15: 私達には必要なもの
それからすやすやと眠り続けたフェルナンド様は、結局3時間ちょっとのオペラが終わっても、まだ夢の中だった。
ちなみに私の膝は痺れてしまって、もうあまり感覚がない。おかしいな、恋愛小説ではそんな描写なかったのに。現実とは得てして残念なものである。
なんて呑気にしてたけれど、さすがに会場内の人気が消えて静かになってくると、いい加減ここを離れるべきではないかと思い始めた。
「フェルナンドさまー?」
散々迷って声をかけてみたけれど起きる気配がない。でもずっとこのままでいるわけにはいかないので、心を鬼にして起こしにかかる。
「フェルナンド様。起きてください、フェルナンド様」
目元のハンカチを取って軽く体をゆすってみると、やがて瞼がピクッと動いて、ゆっくりと紺碧の双眸が現れた。まだぼんやりしているのか、とろんとした目がちょっとかわいい。
と思った瞬間、かっと目が見開かれると共に、私の膝から一瞬でその重みが消えた。びっくりして隣を見れば、飛び起きてこちらを見た彼は、まるで幽霊でも見つけたかのような驚愕の表情を浮かべている。
そんなに驚かなくても……と思う間に、少しの間固まっていた彼は、さっと視線を周囲に巡らせた。
落とされたままの部屋の明かり、開いたカーテンの先にはすでに観客はおらず、時計はオペラが閉幕を迎えていることを示している。状況を把握したらしい彼が、思わずというように口元に手をやった。
「私は、あのまま……? 申し訳ありません、エイリーン。オペラ鑑賞にお誘いしておきながら、このような……」
私の膝でぐっすり眠ったことが相当ショックだったらしい彼に、初めて少し勝ったような気になりながら、にこりと微笑みかける。
「フェルナンド様の寝顔を眺めながらオペラを楽しむのは、とても贅沢な時間でしたわ。少しの時間ですがお体を休めていただけましたし、十分ここへきた甲斐があるというものです」
「そ、れは……」
言葉に詰まった彼が、居た堪れないというように俯いて目元を手で覆った。その耳が少し赤いように感じて、フェルナンド様みたいな人でも照れて言葉を失ったりするんだなと新鮮な気持ちになる。
けれどひとつ息を吐いた彼は、なぜかクツクツと笑い始めてしまった。
「ああ、本当に……。あなたといると、盤石だと思っていた自分の価値が簡単に揺るがされて、何が正解か分からなくなる」
「え?」
それは何か、悪い意味? 寝かしつけたのが彼のプライドに障ってしまったのだろうか。
反応に困っていると、笑いを収めた彼が再びこちらを向いて、悪戯っぽい表情を浮かべた。
「私はね、エイリーン。正直に言うと、多くの女性が結婚相手に求める条件――資産、地位、評判、容姿――それらを高水準でクリアしている自覚がありましたし、絶対的に選ぶ立場であることを疑ったこともなかった。なのに肝心のあなたには初めて会った時に拒絶されてしまうし、甘い言葉もプレゼントも今ひとつ喜んでもらえない。今日だって、手紙で距離が縮まった気がして浮かれてきた私に、冷や水を浴びせましたね」
「あ、の……」
なんだかすごく責められている気がするけど、フェルナンド様が自信過剰なのが悪いだけではないだろうか。納得できない表情で見つめ返すと、彼は面白そうに笑った。
「なのに私が疲れているとみれば、膝枕だなんて親密な接触を許してくれる。初デートで寝こけた私を怒りもせずに、逆に目覚めた私に得意げで可愛らしい笑顔を見せてくれる。いったい私をどうしたいのでしょう? これがあなたの男を翻弄して落とすテクニックだと言うのなら、私はもう降参です」
「は……」
男を落とす、テクニック……? そんなもの私は習得していないし、降参されても困る。
「あの、急に距離を縮められれば困惑するのは当たり前ですし、同行者が疲れていれば休ませようと思うのもおかしなことではありません。むしろ疲労困憊で外出しようとするフェルナンド様が、いけないと思いますわ」
「ええ、そうですね。さすがに反省しました。でもそれと同時に、あんなふうに甘やかしてもらえるのなら、馬車馬のように働くのも悪くないと思うのです」
「フェルナンド様の顔色が悪ければ、次からデートは即刻中止にしようと思います」
