第五十一話:計算する魔法陣、汎用性の壁
元ターナー研究室、現アシュトン博士の臨時ねぐらに論文修正の完了を告げ、レオナールは隣接する真新しい実験棟へと戻ってきた。アシュトン博士の論文が首尾よく受理されれば、基礎科学の分野にも大きな進展がもたらされるだろう。しかし、レオナールの現在の最優先事項は、この新しい実験棟で進行中のローネン州分析プロジェクトにあった。
中央ホールを抜け、奥の分析室エリアへと足を踏み入れると、そこは数日前から続く静かな、しかし途切れることのない活動の渦中にあった。ローネン州から第一弾として到着した水や動物組織のサンプルは、エルミーラの指揮のもと、技術班によって着々と分析が進められている。カラムが並び、溶媒が流れ、記録係のファルケンベルク夫人がベルク紙にペンを走らせる音だけが、規則正しく響いていた。
レオナールは、ガラス壁越しに分析室内部の様子を窺った。マルクスが水サンプルの前処理を行い、クラウスが精密な計量を確認している。そして、セリアは、複数のクロマトグラフィー装置のカラム接続部分や、魔力供給を安定させるための小型制御回路を入念にチェックしていた。彼女の集中力は凄まじく、休憩時間に入っても、一人黙々と作業を続けているようだった。
(彼女の専門知識…刻印回路について、少しでも話を聞ける機会があればと思っていたが…)
ちょうどその時、エルミーラが休憩終了の合図を告げに来た他のメンバーに声をかけ、セリアもようやく手を止めて、軽く肩を回しながら立ち上がった。レオナールは、この機を逃すまいと、分析室の扉を開けて中へ入り、彼女に近づいた。
「セリアさん、お疲れ様です。少しよろしいでしょうか?」
「あ、レオナール様。お疲れ様です」セリアはレオナールに気づき、丁寧に一礼した。その額には、集中していたためか、うっすらと汗が滲んでいる。
「休憩中に申し訳ありません。セリアさんが先ほど調整されていた、あの魔力制御の部分ですが、非常に精密な作りですね。刻印回路の調整なども、あのように繊細な作業なのでしょうか?」
レオナールは、彼女の作業内容に絡めながら、自然な形で本題へと入る糸口を探った。
「ええ、まあ…回路そのものの調整となると、これよりもさらに微細な魔力制御と集中力が求められますが、基本的な考え方は似ています」セリアは、レオナールの問いかけに、少しだけ専門家としての顔を覗かせた。
「実は、以前魔道具工房を訪れた際、基本的な判断ゲートを組み合わせた回路というものを見て、大変興味を持ったのです。単純な魔法陣を石英のような基盤に刻み込む…その技術で、複雑な制御が可能になるという点に、非常に可能性を感じまして」
レオナールの言葉に、セリアの目がわずかに輝いた。自身の専門分野に純粋な興味を示されることは、技術者にとって喜びなのだろう。
「はい。基本的な論理ゲート…魔力の流れを制御するON/OFFスイッチや、条件分岐のようなものを組み合わせることで、様々な自動制御が可能になります。私の以前の職場(魔道具工房)では、特に頻繁に使われる回路…例えば、魔力増幅や安定化、あるいは簡単な加減算を行うような部分は、『機能ブロック』として設計が標準化されていましたね。新しい魔道具を作る際も、それらを部品のように組み合わせて、全体の回路を構築していくことが多いです」
(機能ブロック…やはり、再利用可能なモジュールという概念は存在するのか。効率化を考えれば当然の流れだ)
レオナールは納得しつつ、さらに核心へと踏み込んだ。
「それは非常に合理的ですね。では、それらの機能ブロックを、極端な話、何万、何十万と組み合わせることで、あらゆる種類の計算や情報処理を、一つの回路で実行できるような…例えば、そうですね、『万能計算装置』のようなものは作れないのでしょうか?」
その問いに、セリアは明確に首を横に振った。
「万能計算装置…ですか? 恐れながら、それは現在の刻印回路の技術では、原理的に不可能かと存じます」彼女は少し考えを整理するように間を置いてから、丁寧に説明を続けた。「刻印回路は、あくまで『特定の目的』のために設計されます。魔法陣の配置、魔力の流路、それら全てが、その目的を達成するためだけに最適化され、基盤上に物理的に『焼き付け』られているのです。船の制御なら船の制御、織機の自動化なら織機の自動化のための専用設計です。後から処理内容を変更したり、全く別の計算をさせたりすることはできません。もし機能を変えたいのであれば、回路そのものを一から設計し直し、新しい基盤を作るしかないのです」
(ソフトウェアによる汎用性ではなく、ハードウェアによる特定用途最適化…やはりASICと同じか。基盤に魔法陣を『刻む』という物理的なプロセスそのものが、プログラムの変更という概念を許容しないわけだ)
