66:傷ついた竜
リーシャの案内を受けながらアレンは森の中を走り続ける。念の為護身用の剣は腰に装備してあるが、不思議な事に周りからは一切魔物の気配を感じ取れなかった。その事に疑問に思いながらアレンは隼の如く前を走り去っていくリーシャを見て感嘆の息を漏らす。相変わらず子供とは思えない程のスピードだ。いくら自分が四十代とは言え、大人が追い付くのに精一杯の速さでずっと走り続けている。これなら大工仕事を任せても平気だったかなとアレンは考え直した。
「父さんこっちこっち!」
アレンが呑気にそんな事を考えているのに対してリーシャは変わらず説明をしないままアレンにこっちこっちと手招きをする。もう既に大分森の深くまで来ており、辺りは木々が変に密集し、捻じれるように絡まったジャングルのような空間になっていた。
「おおいリーシャ、どこまで行くんだよ……」
流石にこんな森の奥まで来て何があるのか気になり始めたアレンはそう尋ねるが、リーシャは答えず変に斜めに伸びた樹木を潜って鬱蒼と草木が生い茂っている奥へと進む。それを見てアレンは小さくため息を吐いてから身を低くし、樹木を潜ってリーシャの後に続いた。そしてその先に進むと、そこは周りが木々に覆われながらも広い空間が出来上がり、日差しも当たっているのどかな場所であった。そこではリーシャとルナが立っており、ルナもアレンが来た事に気が付いて視線を向ける。そして二人は何か言葉を発する訳でもなく、空間の先にある小振りな山を指差した。否、それは山ではなかった。
「なっ……こいつは……」
それは所々に矢傷を負い、土だらけで汚れ、一瞬死んでいるようにも見えた。だが時折僅かに重苦しい鼻息のような音が聞こえ、その身体はゆっくりと動いていた。生きているのだ。長年冒険者で様々なダンジョンや地域に行った事があるアレンでもその生物を見たのは僅か数回である。魔物すらもその生物を恐れ、城を攻め落とせる兵器を用いたとしても倒す事が出来ない伝説の生き物。本来ならこんな辺境の土地には絶対に居てはならない生物。
「〈竜〉ッ……!」
アレンは思わず声を震わせてそう呟く。全身で鳥肌が立ち、背中に冷や汗が流れるのを感じた。命の危機に直面した時のように心臓の鼓動が早くなり、腰にある護身用の剣に自然と手が伸びる。しかし彼は思いとどまった。どうにもその伝説の竜の様子がおかしい。竜の最大の特徴である鱗も土だらけで汚れ、今は土と一体化するように色が荒んでいる。何よりその身体は矢傷や魔法の攻撃を喰らった跡が見え、明らかにその竜は負傷した。
「この子、怪我してるみたいなの。話し掛けても全然反応がなくて……」
「だから父さんに見て欲しくて来てもらったんだ」
驚いているアレンにルナとリーシャが説明を入れる。どうやらこの竜は二人が森を散歩している最中に遭遇したらしく、見つけた時からこの状態だったらしい。それで二人ではどう対処すれば良いか分からず、知識があると思ったアレンを頼る事にしたという訳だ。
(いやいやいや、いくら俺でも負傷してる竜の対処法なんて分からんぞ……)
しかしアレンは当然竜の治療なんかした事はなく、むしろ戦闘で死に掛けた事があるくらいだ。出来る事なら竜が完全に意識を覚醒させる前にこの場から立ち去りたいくらいだった。だがアレンは目を細めながらチラリと横を見る。そこではリーシャとルナはお願いと言わんばかりに目をキラキラとさせてアレンの事を見つめていた。
(うっ……だけどこの竜が暴れた様子はないし、リーシャやルナが来ても危害を加えなかったらしいからな……治療ぐらいなら何とかなるか?)
