第四十九話:動き出す歯車、束の間の助言
ファビアンの予告から二週間を待たずして、その日は、早朝の静寂を破るように訪れた。新しい実験棟の前に、王家の紋章を掲げた数台の頑丈な輸送馬車が、厳重な護衛に守られて到着したのだ。荷台からは、冷却用の魔道具が微かな唸り声を上げる、断熱材に覆われた木箱が次々と降ろされる。箱にはローネン州の印と共に「取扱注意」「機密」「生物試料 冷凍」といった文字が、インクで力強く記されていた。遠き辺境の地で採取された、悲劇の真相を解き明かす鍵——第一弾のサンプルが、ついに王都の心臓部へと届けられた瞬間だった。
その報は瞬く間に実験棟全体に伝わり、張り詰めた、しかしどこか高揚した空気が満ちた。エルミーラを筆頭に、マルクス、セリア、クラウス、そしてファルケンベルク夫人——この勅命によるプロジェクトのために集められた五人の技術者たちは、既に白衣や作業着に着替え、それぞれの持ち場で最終確認を行っている。その表情は真剣そのものであり、国家的な任務に携わる責任感と、未知への挑戦に臨む専門家としての矜持が窺えた。
レオナールとターナー教授は、分析室のガラス窓越しに、中央ホールで行われるサンプルの受け入れ作業を見守っていた。直接手を触れることは許されない。それが、ファビアンから下された厳命であり、この公的な調査における鉄則だった。
「これより、ローネン州第一次輸送サンプルの受け入れ、登録、及び分析準備作業を開始する!」
エルミーラの凛とした声が、広々としたホールに響き渡る。彼女の指示は的確で、無駄がない。まず、データ管理を担当するファルケンベルク夫人が、輸送されてきたサンプルのリストと木箱から慎重に取り出される内容物を一つ一つ照合していく。
「管理番号A-001、南地区河川水、地点アルファ。容量よし、容器破損なし、冷凍状態良好」
「記録します」
夫人の落ち着いた声と、ベルク紙にペンを走らせる音だけが、整然と響く。彼女の並外れた記憶力と几帳面さは、これから膨大な数に上るであろうサンプルとデータを管理する上で、まさに生命線となるだろう。サンプルは種類(水、土壌、動物組織など)と採取場所ごとに丁寧に分類され、ラベルが貼られ、一部は直ちに分析室へ、残りは隣接する大規模な低温保管庫へと、クラウスが操る専用の運搬用魔道具で静かに運ばれていく。
分析室でも、作業は滞りなく始まっていた。薬師のマルクスは、長年の経験に基づいた手際で、水サンプルの不純物を取り除くための精密な濾過作業を開始している。彼の隣では、度量衡の専門家であるクラウスが、マイクロピペットやメスシリンダーといった精密計量器具の最終校正を行い、分析の精度を担保しようとしていた。少し離れた場所では、セリアが、複数台設置されたクロマトグラフィー用のガラスカラムを入念にチェックし、固定相の充填作業を始めていた。レオナールたちが初期調査で用いたペーパークロマトグラフィーは迅速な検出に役立ったが、今回の勅命に基づく正式調査では、より高い分離能と、将来的に含有量も比較検討できる定量性が求められるため、このカラム法が主軸として採用されている。彼女の細くしなやかな指先は、まるで精密な魔道具を扱うかのように、ミリ単位の誤差も許さないといった集中力で動いている。
選抜された精鋭たち。レオナールとターナー教授が数ヶ月かけて基礎を築き、短期間で集中指導したとはいえ、彼らの習熟度は目覚ましいものがあった。それぞれの専門分野における深い知識と経験が、新しい技術であるクロマトグラフィーの習得を加速させているのだ。実験台の上では、ガラス器具が規則正しく配置され、様々な純度の溶媒が準備されていく。その光景は、高度な技術を持つ職人たちが集う工房のように、静かな熱気に満ちていた。