「これは手厳しい。でも次のデートの機会をくれるのなら、今度こそ万全の状態で挑ませてもらいますよ」
そう言い切るフェルナンド様の気迫に気圧されていると、彼がすっと立ち上がった。そしてこちらに手が差し伸べられる。
「ですがその前に、今日のデートの続きを。お昼は軽いものでしたし、この後アフタヌーンティーを予約しているのです。店の者が待っていますので、場所を移しましょう」
「……」
早く帰って休みなさいと言いたいけれど、お店の予約をキャンセルするのも悪い気がする。
「今日の夜はきちんとお休みになると、約束してくださいますか?」
「ええ」
本当でしょうね? という視線を向けてみたけれど、目の前の笑顔は小揺るぎもしない。とりあえずは信じることにしてその手を取り、慎重に立ち上がった。
話している間に、感覚のなくなっていた足が「触れられたらマズい!」という峠を乗り越えて、ちょっと痺れる程度に落ち着いている。けれど私の様子に、フェルナンド様はすぐ気がついたようだった。
「エイリーン、もしかして足が? 申し訳ない、しばらく休んでいきましょう」
「いえ、少し痺れている程度なので大丈夫ですわ」
心配そうな彼に微笑んで、一歩踏み出してみる。うん、たぶん大丈夫。
むしろ私を支えようとすぐ側に寄り添ったフェルナンド様の存在の方が、心臓に悪かった。膝で寝ている間は可愛かったのに、起きるとどうしてこう油断ならない気にさせられるのだろう。
内心残念に思いながら次の目的地へと向かった私だけれど、貸切のレストランで提供されたアフタヌーンティーは可愛らしい見た目なうえに、大好きなチョコレートスイーツがメインのものだったので、瞬く間に最高の気分にさせられてしまったのだった。
「チョコレートのケーキもプディングも、とっても美味しかったです。本当に素敵なお店でしたわ……」
帰りの馬車の中。口の中にほのかに残るチョコレートの甘味と香りにうっとりしながら、思わずそう感想をこぼしていた。
チョコレート大好きな私だけれど、あの魅惑のスイーツは完全に輸入に頼っており、質の良いものは大変高価である。気軽に買い求められないそれを思いがけず堪能することができて、とても幸せな気分だった。
「手紙でチョコレートが好きだと教えてもらいましたからね、是非ともあの店にお連れしなければと思っておりました」
正直に好きなものを書いておいて本当によかった。幸せの余韻に浸っていると、気の抜けた顔をしているであろう私を見て、フェルナンド様がくすりと笑う。
「顔合わせの日、チョコレートでできたら薔薇を持参していたら、もっと好印象を持っていただけたかもしれませんね。残念なことをしました」
「あ、あのブレスレットもとても綺麗で、嬉しかったですわ」
そう言いつつも、封印してないでつけてくるべきだったと今更思い至って、思わず視線が泳いだ。次のデートにはきちんと身につけることにしよう。
そんな会話をするうちに、馬車はミドレ邸へと近づいてきたらしい。
そろそろデートも終わりの時間。改めて隣に座る完璧貴公子を見上げると、優しく微笑まれた。
3時間程度ではあるけれど、睡眠をとったおかげか多少顔色が良くなっている。けれど溜まった疲労はそれくらいで解消できるものでもない。
じっと観察していると、こちらの思考が読めたのか、少し困ったような表情がその綺麗な顔に浮かんだ。
「今日は早めに休むことにしますから、ご心配なく」
「約束致しましたもの、必ずそうしてくださいませ。念のためですが、単に休む時間が取れていないのではなく、眠れないですとか休んでも疲れが取れないですとか、食欲がないですとか、めまいや頭痛を感じるですとか、そういったことはございませんの?」
「まぁ、色々とすべきことが浮かんで休まらないことはありましたが、いち段落ついたのでそれも治るでしょう。眠ろうと思った時にはあなたの送ってくれたお茶を飲んでベッドに入るようにすると、いつもよりゆっくり休める気がしました。何よりあなたが私を思って選んでくれたものだと思うと心が癒されましたから」
「す、少しはお役に立ったようでよかったですわ。あれも伝統薬の一種なのです。……ちょっと手をお貸しくださいませ」
