徳川との交渉
「お言葉ですが、徳川殿では岐阜中将殿にすら勝てないかと思われます」
岐阜中将というのは、信長の嫡男・信忠のことである。岐阜城を居城とする左近衛中将という意味だ。実際、信忠軍団の兵力はおよそ四万、徳川の総兵力の倍に当たる。
「貴様、殿を愚弄するか!!」
一人の武将が立ち上がり、そう叫んだ。
「座れ、忠勝。鍋島殿の申すことは何も間違ってはおらぬ」
「……はっ」
その男とは、徳川家中でもきっての武闘派、本多平八郎忠勝であった。家康の命令を受け、忠勝は渋々と矛を収めた。
「それがおわかりならば、どうして尾張に攻め込むなどと無謀なことを」
「我らは織田の家臣などではないと織田殿に思い知らせ、華々しく散る。それこそが徳川の意地というもの。勝てるか否かなど、どうでもよいことだ」
「意地を通して滅びると仰せか」
「左様。織田と武田が我らに話を通さず和睦するなど、裏切りも同然であろう」
「……徳川殿のお覚悟、しかと受け止めました。なれば、徳川殿は何をお望みなのですか? 何を差し出せばご満足いただけますか?」
徳川が織田に反旗を翻すというのは、あくまで交渉が決裂した時の最終手段だ。
「駿河・遠江・三河、この三国に属する城と領地の全てを得られなければ、和睦などあり得ぬ」
このうち三河と遠江は大半を家康が支配しているが、駿河は全域が武田家の支配下にある。
「いくら武田に両国を荒らされた償いを求めると言っても、駿河一国はあまりに過大な要求ではございませんか?」
「ならば駿府だけでも構わぬ。これ以上は譲らぬ。高天神と駿府を譲るよう、勝頼を説き伏せて参れ」
遠江の高天神城は、遠江と駿河の国境付近に位置する戦略的に重要な城であり、高天神山の全体を利用した非常に堅固な城郭としても知られている。勝頼は信玄が落とせなかったこの城を落とし、その名声を大いに高めた。
駿府城はその名の通り、駿河の中心地である。かつての今川家の本拠地でもあった。駿府なき駿河など、抜け殻も同然である。
「徳川殿、せめて三河と遠江の全域で妥協してはいただけませぬか?」
「譲るつもりはないと申したであろう。高天神は元より我らのもの。勝頼が返すは当然のこと。そして、我らの領地を荒らし、多くの家臣を奪った償いとして、駿府だけというのは、むしろ安いものであろう。それとも、織田殿は尾張一国でも下さるのか?」
「流石にそれは無理でしょうな」
一益が答えた。尾張は信長の天下取りの始まりの地であるし、今でも信忠軍団の枢要な領土だ。
「では、銭をもって償いとするのはいかがか?」
「銭など、使い切ってしまえばそれまで。儂から申すことはもうない。今すぐ甲斐に向かうがよかろう」
「お言葉ですが、徳川殿は鬼をその目で見たことがあるのですか?」
「確かに、見たことはない。しかし九州の惨状はよく聞いておる」
「であるならば、今は日本六十六国の諸大名が団結せねばならぬことも、明白なはず。私利私欲に走るは愚かなことにございます」
「我らが武田によって、どれほど苦汁をなめさせられてきたか、鍋島殿は知らぬであろう!! 知れば左様な世迷言は言えぬ!!」
「座れ、忠勝」
「……はっ」
「左様な安い挑発で、儂が冷静さを欠くと思ったか? 先に言っておくが、儂に鬼を見せたとて無駄だ。鬼とはいかなるものか、わざわざ見ずともわかっておる」
「……申し訳ございませぬ。某こそ冷静ではなかったようです」
「鍋島殿の気持ちはわかるが、徳川にも譲れぬものがあるのだ」
家康に鬼の実物を見せれば、少しは心変わりしてくれるかもしれない。しかしそれには時間がかかる。遥々九州から浜松まで、鬼を生きたまま運んでくるとなれば、危険も大きい。鬼の脅威を訴える論法は通じそうになかった。
「であれば、我らにも考えがございます」
「従わぬのであれば、信康を利用して儂を追い落とすつもりであろう?」
「……ご存知でしたか」
信康に謀反を起こさせるという策は、実行せずとも、家康への脅しには利用出来る。しかし、ここまで筒抜けでは意味もなさそうだ。
「滝川殿、このことを既に徳川殿に伝えていたのですか?」
「いや、そんなことはない。まだ何もしてはおらんしな」
「その企みがあることは、既に掴んでおる。安土には毎月のように使者を送っておるが、それがただの使者だと思ったか?」
「まあ確かに、我らも徳川へ送る使者に、内情を探らせていますな」
「信康の周囲には我が旗本を付けておる故、儂が命じれば、すぐにでも殺せる」
「ご嫡男をお殺しになるなど、またまたご冗談を」
「織田に利用されるようなら、その程度の器だったということ。儂は躊躇わぬ」
「……何もかもお見通しということですか。徳川殿には嘘も脅しも通じぬようですな」
家康には取り付く島もなさそうである。信生としては、徳川など織田の従属大名に過ぎないと思っていたが、その認識は大いに改めねばならないようだ。
しかし、手詰まりという訳ではない。
「高天神と駿府を譲れば武田と和睦するとのお言葉に、二言はありませんな?」
「無論のこと」
「なれば、そのことを記した起請文を認めていただきたい」
「面白いことを言う。よかろう。数正、用意いたせ」
「直ちに」
家康の要求を取り下げさせるには、徳川に内乱を起こさせるほかにないだろう。だが信生はそれを望まない。家康の要求を武田に呑ませるつもりである。