竜を刺激するような事はしたくないし、かと言って見捨てたら見捨てたらで回復した竜が山で暴れ回るのも困る。竜は知能が高い生き物でもあり、ひょっとしたら今も起きていて自分達の顔を覚えているかも知れない。アレンは冷静にそう判断するとやれる事だけはやってみるかと出来るだけ前向きに考えた。
「分かった、やってみよう。リーシャは家から治療箱と綺麗な水を持ってきてくれ。ルナは手伝いを頼むぞ」
「分かった! 父さん」
「うん、頑張る」
リーシャとルナに指示を出し、リーシャは言われた通り走り出して村に治療箱と水を取りに行く。それを見届けた後アレンは服の袖を捲り、気を引き締めて剣をその場に置いてから竜へと近づいた。竜も眠っているのかアレンが近づいても全く気にしない。ルナもアレンの傍に寄る。
アレンにとって竜をこんな間近で、しかも相手が一切の威嚇なしに冷静に見れるのは初めての経験であった。竜の大きさは身体を丸めて小さくして翼も折っているせいで全長を測る事は出来ないが、それでも人間のアレンからすればとてつもなく巨大であった。アレンの家の三倍くらいはあるだろうか。よくこんな森の中に入り込んで来たとアレンは呑気に考える。
「さてと……まずは傷の確認からだな」
竜を刺激しないようゆっくりと移動しながらアレンは竜の細かい鱗を確認する。流石は伝説の生き物なだけあって鱗は汚れているだけで一切の傷はない。だが一部分、鱗が大きく剥がれている箇所があった。そこを集中的に矢傷などを受けており、竜はそれで負傷してしまったようだ。アレンはそこで疑問を覚える。
(妙だな……竜の鱗は大砲でも傷が付かないくらい頑丈なのに、どうやって鱗を剥がしたんだ?それに竜の鱗を剥がす攻撃と、その後の攻撃の質が違う……)
竜の負傷箇所は痛々しいくらい鱗が剥がれている。何か大きな力で無理やり剥がされたような物理的な攻撃。恐らく魔法ではない。だが物理的な攻撃で竜の鱗を剥がせる方法をアレンは知らない。それに鱗が剥がれた後の攻撃もおかしい。負傷跡を見る限り皮膚に行った攻撃は矢や通常魔法での物ばかり。竜の鱗を剥がせる程の攻撃を有してる割には普通過ぎる手段だ。
(鱗を剥がした奴と、その後攻撃した奴は違うって事か……?)
アレンは一つの仮説を立てるが、例えそれが正解だったとしてもそれが何を意味するのかは分からない。そもそも伝説の生き物である竜と遭遇するのが難しいくらいだ。竜を攻撃するような奴の考える事など分かる訳がない。とりあえずアレンは今出来る事を全うし、その後リーシャが持ってきてくれた治療箱と汲んでくれた水を使って応急処置に取り掛かった。とは言っても竜相手では人間用の処置など微々たるもので、とりあえず引っ掛かっている矢などを抜き、流れている血などを拭いて外傷が広がらないようにした。時折竜が身体を揺らしたりして緊張したが、ルナと共に治癒魔法も行い傷跡も酷くならないようにした。その後は竜の再生能力に期待するしかない。あらかたの処置を終えたアレンは緊張の糸が切れたように肩を落とし、額に流れる汗を拭った。
「ふうっ……大体やれる事はやったかな。これで傷が酷くなる事もないだろ」
「わーい! ありがとう父さん!」
「ありがとう……お父さん」
ひとまずこれで大丈夫とアレンが伝えるとリーシャとルナはアレンに飛びつきながら自分の事のように喜んだ。竜の事をアレンに教える時もそうだったが、彼女達はちっとも竜を怖がるような素振りを見せない。単純に知識がなないだけだから恐怖の実感がないだけなのか、それとも勇者と魔王だから竜というスケールにも驚かないのか。いずれにせよアレンには絶対に理解出来ない世界であった。
「父さん、竜目を覚まさないよ?」
「多分傷を癒す為だろうな。竜の再生能力は驚異的だから、薬も塗ったしその内目を覚ますだろう」
リーシャは普通の人なら絶対にしないであろう竜の顔の方に移動し角の部分をちょんちょんと触りながら尋ねる。アレンはその様子にハラハラしながら説明した。
恐らく今の竜の状態は一種の休眠状態のような物だ。再生能力を高める為に他の運動能力を一切断ち切り、傷を癒す事だけを専念しているのである。そんな能力がある竜にも驚きだが、何よりも気になるのは伝説の生き物である竜をここまで負傷させた存在だ。矢傷がある事から恐らく人型の種族だと思うが、鱗の剥がれた形状は何か別の生き物が食い千切ったようにも見える。もしかしたら竜は何か大きな勢力に襲われたのかも知れない。そう考えるとリーシャとルナの事もある為、アレンは慎重にならざる負えなかった。
「ねー、父さん。また明日もこの子の様子見に来て良いー?」
「えぇ……?」
