【第41回】筆休みの休養。
エッセイコラム「筆休みのぼやき」の第41回です。
今日のテーマは「休養」。
よろしくお願いします。
どうも、鍋島五尺と申します。
お久しぶりでございます。
さて、第41回です。
新連載、「供千様」。
お読みいただけているでしょうか。
早くも本日、第6話が公開予定です。
物語も段々と勢いを増し、謎が謎を呼ぶ展開となってまいりました。
かなり出来の良いホラー作品となっておりますので、まだお読みになられていない方はぜひ一度足をお運びください。
さてと。
エッセイの更新に随分日が空いてしまいましたね。
この「筆休みのぼやき」は自分にとって、脳内でとっちらかった情報を整理したり、心の中で複雑に絡み合った感情を解いたりと、執筆に置いても重要なプロセスを担っていますので、こうも日が空くとなかなか大変だったりします。
全くもって私事なのですが、最近大変体調が悪い。
このところ激しい胸痛に悩まされていまして、そんでもって持病の症状も顔を出しており、なんとも悩ましい限りです。
そして人間、体調が悪くなると精神のバランスも崩すものです。
「病は気から」なんて言いますが、「鬱気は病から」も同様にまことですね。
とはいえ、創作に鬱気は欠かせません。
意外と知られてないのかも。
陰鬱とした気分の方が創作には向くんですね。
心が沈んでいるということは、沈ませるだけの重荷があるということです。
創作というのはそういう思い悩みから生まれるもので。
そう考えると過去の作家先生方がどこか心を病んでいるように見えるのも至極当然なのやも知れませんね。
まあ冗談でも僕は玉川上水に身を投げる気などこれっぽちもないんですが。
「死に方」というのは日本文化にとって大きなテーマと言えるでしょう。
歴史や文化的背景まで話すと長くなるので割愛しますが、簡潔に言ってしまえば死に対して「納得」を求めるということです。
武に生きた人間なら武に、忠に生きた人間なら忠に、利に生きた人間なら利に生きることを望みます。
そしてその主題を失うくらいならば、何が何でも主題の中にあって死のうとするのです。
僕はどうだろう、人生の主題は義、もしくは信仰でしょうか。
願わくば信仰にあって生き、信仰にあって死を迎えたいものです。
あーあ重たい話になっちゃった。
ぐだぐだ言ってないで大人しく病院に行ってきます。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
それじゃあまた明日。
鍋島五尺でした、ばいばい!




