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第五十三話 引きこもり救助隊と、凍える集落、そして太陽みたいなコーンポタージュ

「ひどいな……」


 俺は思わず息を呑んだ。


 初めて訪れたエルフの集落。

 美しかったはずの木造家屋は、雪の重みで半壊していた。


 屋根は潰れ、柱は折れ、木々に吊られていたはずの足場や通路は、すべて白い雪と氷の下に埋もれている。


 集落全体が、氷の棺桶みたいになっていた。


 生活の気配がない。

 煙もない。

 話し声もない。

 子どもの笑い声なんて、当然ない。


 あるのは、吹雪の音と、枝が凍りついて軋む音だけだった。


「……遅かったか」


 シルフィが、かすれた声で呟いた。


「まだだ」


 ロエンが低く言う。


 その耳が、ぴくりと動いた。

 続けて、鼻先がわずかに上がる。


「匂いがある」

「匂い?」

「生きている者の匂いだ」


 ロエンは吹雪の中で目を細め、集落の奥へ視線を走らせた。


「血の匂いも混じっている。弱い。だが、生きている」

「どこだ!?」

「あっちだ」


 ロエンが指したのは、神樹の根元ではなかった。


 集落の端。

 雪に半分埋もれた木造家屋の残骸だった。


 屋根が完全に落ち、太い梁が斜めに突き刺さっている。

 壁は雪に押し潰され、入り口がどこだったのかすら分からない。


「誰か下敷きになってるのか」

「おそらくな」


 ロエンが短く答える。


「急げ。匂いが薄い」

「ガラン!」

「任せな!」


 ガランがソリのロープを雪へ投げ、大斧を担いで前へ出た。


「生きてる奴がいるなら、遠慮してる場合じゃないねぇ!」


「待て」


 ロエンが制した。


「力任せに崩すな。中の者を潰す」

「分かってるよ」


 ガランは大斧を逆手に持ち替え、刃ではなく柄で雪と崩れた木材を慎重に払い始めた。


 ロエンが鼻を利かせながら位置を指示する。


「そこではない。右だ。梁の下」

「ここかい?」

「ああ。下に隙間がある」


 シルフィが風の精霊術で粉雪を払い、埋もれた木材の隙間を露出させる。


 俺はその場に立ち尽くしたまま、すぐに《通販ウィンドウ》を開いた。


「くそ……道具が要るな」


 残りMPが多くないことは分かっている。

 だが、今ここで素手で掘るのは無理だ。


「折りたたみスコップ、バール、ヘッドライト、投光器、防寒手袋……!」


 検索して、必要最低限だけをカートへ放り込む。


 光が弾ける。

 雪の上に、現代日本の救助道具一式が現れた。


「ガラン、これ使え! バールだ! てこの原理で持ち上げる!」

「てこの原理?」

「細かい説明はあと! 突っ込んで、押せ!」

「なるほど、力をかける棒だね!」


 雑な理解だったが、使い方としては合っている。


 俺はLED投光器をポータブル電源につなぎ、スイッチを入れた。


 ぱっ、と白い光が吹雪の中を切り裂く。


「うおっ、明るいねぇ!」

「助かる」


 ロエンが短く言った。


 白い光に照らされ、崩れた家屋の隙間がはっきり見える。

 その奥に、誰かの腕があった。


「いた!」


 シルフィの声が震えた。


 雪と木材の下に、男性のエルフが倒れていた。

 太い梁が腰の辺りを押さえつけ、身動きが取れなくなっている。


 顔は青白い。

 睫毛には霜がつき、唇は紫色に変わっていた。


 それでも、かすかに胸が上下している。


「生きてる!」


 俺が叫ぶと、シルフィが膝をついた。


「聞こえるか! 助けに来た!」