レオナールは内心で深く頷いた。彼の予想通りであり、この世界の技術体系を考えれば当然の帰結とも言えた。汎用コンピュータという概念自体が、この世界にはまだ存在しないのだ。
(前世のコンピュータ…フォン・ノイマンが提唱したような、プログラムやデータをメモリに記憶し、それをCPUが読み出して逐次実行する方式。あの概念自体は理解している。だが、それをこの世界の技術でどう実現する? CPUに相当する、複雑な命令を解読・実行する回路は? プログラムやデータを保持し、高速に読み書きできる魔法的な記憶媒体は? それらを同期させ、制御するクロック信号やバスの概念は? ……駄目だ、全く分からない。前世でコンピュータを使うことはできても、その基礎となる半導体レベルの物理的な回路設計や、それをどうやって作るかという製造プロセスについては、俺は素人も同然だ。たとえ魔法陣のパターンを思いつけたとしても、それを安定して動作させるための基盤技術、物理的な実装方法が、この世界には全く存在しない。万能計算機への道は、概念を思いつくだけでは開けない。根本的な『作り方』が分からない以上、現時点では絵空事だ)
レオナールは、知識の限界と、異世界における技術的基盤の欠如を痛感した。
しかし、彼はすぐに思考を切り替えた。汎用性がなくとも、道が完全に閉ざされたわけではない。
(だが、特定用途向けならば話は別だ。目的が一つに定まっていれば、この世界の技術でも、極めて高度な処理が可能になるはずだ。例えば…CTやエコー)
彼は、セリアに再び問いかけた。
「なるほど、理解しました。汎用性はなくとも、特定の処理に特化することで性能を高めるのが刻印回路なのですね。では、もし…仮の話ですが、無数のセンサーから得られる膨大な情報を、非常に複雑ながらも『あらかじめ決まった計算手順』に従って高速に処理し続け、その結果を、例えば光のパターンや映像のような形で出力する…そういった目的だけに特化した回路というのは、製作可能なのでしょうか? 計算手順は固定されている、という前提です」
セリアは、レオナールの抽象的な質問に、少し眉を寄せながらも真剣に考え始めた。彼女の脳裏には、自身が関わったことのある、あるいは噂に聞く最先端の魔道具回路が浮かんでいるのかもしれない。
「多数の感知情報を基に、極めて複雑な手順を経て、特定の形や意味のある情報を導き出す…ですか」彼女は少し考え込んだ後、頷いた。「不可能ではない、と思います。例えば、王立天文台が星々の微弱な光から像を再構築するために用いる極めて緻密な解析回路や、軍が広域の魔力探知結果から特定のパターンを識別するために開発している特殊な回路…。それらは、まさしく、その特定の変換プロセスそのものを体現する回路と言えるでしょう。入力される情報が多岐にわたり、内部での魔力の流れや相互作用が極めて複雑になるため、設計と製造が困難を極めることは間違いありませんが…ご提案のような『多数の情報を集めて、定められた方法で処理し、映像として表示する』という目的に特化した回路も、現在の刻印回路技術の延長線上にある挑戦目標とは言えるかと存じます」
その言葉は、レオナールにとって、暗闇の中に差し込んだ一筋の光明だった。汎用コンピュータへの道は遠くとも、CTやエコーのような特定の画像診断装置ならば、この世界の技術でも実現できるかもしれない。センサー技術、アルゴリズムの魔法回路への変換、そして製造技術。乗り越えるべき壁は無数にある。だが、「不可能ではない」という専門家の見解は、彼の野心的な目標に現実味を与えてくれた。
「そうですか…! 非常に貴重なお話をありがとうございます、セリアさん。私の疑問が、かなり解消されました」
レオナールは、心からの感謝を伝えた。この短い会話は、彼の今後の研究開発計画に、大きな影響を与えることになるだろう。刻印回路、そしてセリアという技術者の存在。それは、彼が目指す「魔法医療」創設へのロードマップにおいて、欠かすことのできない重要なピースとなった。
セリアは、レオナールの真摯な感謝と、その瞳に宿る並外れた知性の光に、改めて深い感銘と、そして何かしら説明のつかない興味を覚えていた。「いえ、レオナール様のお役に立てたのでしたら…光栄です」彼女は少し頬を赤らめながら、そう答えるのが精一杯だった。
休憩終了の合図と共に、二人はそれぞれの持ち場へと戻っていく。レオナールは、ローネン州の分析結果を見守りながらも、頭の片隅では、刻印回路を用いた未来の医療機器の設計図を、おぼろげながら描き始めていた。課題は山積みだが、彼の探求心は、ますます燃え上がっていた。




