第五十話:二つの課題、水面下の前進
元ターナー研究室、現アシュトン博士の臨時研究室は、数日のうちに彼の「作品」で満たされ、以前にも増して混沌の度合いを深めていた。そんな中で、レオナールは借り物の机に向かい、最後の仕上げに取り掛かっていた。アシュトン博士の「白鳥の首フラスコ実験」論文は、レオナールの手によって学術的な体裁を整えられ、博士自身の筆による精密かつ芸術的なスケッチも加わり、ついに完成の時を迎えようとしていた。
「先生、最終稿です。特に図版の配置とレジェンド(説明文)をご確認いただけますか?」
レオナールがベルク紙の束を差し出すと、愛しの変形体から一時的に目を離したアシュトン博士は、満足げに頷きながら受け取った。
「うむ、うむ! このフラスコの流麗な曲線、そして酵母たちの躍動感! まさに完璧だ! 君の文章も、まあ、少々堅苦しくはあるが、儂の偉大さを伝えるには十分だろう!」
博士が自画自賛と共に最終確認を終えたのを見て、レオナールは本題を切り出した。
「ありがとうございます。それで、著者名ですが、筆頭はもちろん先生、そして共同研究者として私。それから、研究場所の提供と日頃の議論への貢献を考慮し、ターナー先生のお名前も加えさせていただきました。これでよろしいでしょうか?」
「なに? やはりターナーも入れるのかね?」アシュトンは一瞬眉をひそめたが、「まあ、よかろう! この歴史的論文に名を連ねる栄誉、あの石頭にも分けてやることにしよう!」と、最終的には鷹揚に(?)頷いた。
アシュトン博士の了承を得たレオナールは、完成した論文原稿を手に、彼の城と化した古巣を後にした。足は自然と、隣接して建てられた真新しい実験棟へと向かう。ターナー教授に完成を報告し、著者名の最終確認を得なければならない。そして、願わくばすぐにでも紀要編集委員会へ提出したいところだった。
新しい実験棟の中央ホールに足を踏み入れると、そこは数日前とは打って変わって、静かな緊張感と活気に満ちていた。厳重に梱包された木箱がいくつも運び込まれ、エルミーラとファルケンベルク夫人がリストを片手にサンプルの照合と登録作業を忙しなく行っている。どうやら、ローネン州からの新たなサンプルが到着した直後らしい。その中には、以前エリアスから提供されたものと酷似した、黒く濁った液体や鉱滓のようなものも見える。
(第四次輸送便か……。しかも、今回は発生源そのものと思われるサンプルまで…)
レオナールは、その光景に息をのみつつ、奥の分析室へと向かった。ターナー教授は、ガラス壁の向こうで、マルクスやセリアたちがカラムの準備を進める様子を、鋭い目で監督していた。レオナールが分析室の扉を開けて声をかけると、教授はこちらを振り返った。
「先生、アシュトン先生の論文、修正稿が完成しました。ご確認と、著者名について最終的なご承認をいただきたく」
レオナールが原稿を差し出すと、ターナー教授は受け取り、手早く内容に目を通した。アシュトン独特の記述が整理され、論理的な構成になっていること、そして図版が見事な出来栄えであることに、小さく頷く。最後に著者名のリストを確認すると、彼は特に表情を変えることなく、あっさりと応じた。
「ふむ。アシュトン、君、そして儂、か。まあ、君がこの研究室に所属し、共同で研究を進めている以上、その成果に関わるのは当然のことだな。よかろう。儂の名前を使うことに異論はない」
彼の態度は、以前レオナールが予想していたような「難色」を示すものではなかった。レオナールが自分の指導下(あるいは共同研究者)として活動している以上、その成果報告に指導教官・責任著者として名を連ねるのは、研究室の運営責任者として当然の責務であり権利である、と考えているようだった。もちろん、アシュトン個人と名を連ねること自体に思うところがないわけではないだろうが、それを理由に著者入りを拒否するほど、彼は狭量な人間ではなかった。
「ありがとうございます、先生。では、これで紀要編集委員会に提出いたします」
レオナールが安堵と共に礼を述べると、ターナー教授は「うむ」と頷き、すぐに視線を分析室の中に戻した。彼の関心は、既に目の前で進行中のローネン州分析プロジェクトに移っているようだった。
ちょうどその時、サンプルの一次登録を終えたらしいエルミーラが、いくつかの容器を手に分析室に入ってきた。その中には、先ほどレオナールが目にした、廃液や鉱滓と思われるサンプルも含まれている。
「エルミーラさん、それは……」レオナールは、彼女に近づきながら尋ねた。「ついに、鉱山からの直接サンプルが入手できたのですね。これで分析は大きく進展します。しかし、一体どのような経緯で? 子爵家との交渉は難航していると伺っていましたが……」
エルミーラは、レオナールの問いかけに、わずかに表情を硬くした。彼女は手にした容器から目を離さずに、業務的な、しかし明確な口調で答えた。
「レオナール様。ご推察の通り、これらは鉱山敷地内から採取されたものと報告を受けております。ですが、その具体的な入手方法や経緯、現地での調査の詳細につきましては、ファビアン様より厳命が下っており、たとえ技術顧問である先生方に対しても、現時点でお話しすることはできません。情報は厳格に管理されております。どうか、ご理解ください」
その言葉には、一切の曖昧さはなかった。丁寧な言葉遣いの裏にあるのは、国家機密に触れる者としての、揺るぎない規律と守秘義務だった。
「……そう、ですか。承知しました。機密保持の重要性は理解しています。ご無理を言って申し訳ありません」
レオナールは、それ以上食い下がることはしなかった。ファビアンという人物が、公的な手続きだけでなく、おそらくは別のルート、あるいは強制力をもってこのサンプルを入手したのだろうと推測できた。ローネン州調査が、単なる科学調査ではなく、国家レベルの、時には非公式な手段も辞さないプロジェクトであることを改めて認識させられる。
(水面下では、我々の知らないところで、確実に歯車が回っている……。ファビアン殿は、着実に外堀を埋め、決定的な証拠を揃えつつある。我々の役割は、このラボで、科学的な『真実』を抽出することだ)
レオナールは、エルミーラが慎重に扱うサンプル容器から目を離し、窓の外に目をやった。空は高く、どこまでも青い。アシュトン博士の論文が拓く基礎科学の地平と、ローネン州の人々を救うという喫緊の課題。二つの道が、今、彼の目の前に確かに続いている。やるべきことは、山積みだ。