「……う……」


 男性エルフのまぶたが、わずかに動く。


「……シル、フィア……様……?」

「喋るな。今出す」


 シルフィの声は短かった。

 だが、その手は震えていた。


「ガラン、梁を少し持ち上げろ。ロエン、体を引き出す」

「あいよ!」

「ああ」


 ガランがバールを差し込み、全身の力で押し上げる。


「ぬ、ぐっ……! 重いねぇ……!」

「無理に上げるな。少しでいい」


 ロエンが雪の上に腹ばいになり、男性エルフの肩へ手を伸ばす。


「コウタ、下に敷く物」

「分かった!」


 俺は即座に断熱マットを出した。

 ついでに、アルミ保温シートも出す。


「MP、減るなよ……いや減るに決まってるけど!」


 自分でツッコミながら、俺はマットを雪の上へ広げる。


「今だ!」


 ロエンが男性エルフの体を引く。


 ガランが梁を支え、シルフィが風で細かな雪と木片を吹き飛ばす。


 ずるり、と男性エルフの体が隙間から引き出された。


「出た!」


「すぐ包め!」


 俺はアルミ保温シートを広げ、男性エルフの体を包み込む。

 さらに毛布を重ね、貼らないカイロを布越しに添えた。


「急に温めすぎるな。ゆっくりだ。床……いや雪から離せ」

「了解だ」


 ロエンが男性エルフを断熱マットの上へ寝かせる。


 男性エルフは苦しそうに息をしながら、うっすら目を開けた。


「……シルフィア、様……」

「喋るなと言った」

「ほかの……者は……」

「どこにいる?」


 シルフィが身を乗り出す。


「長老たちはどこだ? 子どもたちは?」

「……避難、洞窟……神樹の、北側……根の奥……」


 男性エルフは途切れ途切れに答えた。


「家が……潰れて……皆、洞窟へ……精霊火を、持って……」

「避難先の洞窟か」


 ロエンが低く言う。


「そこに生存者がいる可能性が高い」

「ああ」


 シルフィの顔に、わずかに血の気が戻った。


「コウタ」

「分かってる」


 俺は男性エルフを見る。


 置いていく選択肢はない。

 だが、ここで手当てに時間をかけすぎれば、洞窟の生存者が危ない。


「ロエン、運べるか?」

「問題ない」


 ロエンは即答した。


「この者は俺が担ぐ」

「ソリに乗せた方が楽じゃないか?」

「この雪道で揺らせば悪化する。抱えた方がいい」


 ロエンは男性エルフを毛布ごと抱え上げた。


 見た目以上に軽いのか、それともロエンの力が強いのか。

 男性エルフの体は、抵抗なくロエンの腕に収まった。


「……すま、ない……」

「喋るな」


 ロエンは短く言う。


「生きて案内役を終えろ」

「……はい……」


 シルフィが神樹の北側へ視線を向ける。


「洞窟は分かる。昔、冬の備蓄置き場として使っていた場所だ」

「そこに避難してるんだな?」

「おそらく」


 シルフィの声が硬くなる。


「だが、精霊火を持ち込んでいるとしても、この寒さでは長くは保たない」

「なら急ぐ」


 俺は投光器を持ち上げた。


「ガラン、ソリ! ロエンはその人を運ぶ! シルフィ、道案内!」

「おう!」

「ああ」

「任せろ」


 俺たちは再び吹雪の中を進み始めた。


 神樹の北側。

 雪に埋もれた根の隙間を抜け、倒れた枝を避け、氷に覆われた斜面を回り込む。


 シルフィが先導し、ガランがソリを引きながら道をこじ開ける。

 ロエンは男性エルフを抱え、足場を慎重に選びながら進む。

 俺は投光器を掲げ、白い闇の中にわずかな道を照らした。


「コウタ、右を照らせ」

「右だな!」


