第四十四話 結界の欠陥(ポンコツ)と、森のインターホン
天才にしてポンコツな引きこもり魔導士、エルマが徹夜とピザとコーラの力で完成させた絶対不可視の多重防衛結界。
その効果は、想像を絶するほど完璧だった。
完璧すぎた。
結界稼働から数日。
俺の村――ログハウス周辺は、まるで世界から完全に切り離されたみたいな、極上の静寂と安全に包まれていた。
狂暴な魔物が迷い込んでくることもない。
怪しげな貴族の討伐隊が、森の中を嗅ぎ回る気配もない。
結界の外から見れば、ここはただの鬱蒼とした森の一部。
たとえ物理的に足を踏み入れようとしても、認識阻害によって、無意識のうちに村を迂回させられてしまうらしい。
つまり、誰も来ない。
誰にも見つからない。
誰にも邪魔されない。
「……まさに、引きこもりにとっての理想郷だな」
エアコンの効いたログハウスのリビングで、俺は冷たい麦茶を飲みながら、タブレット端末に映るドローンの空撮映像を眺めていた。
ドローンのカメラを高度百メートルまで上げ、真下を見下ろす。
だが、画面に映っているのは、ただの緑の絨毯だった。
ログハウスも。
プレハブ小屋も。
ソーラーパネルも。
畑も。
タープも。
何も見えない。
俺たちが暮らしている場所だけが、世界の地図からきれいに消えている。
すごい。
すごすぎる。
エルマ、ポンコツだけど本当に天才だった。
「完璧だ。これで俺は、一生この家から一歩も出ずに、怠惰に生きていける」
俺は満足げにうなずき、ソファへ深く背中を預けた。
冷えた麦茶。
静かなリビング。
外敵を完全に遮断する魔法結界。
引きこもり生活、ついに完成である。
そう思った。
思ってしまった。
だが、その完璧すぎる結界の映像を見つめているうちに、俺の脳裏にふと、ある重大な疑問がよぎった。
「……ん?」
俺はタブレットの画面を拡大し、結界の境界線付近の獣道を確認した。
誰もいない。
誰も来ない。
誰も来られない。
……誰も、来られない?
「おい、ちょっと待て」
俺は跳ね起きた。
タブレットを掴んだまま、ログハウスを飛び出す。
そのままプレハブ二号棟――エルマの魔導工房へ走り、ドアを叩いた。
ガンガンガンッ!
「エルマ! 起きてるか!」
「は、はいぃっ!? 敵襲ですか!? 爆発ですか!? それともカップ焼きそばですか!?」
がちゃり、とドアが開く。
寝癖で髪を爆発させたエルマが、ボロボロの魔導書を抱えたまま飛び出してきた。
丸眼鏡がずり落ちている。
そして選択肢の三つ目がおかしい。
「いや、敵襲でも爆発でもカップ焼きそばでもない」
「では、何でしょう?」
「確認なんだけどさ。お前の張ったこの結界、外からは絶対に見えなくて、誰も入れないんだよな?」
「ふふん! もちろんです!」
エルマは眼鏡をくいっと押し上げ、得意げにふんぞり返った。
「コウタ様が与えてくださったホワイトボードのおかげで、術式の精度は過去最高です! 神の目を持ってしても、この村の座標を特定することは不可能! 敵意ある者はもちろん、無関係な通行者であろうと、自然に進路をずらされます! まさしく完璧な引きこもり要塞です!」
「……じゃあ、俺の頼んだ荷物を運んでくるトムじいは、どうやってここに来るんだ?」
「……え?」
エルマの動きが、ぴたりと止まった。
「トムじいだよ。麓の街の商人。数日に一回、街から香辛料とか布とか、野菜の種とか、生活必需品を運んできてくれる大事な物流ライン」
「……物流、ライン」
「そいつもこの村が見えなくなって、入れなくなってるんじゃないか?」
「あ……」
エルマの顔から、さぁーっと血の気が引いていく。
「しょ、商人……? 外部からの、定期的な来訪者……?」
「お前、まさか身内以外のアクセス権限、設定し忘れたのか?」
「わ、忘れていたわけではありません!」
エルマは慌てて両手を振った。
「ただ、コウタ様が『誰も入れない最強の結界を』と仰ったので、仕様書通りに外部からの物理的・魔力的アクセスを百パーセント遮断する絶対防御の多層式ファイアウォールを構築しただけでして……!」