隙あらばこちらを動揺させようとするフェルナンド様は、一見とても元気である。とはいえなんとなく信用ならないので、さっと手を取って脈をみてみた。
…………多少早い気はするけれど、急に手を取られた緊張かな? いや、手を取られたくらいで緊張するような相手だろうか。
顔色はイマイチだけれど、食事は残さず食べていたし思考も明瞭。立ち居振る舞いも実にスマートで、必要なのは十分な休息であることは間違いない。
「あの、エイリーン」
名を呼ばれて顔を上げると、フェルナンド様は戸惑ったようにこちらを見つめていた。今日迎えにきた時に私を抱きしめておきながら、脈をはかられたくらいで戸惑わないで欲しいものである。
「お送りいただくついでに疲労回復を助けるお薬をお持ちくださいませ。あくまで回復を助けるだけですので、しっかりおやすみは取っていただかなくては駄目ですよ。フェルナンド様に足りていないのは休息なのですから」
「ありがとう、エイリーン。人に心配してもらうのは、なんだか嬉しいものですね」
ちょっと照れたような笑みを浮かべたフェルナンド様は、その後少し間をおいてそういえば、と言葉を続けた。
「ミドレ男爵が以前、娘は伝統薬を扱う知識が豊富なのだと嬉しそうにおっしゃったのを思い出しました。私に血縁の女性を紹介しようとする人は少なくないので、その時は話半分に聞いてしまい、とても失礼なことをしました」
「まぁ、父が……」
いらないことを!
もしかするとパーティー翌日にフェルナンド様が迷わず店の方へきたのも、父が余計なことを話していたからなのかもしれない。内心で父を責めていると、フェルナンド様がちょっと目を伏せた。
「きっと男爵は事業関連であなたと私を引き合わせたかったのだと、今なら分かります。けれど私の反応を見てそれを提案なさらなかったのでしょう。あなたとの縁談に乗り気でないのも、今までの私の態度からすれば仕方のないことだと理解できます」
「え?」
父は乗り気でないどころか私に前向きになれとけしかけているあり様なのだけど、どこでそんな誤解が生じているのか不思議でならない。
そんな疑問が顔に出ていたのか、フェルナンド様はふっと笑った。
「実は顔合わせの前に、婚約のお伺いとあなたに好かれるための協力を願う手紙を男爵に出していましたが、断られました。本気で娘と添うことを願ってくれるなら、自身で娘の信頼を得て欲しい。将来ミドレを背負って立つのは娘なのだから、と」
「まぁ……」
そんなやりとりがあったとは驚きだ。
「ですが今は断られてよかったと思っています。あなたに私の本気を信じて欲しくて送ったあの手紙……、あれを書きながら、私も自分自身を見つめ直すことができました。自分のことも、望む将来も、あなたに惹かれた理由も。手紙にしていく中で新たに気づくことも、心境が変化することもありました。そして私なりに心を込めて真剣に綴った手紙で、初めてあなたの心に、私の言葉が届いた気がした」
紺碧の双眸が、柔らかな色を湛える。
「会えない間やりとりした手紙も、こうして共に過ごす時間も、私達には必要なものです。エイリーンも、そう思ってくれているのではないですか?」
その言葉に、思わずこくりと頷いていた。
生きてきた世界がまるで違う私とフェルナンド様。そんな私達が一緒にいる未来に踏み出すために、相手を知り、互いの描く将来を知ろうと努力する今の時間は、きっとなくてはならないものだ。
「あの手紙をいただいて、私はフェルナンド様のことをもっと知りたいと思いました。そして将来に向かって少しずつ、前に進めている気がするのです」
「その将来には私がいるはずです。近いうちにきっと、あなたに私が好きだと言わせてみせますよ」
自信たっぷりのその笑みに、なんだか笑ってしまった。そんなことあるわけない! と拒絶しない自分に、今まで交わしてきた手紙の意味を改めて知った気がする。
和やかな雰囲気に満たされた馬車は、やがてミドレ邸へと到着した。
色々と予想外の出来事に襲われたデートも、これでおしまい。あとは早く帰って休んでもらわなくてはと、急ぎ店へ向かって疲労回復薬の処方を行ない、再三しっかりと休むように伝えつつフェルナンド様を見送ったのだった。