 光を向けると、太い根の影にぽっかりと黒い穴が見えた。


 洞窟だ。


 入り口は半分雪で塞がっている。

 その奥から、かすかに青白い光が漏れていた。


「……精霊火だ」


 シルフィが息を呑む。


「まだ消えていない」


「じゃあ、中にいる!」


 俺が言うと、ロエンが小さく頷いた。


「匂いもある。大勢だ」

「よし!」


 ガランが大斧を構える。


「入口を開けるよ!」

「中に人がいる。崩すな」


 ロエンが低く釘を刺す。


「分かってるって!」


 ガランは斧の柄で雪を払い、シルフィが風で粉雪を吹き飛ばす。

 俺は折りたたみスコップを取り出し、せめて邪魔にならない範囲で雪を掻いた。


 ……三回掻いただけで息が切れた。


「コウタ、下がれ」


 ロエンに即座に止められる。


「はい」


 素直に下がった。

 引きこもりの雪かき適性は、やはり壊滅的だった。


 ほどなくして、人ひとりが通れるだけの隙間が開く。


 その瞬間、中から冷え切った空気が流れ出した。


 いや、空気というより、冷気の塊だった。


「……っ」


 シルフィが顔を強張らせる。


 投光器の光を中へ向ける。


 いた。


 数十人のエルフたちが、洞窟の奥で身を寄せ合っていた。


 だが、それは避難というより、ほとんど倒れ込んでいるのに近かった。


 老人たちは毛布代わりの薄い布にくるまり、青白い顔で目を閉じている。

 若いエルフたちも、まともに立てる者はほとんどいない。

 子どもたちは母親や姉に抱きしめられ、歯を鳴らす音すら弱々しい。


 洞窟の中央に置かれた精霊火は、消える寸前だった。


 小さな青白い光が、石の器の中でかろうじて揺れている。

 焚き火ではない。

 炎というより、命の残り火みたいだった。


「長老! みんな!」


 シルフィが空洞へ駆け込む。


 数十人のエルフたちが、青ざめた顔で力なく顔を上げた。


 その中には、以前俺たちの村を訪れた長老の姿もあった。

 彼は杖をつき、凍えきった体で、なぜか俺が貸した『熱血バトル漫画』を胸にしっかり抱きしめていた。


 本当に好きなんだな、それ。


 ……いや、今はツッコんでいる場合じゃない。


「お、おお……シルフィア……」


 長老がかすれた声を絞り出す。


「よくぞ、戻って……。だが、もう精霊の火も消えかけ……我らは、森の土に還る運命……」

「弱音を吐くな、長老!」


 シルフィが声を荒げた。


「助けを連れてきた!」


 長老の曇った目が、ゆっくりと俺の方へ向く。


「……コウタ、殿……?」


「ああ。久しぶりだな、長老さん」


 俺は膝をつき、できるだけ軽く言った。


「漫画の続き、まだ貸したままだぞ。返却期限、とっくに過ぎてるからな」

「……ふ、ふふ……」


 長老の口元が、ほんのわずかに緩んだ。


「面目、ない……。武闘大会の決勝が……あまりに熱く……返しそびれた……」

「なら、ちゃんと生きて返しに来い」


 俺は即座に言った。


「貸本屋の店長として、延滞したまま土に還られるのは困る」

「……相変わらず、妙なことを言う御方だ……」


 長老はかすかに笑った。


 だが、その笑みはすぐに苦痛で歪む。

 もう冗談を続けられる体力すら残っていない。


「話は後だ!」


 俺はガランとロエンに合図した。


「ガラン! ロエン! 暖房展開! 子どもと老人を優先! 動ける奴は壁際じゃなく中央に寄せろ!」

「おう!」

「ああ」


 ソリからポータブル電源を降ろし、セラミックファンヒーターを接続する。

 スイッチを押す。


 ゴォォォォッ!!


