが見つかったが、あの北方のベリーほど明瞭に核と細胞質を染め分けるものは、今のところ他にはなかった。
(まずは、このベリーの色素を安定して供給できるようにし、染色法をさらに改良していくことが目標だな。他の細胞、例えば血液細胞にも応用できるか試してみたい。そのためには、やはりアシュトン先生の、より高性能な顕微鏡と、彼の知識が必要になるだろう……)
そんな地道な研究に没頭していたある日の午後。レオナールの研究個室の扉が、厳かにノックされた。入ってきたのは、宮内省の使いと思しき、見覚えのある礼服の役人だった。彼の顔には、いつもの穏やかさに加え、どこか厳粛な表情が浮かんでいる。
「レオナール・ヴァルステリア公子。お寛ぎのところ、失礼いたします」
役人は、恭しく一礼すると、一枚の羊皮紙をレオナールに差し出した。それは、国王の紋章が刻まれた、荘重な封蝋で閉じられている。
「国王陛下より、公子に対し、勅許奏聞の儀に関する正式な通達がございました。これより、読み上げさせていただきます」
役人は、封蝋を解き、厳かな声で内容を読み上げ始めた。それは、数週間後に迫った奏聞の儀の日時、場所、そして当日の服装や作法に関する、詳細な指示であった。
ついに、その時が来た。
レオナールは、役人の言葉を静かに聞きながら、窓の外に広がる王都の空を見上げた。細胞を染める小さな発見と、国家の未来を左右するかもしれない大きな儀式。その二つが、今、彼の目の前で交差しようとしていた。