「……ふん。思ったより、様になっているではないか、あの連中」
ターナー教授は、分析室の様子をガラス越しに眺めながら、腕を組んで小さく呟いた。その声には、指導した者たちへの評価と共に、自分が直接実験台に立てないことへの若干の物足りなさが滲んでいるように、レオナールには聞こえた。
「ええ、皆さん本当に優秀です。エルミーラさんの指揮も見事ですし、これならすぐに最初のデータが出てきそうですね」
レオナールも同意した。チームとしての機能は、予想以上に早く立ち上がっている。彼がローネン州で見た悲劇を終わらせるための、強力な武器となるだろう。しかし、優秀なチームが自律的に動き始めたことで、指導者であるはずのレオナールとターナー教授には、予想外の「空き時間」が生まれていた。問題が発生すれば即座に対応できるよう待機する必要はあるが、常に張り付いている必要はなさそうだ。
(さて……どうしたものか。もちろん、分析データが出てくれば、その解釈や次のステップの指示で忙しくなるだろうが、それまでは少し時間ができそうだ。元素同定の研究を進めるか? いや、今はまずこちらの結果を見守るのが優先か……となると……)
レオナールの脳裏に、数日前に厄介な依頼をしてきた、あの変わり者の顔が浮かんだ。約束は約束だ。
「先生」レオナールは隣のターナー教授に声をかけた。「技術班の皆さんの作業は非常に順調なようです。少し席を外しても問題なさそうですが……いかがでしょう? 約束通り、アシュトン先生の論文の手伝いに行ってこようかと思うのですが」
「……アシュトン? ああ、あの迷惑な変人か。まだこの学院の敷地内に巣食っておったのか」ターナー教授は、露骨に嫌そうな顔をして眉をひそめた。外の建設騒音が収まったと思ったら、今度は別の厄介事が持ち込まれたことを思い出したらしい。「儂は行かんぞ。あんな男の相手をするのは時間の無駄だ。それに、儂はこの優秀な(と君が言う)技術班とやらが、ヘマをしないか見張っておかねばならん」
それは口実だろう、とレオナールは思った。教授も、アシュトンとの約束を完全に忘れていたわけではないはずだ。だが、アシュトンの相手をするのが億劫なのも、また事実なのだろう。
「ふん、まあ、君が行くというなら止めはせん。せいぜい、あの変人に妙な知恵をつけられんようにな。何かあれば、すぐにギルバートに連絡させる。いいな?」
「はい、承知いたしました。では、少し行ってまいります」
レオナールはターナー教授に一礼し、最新設備の整った真新しい実験棟を後にした。彼の足は、すぐ隣にある、古びて煤けた、しかし彼にとっては馴染み深い実験棟へと向かう。目指すは、最奥の部屋——今はセドリック・アシュトン博士の臨時のねぐら兼研究室となっている、元ターナー研究室だ。
扉の前まで来ると、中から何やらぶつぶつと独り言を呟く声と、ガラス器具がカチャカチャと鳴る音が聞こえてくる。相変わらずのようだ、とレオナールは苦笑し、扉を丁寧にノックした。
「んん? 誰だね! 今、我が愛しの変形体が、実に興味深い擬足の動きを見せているというのに! 邪魔をするなと言っておろうが!」
やはり、いつもの不機嫌そうな声が返ってきた。
「レオナールです、アシュトン先生。先日お約束した、論文の件で伺いました」
「なにぃ? レオナール君だとぉ!? おお、そうか、そうであったな! 入ってくれたまえ、さあさあ!」
声のトーンが、先ほどとは別人のように、一気に陽気で歓迎的なものに変わる。レオナールが扉を開けると、そこには、数日前よりもさらに混沌の度合いを増した空間が広がっていた。床には脱ぎ散らかされた衣類や空の酒瓶が転がり、実験台の上にはアシュトン博士が持ち込んだ怪しげな標本や培養器具が所狭しと並べられている。そして部屋の主は、研究室の中央で、大きな培養皿に入った緑色のゼリー状の塊(彼の言う「変形体」だろう)を、まるで愛しいペットでも眺めるかのように、分厚い眼鏡の奥の目を細めて覗き込んでいた。その傍らには、数枚のベルク紙が散らばっている。