 魔法も詠唱もなしに、黒い四角い箱から猛烈な勢いで熱風が吹き出した。


 火を使わない。

 煙も出ない。

 大樹の空洞の中でも使える。


 現代科学が誇る、安全かつ容赦のない暖房器具である。


「な、なんだこの温かい風は……!?」

「火が点いていないのに、これほどの熱量を……!」

「黒い箱の中から、炎の精霊王の息吹が吹き出しているわ……!」


「説明はあと!」


 俺は叫ぶ。


「今は全員温まれ! 壁から離れろ! 床に直接座るな! 毛布とマットを敷け!」


 ガランが毛布を抱えて走り、ロエンがエルフたちを中央へ移動させる。

 シルフィは子どもと老人を優先して、震える者たちを抱き起こしていた。


 だが、すぐに分かった。


 足りない。


 空洞全体が冷え切りすぎている。

 床も、壁も、天井も、全部が氷のように冷たい。


 ファンヒーターの温風だけでは、空気は温まっても、体の芯まで冷えた者たちをすぐには戻せない。


「コウタ!」


 シルフィの声が飛んだ。


「こっちだ!」

「どうした!?」


 俺が駆け寄ると、そこには若い母親らしきエルフがいた。


 彼女は、布に包まれた小さな子どもを抱きしめていた。

 見た目は九、十歳くらい。

 髪には霜がつき、尖った耳は力なく垂れ、唇は紫を通り越して灰色に近い。


 胸の動きが、異様に小さい。


「……ルカ……ルカ、お願い、目を開けて……!」


 母親が泣きながら呼びかける。

 少年は返事をしなかった。

 ただ、かすかに唇が震える。


「……さむ……い……」


 その声は、ほとんど息だった。


「まずい」


 ロエンが少年の顔を覗き込んだ。


「震えが弱い。体力が切れかけている」

「どういうことだ?」

「寒さで震える力も残っていない」


 その説明で、背筋が冷えた。


 寒くて震えているうちは、まだ体が戦っている。

 震えなくなるのは、戦う力が尽き始めているということだ。


「長老!」


 別のエルフが悲鳴のような声を上げた。


「あちらの婆様も、もう返事がありません!」

「こっちの子も手が冷たい!」

「精霊火が……もう保ちません!」


 空洞の奥で、小さな精霊の火がふっと揺れた。

 消えそうになっている。

 その瞬間、空洞の温度がさらに下がった気がした。

 エルフたちの顔に絶望が走る。


「……コウタ」


 シルフィが俺を見た。


 いつもの冷静な顔ではなかった。

 怖がっていた。

 俺に助けを求めていた。


 喉が鳴った。


 俺は医者じゃない。

 救急隊員でもない。

 低体温症の正しい処置なんて、ネットで見たうろ覚え程度しか知らない。


 だけど。


 何もしなければ、目の前の子どもは死ぬ。


「通販ウィンドウ!」


 俺は叫んだ。


 空中に半透明の画面が開く。

 残りMPが表示される。


 多くはない。

 村の冬対策でかなり使った。

 道中の粘着トラップでも削った。


 でも、ここでケチったら何のために来たんだ。


「低体温症、応急、保温……災害用……!」


 震える指で検索する。

 表示された候補を、片っ端から見ていく。


 防災用アルミ保温シート。

 寝袋型エマージェンシーブランケット。

 充電式電気毛布。

 断熱マット。

 貼らないタイプのカイロ。

 湯たんぽ。

 非接触体温計。

 経口補水ゼリー。

 スポーツドリンク粉末。


「これと、これと、これと……!」


 カートへ放り込むたび、MPが減っていく。


 胸が痛い。

 だが、止めない。


「コウタ、無理に出しすぎるな」


 ロエンが低く言う。


「お前のMPも限りがある」

「分かってる!」


 俺は叫び返した。


「でも、命の限りはもっと短いだろ!」


 ロエンが黙った。


 魔法陣の光が弾ける。

 空洞の床に、保温シート、厚手の断熱マット、電気毛布、湯たんぽ、カイロの箱が次々と現れた。


「ガラン! 断熱マットを敷け! 床から離す!」

「おう!」

「ロエン! 湯たんぽに使う湯を用意! ただし熱すぎるのを直接当てるな! 布で包む!」

「ああ」

「シルフィ! 子どもと老人を優先して、保温シートで包め! 風を通すな!」

「分かった!」


 俺は少年ルカの前に膝をついた。


「おい、聞こえるか。ルカ、だな?」

「……」


 返事はない。

 母親が泣きそうな顔で俺を見る。


「お願い……助けて……この子だけでも……」

「この子だけじゃない」


 俺は言った。


「ここにいる全員、まとめて助ける。そのために来た」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 引きこもりの口から出る台詞じゃない。

