第四十五話:混沌の研究室と貸し借りの算段
変わり者の天才からの、予想外の助けの求め。レオナールとターナー教授は、しばし顔を見合わせた。アシュトン博士の研究自体は、自然発生説を否定するという点で、学術的に非常に重要だ。無視するわけにはいかないが、自分たちの置かれた状況を考えると、即座に手助けできる状況ではないのも事実だった。
「先生の論文、大変興味深いものです。ですが……」レオナールは、困惑した表情のアシュトン博士に向き直り、まずは現状を説明することにした。「査読コメントに対応するとなると、おそらく実験手順の再確認や、場合によっては追加の対照実験なども必要になってくるかと存じます。それは、かなりの時間と労力を要するでしょう」
「う、うむ……まあ、そうかもしれんな。だが、それがどうしたというのだね?」アシュトンは不満げに眉をひそめた。
「大変申し訳ないのですが、アシュトン先生」レオナールは続けた。「実は、我々も現在、学院の上層部——ええと、副学長先生を通じてなのですが——ローネン州で発生している問題について、非常に緊急かつ重要な協力要請を受けておりまして。ご覧の通りの騒音も、その対応のために新しい実験施設を急遽、建設しているためなのです。近々、関係者の方々もこちらへ見えられることになっており、その準備と対応で、正直なところ、我々は今、ほとんど手が離せない状況なのです」
彼は、外から聞こえてくる建設の騒音を指し示しながら、勅命という言葉は伏せつつも、公的な、そして非常に優先度の高い案件に関わっていることを伝えた。
「な、なんだと!? 学院の上層部からの緊急要請だと? それで新しい実験施設まで!?」アシュトンは目を丸くして、建設音のする方角と、レオナールの顔を交互に見た。「ど、どうりで、こんな埃っぽい研究室が妙に片付いておるわけだ……。いや、そうではない! 儂のこの歴史的な論文はどうなるのだ! 学院の要請だか何だか知らんが、儂の発見の方がより重要かもしれんのだぞ!」
彼は、自分がないがしろにされたように感じたのか、再び不満を露わにした。
ここで、それまで黙って腕を組んでいたターナー教授が、重々しく口を開いた。
「アシュトン、君の事情は分かった。だが、我々も学院からの、いや、かなり上からの要請で動いている。優先順位というものがあるのだ。今すぐ君の論文に付きっきりになるのは無理だ」
教授の声は、有無を言わせぬ響きを持っていた。アシュトンも、ターナーには少し頭が上がらない部分があるのか、口をつぐんで、教授の次の言葉を待った。
「だがな……」ターナー教授は、ふぅ、と一つ息をつくと、少しだけ表情を和らげた。「まあ、旧知の仲でもあるし、君のその実験も、元はと言えばこのレオナール君のアイデアだそうだからな。それに、君の論文が日の目を見ないのも、学術界の損失ではあるだろう」
彼は、ちらりとレオナールに視線を送った。それは「仕方ない、少しだけ面倒を見てやるか」と言っているようだった。
「…そこで提案だが」教授は続けた。「我々が隣の新棟に移れば、この研究室が空く。もし君が、それまで待って、論文に必要な再実験を、当面の間、この研究室で行うというのなら……」
教授は言葉を切って、アシュトンの反応を見た。
「…そうだな、まあ、論文の修正について、手が空いた時に、レオナール君に助言させるくらいのことは、考えてやらんでもない。どうだね?」
提案の主体はあくまでターナー教授。そして、協力をするのは主にレオナール、という形だ。これならば、研究室の主としての体面も保たれ、レオナールが勝手に約束したことにはならない。
アシュトンは、ターナー教授の提案を聞き、腕を組んで唸った。
「むぅ……ターナー君のこの古巣を、儂が使う、だと? しかも、実験は自分でやれ、助言は手が空いた時だけ、とな……。随分と待たされる上に、条件も厳しいじゃないか……」
彼は不満そうに口を尖らせたが、その目は、研究室の隅に置かれたままの古い蒸留装置や、壁に貼られたままのターナー教授の走り書きのメモなどを、どこか興味深そうに眺めていた。変わり者の彼にとって、ライバル(?)の研究室を一時的にでも「占拠」できるという状況は、ある種の魅力があるのかもしれない。そして何より、論文をこのままお蔵入りさせるわけにはいかない、という現実的な問題もあった。
「……まあ、仕方あるまい」アシュトンは、大きなため息をつくと、渋々といった体で頷いた。「儂の偉大な発見を世に出すためだ。その条件、飲もうじゃないか。ただし! 助言は的確に、迅速に行ってもらわねば困るぞ! それから、この研究室の備品は、儂が自由に使わせてもらうからな!」
彼は、最後の捨て台詞だけは、いつもの調子で付け加えた。
「ふん、好きにするがいい。ただし、儂の貴重な研究資料を勝手に処分したり、実験器具を壊したりしたら、ただでは済まさんぞ」
ターナー教授は、釘を刺すように言った。旧友が自分の研究室に入り浸ること自体、本心では迷惑だろうが、これが一番丸く収まる方法だと判断したのだろう。
「君に言われるまでもないわい!」
アシュトンは鼻を鳴らした。
こうして、アシュトン博士の論文問題は、新しい実験棟の完成を待ち、ターナー教授の研究室を一時的に借りるという条件付きで、レオナールが助言を行う(ターナー教授の監督下で)ということで、一応の決着を見た。レオナールは、これでまた一つ、厄介事を抱え込んだ気もしたが、同時に、アシュトンとの繋がりを維持できたこと、そして将来的に彼の知識や技術(特に顕微鏡)を活用できる可能性を残せたことに、安堵も覚えていた。




