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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第四十四話:招かれざる(?)来訪者と論文の悩み

ファビアンの訪問と、それに続く専用実験棟建設の決定は、ターナー教授の研究室に大きな変化をもたらした。翌日から、研究棟の隣の空き地では、槌音や木材を運ぶ掛け声、そして時折混じる魔法建築特有の唸るような音が響き渡り、地響きと共に研究室の壁を揺らした。それは、国王の勅命という非日常的な出来事が、現実として進行していることを否応なく感じさせる騒音だった。


「……まったく、これでは研究に集中できんではないか!」

ターナー教授は、耳を塞ぎながら不機嫌そうに唸った。せっかく研究室が(比較的)片付いたというのに、今度は外部からの騒音に悩まされるとは、と顔に書いてある。

レオナールも、計算に集中しようとしていたが、時折響く大きな音に眉をひそめていた。それでも、この騒音の先にある新しい研究環境への期待が、不快感を上回っていた。


そんな騒がしい日々が始まって数日後の午後。レオナールがクロマトグラフィーの基礎原理について復習を兼ねてベルク紙にまとめていると、研究室の扉が、ノックもそこそこに、勢いよく開けられた。


「ターナー君! おるかね!? ちょっと聞きたいことが……む?」

飛び込んできたのは、寝癖なのか元々なのか判然としないぼさぼさの髪に無精髭、鼻先に引っかかった分厚い眼鏡をかけた痩身の男——セドリック・アシュトン博士その人だった。いつものように、様々な色の染みが飛び散った薄汚れた白衣をまとい、手には数枚のベルク紙の束を握りしめている。彼は、研究室に入ってくるなり、何かをまくし立てようとしたが、途中で言葉を止め、きょろきょろと室内を見回して目を丸くした。


「……んん? なんだね、ここは? 君の研究室で間違いないのかね、ターナー君? やけに……物が少ないじゃないか。床も見えるし、棚も整理されている……。どうしたんだね? 病気でもしたのかね? それとも、ついに王家から研究費を打ち切られて、夜逃げの準備でも?」

アシュトン博士は、信じられないものを見るような目で、比較的片付いた研究室と、呆気にとられているターナー教授、そしてレオナールの顔を交互に見比べた。彼にとって、ターナーの研究室といえば、自分の研究室と良い勝負をするくらいの「混沌とした魔窟」という認識だったのだろう。その変わりように、純粋に驚いているようだった。


「……アシュトンじゃないか。何の用だね、君がこんなところまで。相変わらず、騒々しい男だな」

ターナー教授は、旧知の(そして厄介な)訪問者に、呆れたような、しかしどこか慣れた口調で応じた。

「騒々しいとは失礼な! 儂は、この歴史的な大発見について、君の意見を聞きに来てやったのだぞ! ……いや、それよりも、なんだねこの片付きようは! 君らしくない! まるで魂が抜けた抜け殻のようだぞ!」

アシュトンは、研究室の整理整頓ぶりに、まだ納得がいかない様子で食ってかかる。


レオナールは、そのやり取りを苦笑しながら見ていた。アシュトン博士のキャラクターは相変わらずだが、彼の訪問は予想外だった。

「アシュトン先生、こんにちは。お久しぶりです」

レオナールが挨拶すると、アシュトンはようやく彼の存在に気づいたようだった。

「おお! 君は、ヴァルステリアの小僧……いや、レオナール君じゃないか! そうか、君もまだこの変人の研究室に出入りしておったか。それは結構なことだ。君になら、儂のこの偉業の価値が分かるかもしれんな!」

急に機嫌を直し、アシュトンはレオナールに向かって、握りしめていたベルク紙の束を突き出した。

「見ろ! これぞ、儂があの『白鳥の首フラスコ』実験を……ああ、そうだ、思い出したぞ! そもそも儂があれほど『手伝え! 手伝うのだぞ! 約束だ!』と、わざわざ貴重な時間を割いて誘ってやったというのに、君ときたら『今はターナー先生の重要な研究で手が離せない。目途が立ち次第連絡する』などと、つれない手紙を寄越すばかりで、ちっとも貴族学院に顔を出さんではないか! 儂はてっきり見捨てられたのかと心配したのだぞ! まったく、待ちくたびれたわい! だから結局、儂だけでさっさと実験を進めてやったのだ!」

彼は、レオナールがすぐに協力できなかったことへの不満と、自分が一人で実験を進めた(そして成功したと思っている)ことへの自負を、ないまぜにしてぶちまけた。

「……そしてだな、その結果! ついに自然発生説の誤謬ごびゅうを証明した、歴史的な論文なのだ! あの忌々しい、目に見えぬ『種子』どもが、腐敗の原因であることを、完璧に、そしてエレガントに証明してやったのだ! これで学会の石頭どもも、儂の偉大さを認めざるを得んはず……だったのだが!」

そこまで一気にまくし立てると、アシュトンは再び語気を弱め、悔しそうに唇を噛んだ。

「……紀要に投稿したらだな、査読とやらで、ケチをつけられて戻ってきおったのだ! 『実験結果の再現性が疑わしい』だの、『対照実験が不十分で、これでは偶然の結果とも区別がつかん』だの、『結論を裏付ける確たる証拠とは言い難い』だの……。やかましい! 儂のこの完璧な実験と観察眼に、何を疑うことがあるというのだ! あの石頭どもめ! 儂の偉大な発見が理解できんとは!」

どうやら、レオナールからの協力が得られない間に、アシュトンは一人で実験を進めて論文にまとめたものの、査読で厳しい修正要求リバイスを受け、その対応に窮して相談に来た、ということらしい。彼の性格からして、論文の体裁や、第三者にも理解できる客観的な記述、そして結果の信頼性を担保するための対照実験の詰めといった点に、頓着しなかったのだろう。


「論文のリバイス、ですか……」レオナールは、事情を察した。レオナールからの手紙を受け取っていたにも関わらず、やはりアシュトン先生は先生なりに、少し拗ねていたのかもしれない。

「それで、我々にどうしろと?」ターナー教授が、面倒くさそうに尋ねる。

「うむ……」アシュトンは、急にしおらしくなり、眼鏡の位置を直しながら言った。「そのだな……査読コメントへの反論というか、修正というか……そういう小難しい書類仕事は、どうも苦手でな。君たちなら、こういう小役人みたいな手続きにも詳しいのではないかと思ってな。特にレオナール君、君はこの実験の発案者でもあるわけだし、どうすればあの石頭どもを黙らせられるか、知恵を貸してはくれまいか?」

彼は、助けを求めるように、レオナールとターナー教授を交互に見た。その目には、いつもの自信過剰な様子はなく、純粋な困惑と、自身の研究成果が認められないことへの苛立ちが浮かんでいた。

変わり者の天才が、意外な形で助けを求めてきた。レオナールとターナー教授は、顔を見合わせ、どうしたものかと思案するのだった。

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