 だが、出てしまったものは仕方ない。


「まず床から離すぞ」


 断熱マットを敷き、その上にルカを寝かせる。

 保温シートで包み、さらに電気毛布を上からかける。

 ポータブル電源につなぎ、スイッチを入れる。

 じんわりと熱が広がっていく。


「……息はある。けど、弱い」


 俺はルカの顔を見ながら、奥歯を噛んだ。


 外から温めるだけでは足りない。

 体の中に、熱と栄養を入れなければならない。


「温かくて、飲めて、カロリーがあって、子どもでもいけるやつ……!」


 俺はもう一度、通販ウィンドウを操作した。

 表示された候補を見て、迷わず選ぶ。


 粉末タイプの濃厚コーンポタージュ。

 大容量。

 クルトン入り。


「よし、これだ」


 俺はソリから電気ケトルを引っ張り出し、ポータブル電源のもう一つのコンセントへ繋いだ。

 水筒に入れてきた水を注ぎ、スイッチをカチッと押し下げる。


 数分も経たないうちに、ケトルの中で水が音を立て始めた。


 コポコポ。

 シュウウウウ……。


 氷みたいに冷たかった水が、あっという間に湯気を上げる。


「な……水が……」


 近くで震えていた長老が、かすれた声で呟いた。


「火も精霊術も使わずに、湯を沸かしておる……?」

「電気ケトルだ」


 俺は短く答えた。


「飲み物を作るための文明だ」

「飲み物……」


 長老の目が、ほんのわずかに揺れた。

 たぶん、思い出したのだろう。

 以前、俺の村でヒノキ風呂に骨まで溶かされ、風呂上がりのフルーツ牛乳に魂を持っていかれた時のことを。


「まさか……また、あの『ふるーつぎゅうにゅう』のような……?」

「違う」


 俺は粉末スープの袋を破りながら言った。


「今回は堕落用じゃない。救命用だ」

「救命用……」

「飲んで幸せになるためじゃなく、生き残るために飲ませる」


 大きめのマグカップへ粉末を入れる。

 熱湯を注ぐ。

 スプーンで手早くかき混ぜる。


 ホワァァァァァ……。


 立ち上る湯気と共に、凍りついた空洞の中へ、暴力的なまでに甘く、クリーミーで、トウモロコシの芳醇な香りが広がった。


「な、なんだこの匂いは……?」

「甘い……けど、温かい……」

「穀物……? いや、もっと濃い……!」


 エルフたちが、弱々しくも顔を上げる。

 長老も震える指で杖を握り直し、湯気の立つカップを見つめていた。


「コウタ殿……これは……?」

「極寒の冬山で飲む、最強クラスの温かい食事だ」


 俺はマグカップを持ち上げた。


「濃厚コーンポタージュ。クルトン入り」

「こーん……ぽたーじゅ……」


 長老が、聞き慣れない言葉を噛みしめるように繰り返した。


「以前の『ふるーつぎゅうにゅう』は、我らの誇りを溶かした……」

「言い方」

「だが、これは……」


 長老は湯気を見つめ、かすれた声で続けた。


「凍えた命を、内側から呼び戻すためのものなのですな……」

「そうだ」


 俺は少しだけ真顔で頷いた。


「だから感心するのは後にしてくれ。今は飲ませる」


 俺はスープを少し冷ましてから、スプーンでルカの口元へ運んだ。


「ほら、少しでいい。飲め。熱いから、ゆっくりな」


 ルカの唇がわずかに動く。

 最初の一口は、ほとんど口を湿らせる程度だった。


「ルカ……お願い……」


 母親が祈るように囁く。


 二口目。

 三口目。


 とろりとしたスープが、少しずつ喉を通っていく。


 ルカの眉が、ぴくりと動いた。


「……あ……」


 かすかな声。


 母親が息を呑む。


「ルカ!?」

「……あたた……かい……」


 その瞬間、空洞の中にいた全員が、まるで時間を止められたみたいに動きを止めた。


 ルカの指が、毛布をぎゅっと掴む。

 紫色だった唇に、ほんの少しだけ赤みが戻る。


「……あまい……」


 ルカの目尻から、涙がこぼれた。


「お口の中で……黄色いお野菜が、とろとろに溶けて……おなかの底に、ちいさい太陽が入ってくるみたい……」


 母親が声にならない声を上げた。


「ルカ……!」

「かあさま……ぼく……まだ、いきてる……?」

「あたりまえだ!」


 俺は思わず叫んだ。


「勝手に過去形になるな! お前は今から温まって、飯食って、寝て、村に来て、またこのスープ飲むんだよ!」

「……また、のめる?」

「飲める。約束する」


 ルカは小さく笑った。


「じゃあ……がんばる……」


 その一言で、母親はとうとう泣き崩れた。


「ルカぁぁっ……!」


 俺は大きく息を吐いた。


 助かった。

 いや、完全に助かったかはまだ分からない。

 でも、少なくとも命の火は消えていない。


「コウタ!」


 シルフィが叫ぶ。


「こっちの老人も危ない!」

「分かった!」


 そこから先は、戦場だった。