「待ちかねたぞ、レオナール君! いやはや、君も忙しい身の上だとは聞いておったが、それにしても儂を待たせすぎではないかね? この儂の歴史的大発見が、査読とかいうくだらん理由で世に出るのが遅れておるのだぞ!」
アシュトンは、レオナールを見るなり、いつものように捲し立てた。しかし、その口調にはどこか助けを待っていたかのような響きも含まれている。
「申し訳ありません、先生。少し立て込んでおりまして」レオナールは当たり障りのない返事をしながら、散らばったベルク紙に目をやった。「それで、先生。以前お話しした、追加実験のデータは……」
「ふふん、抜かりはないぞ!」アシュトンは、胸を反らし、実験台の上のベルク紙の束を指差した。「君が『これが必要だ』と言っておった、忌々しい対照実験とやらは、この儂が直々に、それはもう完璧に、寸分の狂いもなく、やっておいたのだ! 結果を見たまえ! やはり、儂の観察通り、あの忌まわしき『種子』どもが全ての元凶なのだ! これで文句はあるまい!」
彼が示したベルク紙には、確かにいくつかの追加実験の結果が、彼独特の几帳面な(しかし他人には読みにくい)文字とスケッチで記録されていた。実験のデザインや手順には、まだレオナールから見れば改善の余地がありそうだったが、それでも以前の論文案よりは格段に客観性が増しており、査読者の指摘に反論するための根拠としては、十分使えそうだった。
「これは……素晴らしいデータですね、先生。お疲れ様でした。これだけの証拠があれば、査読者を納得させることも可能でしょう」
レオナールの言葉に、アシュトンは「だろう? だろうとも!」と、子供のように得意満面になった。
「あとは、これを論文の形式に沿って、論理的に、そしてあの石頭どもにも理解できるように、分かりやすく記述し直すだけですね。少し時間はかかるかもしれませんが、一緒にやっていきましょう」
「うむ、うむ! それを待っておったのだ!」アシュトンは、大きく頷いた。「その『論理的に』とか『分かりやすく』とかいうのが、どうも儂は苦手でな……。文章をこねくり回すのは、君のような頭の良い若者の仕事だろう。儂は、その間、我が愛しの変形体を観察していることにするよ。ああ、なんと神秘的なのだ……」
結局、アシュトン博士は早々に自分の趣味の世界へと戻ってしまい、論文の修正作業は、実質的にレオナールが一人で進めることになった。彼は、アシュトンが散らかした実験器具や標本の隙間に、ベルク紙を広げるスペースを確保すると、木炭ペンを取り、根気よく文章の構成を練り直し始めた。追加データを適切な位置に挿入し、考察部分を補強し、結論をより明確に記述していく。アシュトンの走り書きのようなメモやスケッチを解読し、学術論文として通用する体裁に整えていくのは、なかなかに骨の折れる作業だった。時折、アシュトンが横から「そこは、もっと儂の天才性を強調したまえ!」などと口を挟んでくるのを、適当にあしらいながら。
窓の外、真新しい実験棟では、国家の威信をかけた分析が始まったばかり。そして、この古びた研究室では、科学史に残るかもしれない発見が、世に出るための最後の仕上げを待っている。レオナールは、その二つの全く異なる性質の研究の狭間で、それぞれの重要性を理解しつつ、自らの役割を果たそうとしていた。ローネン州の人々を救うための分析と、世界の常識を変えるかもしれない基礎研究。どちらも、彼にとっては譲れない道なのだ。束の間の、しかし意義深い時間が、混沌とした研究室の中で静かに流れていった。