そんなアレンの悩みを他所にリーシャは眠っている竜の顔の前で膝を折って顔を近づけながらそんな事を尋ねてくる。余程初めて見た竜に興味を持ったのか、リーシャは宝物でも見つけたかのように目を輝かせていた。竜をこの子などと犬か猫のように言う時点で普通の人とは大分感覚が違う。隣で竜の様子を見ているルナも興味があるのか、チラチラと視線を送っていた。
アレンはため息を吐き、指で頬を掻く。もちろん竜の傍に子供を置くのは危険である。いくらリーシャとルナが勇者と魔王と言えど、竜の最大火力の火炎を喰らえばあっという間に塵になってしまう。出来る事なら眠っている間でも近づかないように注意をしたかったが、どうやら二人はよっぽど竜の事が気に入っているらしい。こうなっては注意をしてもきっとこっそり竜の様子を見に行こうとするだろう。であるならば下手に禁止にするよりも、きちんと注意をして最低限の事は守るように言っておいた方が良いとアレンは判断した。
「構わないけど……出来るだけ竜を刺激しないようにしなさい。知能が高いから下手な事をしなければ襲ってこないと思うが、それでも危険である事には変わりないからな。様子を見る時も遠くから眺めるだけにするように」
「はーい、分かった」
アレンの注意をリーシャは手をピンと上げながら素直に聞く。果たしてその笑顔をアレンは信じて良いのか分からなかったが、とりあえずもしもの時はリーシャも危険な事はすぐに察知してくれるだろうと信じ、任せる事にした。最悪の場合でもルナがきっとリーシャを制止してくれるだろう。そう思ってアレンがルナの方を見ると、彼女は何故か竜の鱗が剥がれていた部分の治療跡をじっと見つめていた。
「……ルナ?どうかしたのか?」
「……ううん、何でもない」
アレンが彼女の傍に寄って尋ねてみるが、ルナはアレンの方に顔を向けないまま首を左右に振った。何か考え事でもしているのか、その表情はどこか浮かない。やはり先日の事件の事でまだ立ち直る事が出来ないのかも知れない。アレンは無言でルナの肩をぽんと叩いた。それに気付いた彼女はようやくアレンの方に顔を向ける。その瞳はいつも通り漆黒に染まり、真珠のように綺麗に輝いていた。ルナもアレンに触られて安心したのか、コンとアレンの腰にもたれ掛かった。
結局その後も竜が目覚める様子はなく、アレン達は村へと戻った。村に戻るとまずアレンは村長に山奥に竜が居る事を伝え、村人達にも迂闊に森の中に入らないよう注意した。村人達も伝説の竜が山奥に居るという事に不安を覚えていたが、竜が知能の高い生き物であるという事は知っている為、下手に刺激をしなければこの村には降りてこないだろうと思い、騒ぎになるような事はなかった。
そして夜、夕食を食べてリーシャとルナは寝床に付き、リビングではアレンとシェルが椅子に座りながらお茶を飲んでいた。アレンは今日あった事を伝え、シェルにも知恵を貸してもらおうと思ったのだ。
「山奥に竜が、ですか……」
「ああ。しかもかなり酷い傷を負っていた。最近は外も騒がしいし、協会の方で何か聞いたりしなったか?」
「いえ……少なくとも竜が出現するような異常事態は知らされていません」
シェル経由で魔術師協会の方からそれらしい情報があれば手っ取り早かったのだが、どうやらそちらの方では一切異変は起こっていないらしい。だとすれば何故負傷した竜が突然こんな辺境の土地に現れたのだろうか?とアレンの疑問は最初の地点へと戻る。髭を弄りながら目を細め、彼は思考した。ただの偶然だと決めてしまえば答えは出るが、果たしてそれで良いのだろうか?何かそれだけではない気がする。一つを見落とせば後は積木が崩れるように荒が出てしまうのだ。慎重に考えなければならない。
「珍しいですね。竜が見られるなんて。機会があれば私も観察したいです」
「ん……だったら明日リーシャの監視ついでにシェルも見てきたらどうだ?」
「良いんですか?有難う御座います。フフ、楽しみです」
意外にもシェルも竜には興味があるらしい。確かに竜は滅多にお目に掛かる事が出来ない生物だ。それの研究や調査を行えば新たな魔道の発見に繋がるかも知れない。そういう可能性を抱いているのだろう。アレンからすれば自分が絶対に敵うはずのない生物としか見ていない為、恐怖しか抱かないが。何にせよ竜を見るついでにシェルが監視してくれればリーシャも危ない事をしようとはしないだろう。アレンはそう判断した。
「何にせよ、何があっても大丈夫なよう警戒はしないとな」
「そうですね」
結局のところ今の状態では何の対策のしようもない。ただ異変が起こったらすぐ対応出来るよう身構えておくだけで、それ意外は至っていつもの平凡な時間を過ごすだけである。
アレンはシェルが淹れてくれたお茶を飲み込む。生温く、苦い味が口の中に広がった。