 ただし、相手は魔物ではない。


 寒さ。

 飢え。

 衰弱。

 そして時間だ。


「保温シートを配れ! 床に直接座らせるな!」

「この老人を中央へ!」

「子どもを先に!」

「湯が足りない!」

「コウタ、電源はまだ持つか!?」

「持たせる!」


 俺は追加でポータブル電源用の延長コードを出した。

 電気毛布を二枚追加した。

 断熱マットをさらに出した。

 紙コップ、スプーン、使い捨て容器。

 粉末スープ。

 経口補水ゼリー。

 スポーツドリンク粉末。

 小分けの羊羹。

 栄養補助ゼリー。


 MPが減る。


 目に見えて減っていく。


 だが、目の前ではエルフたちの顔に、少しずつ色が戻っていく。


 どちらを取るかなんて、考えるまでもなかった。


「くそ、村の冬対策で節約節約言ってたのに……!」


 俺は通販ウィンドウを睨みながら叫ぶ。


「人命救助は予算を食う!」

「今さらだねぇ!」


 ガランが毛布を配りながら笑った。


「でも、こういう時のためのMPだろ?」

「そうだけど! そうだけどさ!」


 ロエンは無駄なく動いていた。


 湯を沸かす。

 注ぐ。

 配る。

 空になった容器を回収する。

 冷え切った者を中央へ移動させる。


 さらに、全員の状態を見て優先順位をつけていく。


「震えていない者を先に見る。眠らせるな。声をかけ続けろ」

「了解!」

「子どもを母親から引き離すな。安心させた方が飲む」

「分かった!」

「ガラン、その老人は寝かせろ。座らせる体力がない」

「あいよ!」


 完全に現場指揮官だった。


 シルフィも、必死だった。


 彼女は冷静に見えて、手が震えていた。

 それでも、風の精霊術で空洞の中の冷たい空気を外へ逃がし、暖気が逃げすぎないよう入口付近の風を調整している。


「シルフィ、無理するな!」

「無理をする場面だ」

「お前まで倒れたら意味ないだろ!」

「倒れない」


 短い返事。

 だが、その横顔は真っ青だった。


「ガラン! シルフィにもカイロ!」

「おう!」

「私はいい」

「よくない!」


 俺は貼らないタイプのカイロを投げた。


「お前が倒れたら道案内が消える! 頼むから受け取れ!」

「……分かった」


 シルフィは少しだけ目を伏せ、カイロを受け取った。


 張り詰めていた空洞の空気が、少しずつ変わっていく。


 冷え切った白い息の代わりに、湯気が立ちのぼる。

 絶望に沈んでいた顔へ、少しずつ血色が戻っていく。

 誰かが泣き、誰かがスープをすすり、誰かが「温かい」と呟く。


「おお……!」


 一人の老人が震える手でコーンスープを抱きしめた。


「なんという濃厚で甘い味……! 凍えた五臓六腑に染み渡りますぞ……!」

「こちらの豚汁もすごい……!」


 別のエルフが目を見開く。


「肉と根菜の旨味が、体の芯から力を呼び覚ましてくれる……!」

「この白い米も見てください!」

「湯を注いだだけで戻るだと!? 神代の保存食か!」

「この銀の布、薄いのに温かい……」

「精霊の繭のようだ……」


「防災アルミシートだ」


 俺は疲れた声で訂正した。


「精霊の繭じゃなくて、災害時に人間が生き延びるための『文明』だ。ただのペラペラのアルミフィルムだよ」

「ぺらぺらの……あるみふぃるむ……」

「なんという神聖な響き……! 大賢者殿がもたらす、救済の文明……!」

「大賢者殿の『ぶんめい』に、祈りを……」

「拝むな! なんか変な新興宗教が立ち上がりそうだから、そのキラキラした目で両手を組んで唱和するのやめてくれ!」


 あちこちで驚きと歓声が上がる。

 さっきまで死の気配に満ちていた空洞は、いつの間にか湯気と泣き笑いで満たされていた。


 だが、安心するにはまだ早い。


「コウタ」


 ロエンが俺を呼んだ。


「全員の命は、ひとまず繋がった」

「……ひとまず、か」

「ああ」


 ロエンは空洞の外へ視線を向ける。


「だが、この場所はもう保たん。暖房を入れても、壁と床が冷えすぎている。家屋も潰れている。精霊火も限界だ」

「つまり」

「ここで夜を越すのは危険だ」


 分かっていた。


 分かっていたが、口にされると重い。


 俺は周囲を見渡した。


 毛布に包まった子どもたち。

 湯たんぽを抱えた老人たち。

 泣きながらスープを飲む母親たち。

 そして、消えかけの精霊火。


 このままここに置いて帰る選択肢は、もう存在しなかった。




「……コウタ」


 呼ばれて振り向く。


 シルフィがこちらを見ていた。

 いつもは冷静なその瞳が、涙で潤んでいる。


 彼女は何かを言おうとして、唇を開いた。


「お前が――」

「はいストップ」


 俺は即座に片手を上げた。


「そういう空気の台詞は、村に帰ってから。俺、出発前にそう言ったよな?」

「……覚えている」

