【第38回】筆休みの講釈。
エッセイコラム「筆休みのぼやき」の第38回です。
今日のテーマは「講釈」。
よろしくお願いします。
どうも、鍋島五尺と申します。
さて、第38回です。
5月5日から始まる新連載「供千様」に向けての1週間毎日エッセイ投稿・カウントダウン、5日目!
連載まで早くも残り3日です。
一日の終りに「筆休みのぼやき」をよろしくお願いします!!
そして昨日、新連載に向け、「供千様」プロローグを公開致しました!
もう既にお読みいただけたでしょうか。
まだ読まれていないそこのあなた、本編のカギを握る重大なプロローグですので、お見逃しのないようにお気をつけください。
プロローグってもしかしたら初めて書いたかもしれない。
そもそも短編小説が多いですからね僕の場合。
少しばかりおじさんの講釈にお付き合いください。
テーマは「なぜ長編小説にはプロローグがつくのか。」
その答えは、長編小説には流れがあるからです。
では短編小説には流れがないのか。
正直、僕はないと思っています。
その理由は短編小説と長編小説が持つそれぞれの特性にあります。
あくまで僕個人の解釈ですが。
長編小説というのは”あるもの”に焦点を当てた作品です。
それは人だったり動物だったり、はたまた無機物だったり。
その”あるもの”にカメラを当てて、動画的な構成を取るのが長編小説です。
短編小説というのは”あるとき”に焦点を当てた作品です。
長い世界の歴史の中のとある一瞬。
その”あるとき”をシャッターに収めるような、写真的な構成を取るのが短編小説です。
とはいえ短編小説にも時間の流れは存在します。
でも人間が感じることのできる時間の縮尺は限られてる。
千年を超えれば無限に等しいし、1分を切れば一瞬に等しい。
だから短編小説にある時間の流れは無視できる、というわけです。
ということで、今回は講釈を垂れました。
すまんかった。
最後に今一度予告を。
5月5日から始まる新連載に向け、本エッセイ「筆休みのぼやき」毎日投稿!
そして昨日、5月1日には新連載「供千様」のプロローグを投稿致しました!
是非お見逃しのないよう、お気をつけください。
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ぜひよろしくお願いします!
ここまで読んでくれてありがとうございました。
それじゃあまた明日。
鍋島五尺でした、ばいばい!