「なら今は言うな。ここで言われると、俺がいい人みたいになる」

「いい人ではないのか?」

「引きこもりだ」

「それは否定していない」

「否定しろよ、そこは」


 シルフィはほんの少しだけ目を伏せた。


 けれど、すぐに弓を握り直す。

 涙は拭わなかった。

 ただ、こぼれないように堪えているようだった。


「では、礼は言わない」

「ああ。そうしてくれ」

「だが、事実だけは言わせてくれ」


 シルフィの声は、かすかに震えていた。


「お前が来ていなければ、この集落はおそらく今夜を越せなかった」

「……事実ってやつは、たまに重すぎるな」


 俺は肩で息をしながら苦笑する。


「正直、家から出たくはなかったけどな」

「知っている」

「でも、来て分かったよ」


 足元の、空になったコーンスープの箱を見る。


「ログハウスで『これくらいあれば足りるだろ』って積んできただけじゃ、全然足りなかった」

「ああ」

「現場を見て、足りない物をその場で補充できる。俺の通販って、本当はそのための能力だったんだな」


 自分で言って、少しだけ気恥ずかしくなる。


 便利だから使っていた。

 楽をしたいから使っていた。

 外に出ずに済むから、最高の引きこもり能力だと思っていた。


 だが、今は違う。


 目の前で凍えかけていた子どもが、温かいスープを飲んで息を吹き返した。

 老人たちの頬に、少しずつ血の色が戻っている。

 泣くことすらできなかった母親たちが、子どもを抱きしめて泣いている。


 それを見てしまったら、認めるしかなかった。


 俺の通販は、こういう時にこそ意味がある。


「ようやく自覚したか」

「うるさい」

「だが、まだ終わっていない」


 シルフィは涙をこらえたまま、静かに言った。


「ここは、まだ安全ではない」

「ああ」


 俺は周囲を見渡した。


 毛布に包まった子どもたち。

 湯たんぽを抱えた老人たち。

 震えながらも立ち上がろうとしているエルフたち。

 そして、今にも消えそうな精霊火。


 命は繋いだ。


 だが、安全な場所へ運ぶまでは、救助は終わらない。


「礼も感動も、全部あとだ」


 俺は大きく息を吐いた。


「村に帰って、全員を暖かい場所に押し込んで、飯を食わせて、寝かせて、それから聞く」

「……分かった」


 シルフィは小さく頷いた。


「なら、必ず帰る」

「ああ」


 俺も頷く。


「今回は、引きこもりを連れ出したお前らの勝ちだ。だから最後まで責任持って、俺ごと全員連れて帰れ」

「任せろ」


 シルフィは弓を握り直した。


「お前も、逃がさない」

「俺まで救助対象に入れるな」

「すでに入っている」

「ひどい扱いだな!」


 けれど、その軽口で、ほんの少しだけ空気が戻った。


 泣くのも、礼を言うのも、まだ早い。

 俺たちはまだ、帰らなければならない。



 エルフたちの命がひとまず繋がったことを確認すると、俺は長老の前へしゃがみ込んだ。


「さて、長老さん」


 俺は静かに切り出す。


「凍死も餓死も、とりあえず今日のところは防げた。でも――このままじゃ、この集落は冬を越せない」


「……その通りでございます」


 長老は力なく頷いた。


「精霊の加護は崩れ、家屋は半壊し、備蓄も尽きました。もはや、この森だけで冬を耐え抜く術はございません」


「だったら、一つ提案がある」


 俺は集落をぐるりと見渡した。


 潰れた家。

 雪に埋もれた道。

 震えながら身を寄せ合うエルフたち。

 そして、さっきまで命が消えかけていた子どもたち。


「俺の村へ来ないか」


 空洞が静まり返る。


「絶対に破られない結界がある。食料もある。暖房もある。少なくとも、この冬を越すだけなら困らせない」


「……!」


「冬の間だけでいい。集落ごと引っ越してこい」


「なっ……!」


 長老も、シルフィも、周囲のエルフたちも一斉に息を呑んだ。


「コ、コウタ殿の神域へ……我ら全員を……?」


「神域じゃない。ただの、俺が引きこもるための村だ」


 俺は肩をすくめる。


「まあ、結界と暖房と食料はあるけどな」


 長老が言葉を失う。


 だが、俺はそこで人差し指を立てた。


「ただし、タダ飯はなしだ」


 エルフたちがきょとんとする。


「俺は究極の引きこもり生活を目指してる。そのためには人手が足りない」


 畑の方角を指差す。


「春に向けた畑の拡張」


 森を指差す。


「木工、細工、警備、生活基盤の整備」


 そして全員を見る。


「衣食住と安全は俺が保証する。その代わり、お前たちは俺の村の住人として働いてもらう」


 助ける。

 受け入れる。

 守る。


 言葉にすれば、いかにも美談っぽい。


 だが、俺は聖人じゃない。

 何十人もの生活を抱え込むなら、それを回すだけの仕組みが必要になる。


 食わせるなら、働いてもらう。

 守るなら、村の一員になってもらう。

 住むなら、役割を持ってもらう。


 そうしなければ、助ける側も、助けられる側も、いつか潰れる。


「助けてもらう側も、助ける側も、ただの恩だけじゃ気を遣うだろ?」


 俺は苦笑した。


「だからこれは慈善じゃない」


 一拍置く。


「契約だ」


 静寂が落ちた。


 長老はゆっくりと周囲を見渡した。


 温かなスープを飲んで、かすかに笑顔を取り戻した子どもたち。

 毛布に包まり、安堵の息をつく老人たち。

 涙を浮かべる母親たち。

 震える足で、それでも立ち上がろうとしている若いエルフたち。


 長老は、震える手で杖を握り直した。


「……コウタ殿」


 かすれた声だった。


「我らは、貴殿の村を、かつて『森を堕落させる文明の巣』などと疑いました」

「まあ、実際ちょっと堕落させた自覚はある」

「ひのきの湯と、ふるーつぎゅうにゅうと、漫画によってですな……」

「今それ言う?」


 長老はわずかに笑った。


 その笑みには、以前のような威厳を取り繕う余裕はない。

 だが、命が戻った者の温度があった。


「ですが今、その文明に命を救われました」


 長老はゆっくりと俺の前へ歩み寄る。


 そして――深く。

 本当に深く。


 額が雪へ触れるほど、頭を下げた。


「……御意にございます」


 震える声だった。


「この命も、一族の未来も……コウタ殿との契約に、お預けいたします」

「長老……!」


 エルフたちがどよめく。


「いや、そんな重く預けられても困るんだけどな……」


 俺は頬をかいた。


「俺が欲しいのは忠誠じゃなくて労働力だ。あと、ちゃんと風呂の順番を守る住人」

「風呂……」


 長老の耳が、ぴくりと動いた。


「村へ行けば、あのひのきの湯も……?」

「生きて働けるようになったらな」

「ならば、働かねばなりませぬな」

「急に回復したみたいな顔するな」


「おにいちゃん!」


 ルカが元気いっぱい――とまではいかないが、毛布に包まれたまま、母親に支えられて俺の方へ手を伸ばした。


「ぼく、いっぱいはたらく……!」

「いや、お前はまず寝ろ」

「だから……また、あのあまいスープのんでもいい?」

「そっちが本命か」

「えへへ……」

「正しい子どもだねぇ」


 ガランが豪快に笑う。


「交渉成立ってことじゃないか」

「違いねぇ」


 俺はルカの頭を軽く撫でた。


「よし!」


 立ち上がる。


「ガラン、ロエン!」

「おう!」

「怪我人と子どもを最優先! ソリで村までピストン輸送だ! 歩ける奴は毛布とカイロを持って移動準備! 歩けない奴は寝袋型シートに包んで運ぶ!」

「任せな!」


 ガランが肩を鳴らす。


「この程度の雪なら、まとめて引っ張ってやるよ!」



「村に戻ったら、必要な物資は俺が追加で出す!」


 俺は空洞の中を見渡した。


「一人も残さず、全員連れて行くぞ!」

「ああ」


 ロエンが静かに頷き、俺を真っ直ぐに見た。


「出発前、俺はお前を『何を生かし、何を温存し、何を切るかを決める者』だと言ったな」

「……言ったな。だから責任が重いって言ったんだよ」

「訂正しよう」


 ロエンは一拍置いた。


「お前は、何も切らなかった」

「……」

「ここにいる全員を生かす道を選び、それを実現させた」


 ロエンの口元が、わずかに緩む。


「やはりお前は、ただの引きこもりではない。俺たちの命を繋ぐ、最高の補給線だ」

「……その言い方、さっきよりさらに責任が重くなったんだけど……」

「事実だ」

「そこは否定しろよ」


 苦笑しながら肩を回す。


「まあいい。やるしかないか」


 こうして。


 俺たちの『集落まるごと救出作戦』が始まった。


 静かな引きこもり生活を送るはずだった名も無き村は、この日を境に数十人ものエルフを迎え入れることになる。


 畑は広がり、家は増え、仕事も騒ぎもきっと何倍にもなるだろう。


 ……間違いなく、俺の理想の「静かな引きこもり生活」からは遠ざかる。


 だが。


「コウタ様ー! 次のお湯が足りません!」


「坊や! 毛布も追加だよ!」


「こっちの子、もう一杯スープを!」


「コウタ!」


「通販!」


「はいはい、今出す!」


 ――どうやら今日も、現地通販担当は休ませてもらえそうになかった。

これで第一章は終わりです。

またしばらくして第二章の更新を開始します。

今まで読んでいただきありがとうございました。

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今もっとも面白い小説だと思ってます。 早い再開を期待しています
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