「それを世間では、仕様のヒアリング不足って言うんだよ」
「ひありんぐ……不足……!」
完全に、要件定義に失敗したシステム開発案件である。
結界そのものは完璧。
だが、運用設計が抜けていた。
天才だけど、そういうところがポンコツなのだ。
「だっははは! そりゃあ傑作だねぇ!」
騒ぎを聞きつけてやってきたガランが、腹を抱えて笑い出した。
「結界が強すぎて、アタシたちの飯の材料を運んでくる商人が迷子になっちまうとは! 引きこもりすぎて餓死しちまうよ!」
「笑い事じゃないんだよなあ……」
俺は頭を抱える。
安全は大事だ。
だが、物流も大事だ。
いくら結界の中が快適でも、外から物資が一切入ってこなくなれば、俺の生活の質はじわじわ死ぬ。
トムじいが持ってくる香辛料。
布。
金属工具。
珍しい種。
異世界食材。
あれらは今や、この村の生活を地味に支える重要インフラである。
外敵を遮断したら、ついでに宅配便まで遮断しました、では困るのだ。
「わ、笑い事ではありません! す、すぐに結界の術式を書き換えて、特定個体だけをスルーするバイパスを構築します! 対象者の魔力波長を登録し、座標誘導を再計算して、敵性判定と物流許可判定を分離して……三日、いえ、二日徹夜すればなんとか!」
「徹夜前提で話を進めるな」
エルマは涙目でプレハブへ戻り、ホワイトボードに狂ったような速度で数式を書き殴り始めた。
待て。
そのルートはまた倒れる。
そしてまた臭くなる。
「いや、待てエルマ。そんな面倒なことをしなくても、もっと簡単な解決策がある」
「簡単な解決策……ですか?」
エルマがマーカーを握りしめたまま振り返る。
「ああ。要は、トムじいが結界の外まで来た時に、俺たちがそれに気づいて、中から一時的に入口を開けて迎えに行ければいいんだろ?」
「それはそうですが……結界の性質上、外側から内側へ直接干渉するのは難しいです。向こうから魔力通信でも送ってくれれば別ですが、ただの商人では……」
「だから、現代の文明の利器を使うんだよ」
俺はにやりと笑い、空中に《快適生活お取り寄せ》のウィンドウを呼び出した。
拠点通販Lv.3によって、監視・通信・スマートホーム連携まわりはかなり強化されている。
こういうインフラ整備こそ、現代文明の得意分野だ。
「購入」
青白い魔法陣から現れたのは、小さなカメラとボタンがついた黒い長方形の機械。
そして、それとペアになる室内用のモニター付き受信機だった。
「なんだい、それは? また新しい魔道具かい?」
ガランが不思議そうに覗き込む。
「これはワイヤレス・インターホン。防雨、暗視カメラ付きだ」
「いんたーほん」
「森の呼び鈴、みたいなもんだな」
俺はインターホンの子機を手に取った。
「これを、結界の外縁部――トムじいがいつも通ってくる獣道の途中の木にくくりつけておく。トムじいがここまで来て、このボタンを押せば、俺のログハウスにある親機の画面に顔が映って、会話ができる」
「……ボタンを押すだけで、遠く離れた場所に映像と声を届ける……?」
エルマが、またしても未知のテクノロジーに触れ、丸眼鏡をキラキラと輝かせた。
「電波という見えない波を使った通信機器ですね! それなら、魔力隠蔽の結界にも干渉しません! しかも相手側に魔力適性がなくても使える! コウタ様、やはりあなたは天才です!」
「作ったのは俺じゃないけどな」
「運用設計の天才です!」
「そこはちょっと嬉しい」
「で、エルマ。お前は結界の入口を、俺のスマホ操作で一時的に開け閉めできるようにしてくれ」
「スマホと結界を連動……つまり、リモート操作用の魔力リンクですね! すぐやります!」
「今度は徹夜なしで頼む」
「努力します!」
「努力じゃなくて制限にしろ」
*
こうして、俺たちの引きこもり要塞の入口に、現代日本のインターホンという、地味だが最強の来客対応システムが導入されることになった。
設置場所は、南側の獣道沿いにある大きな杉の木。
そこは、トムじいがいつもロバの荷車でやって来るルートの途中であり、結界の外縁部にあたる場所だった。
俺は脚立代わりの折りたたみ踏み台に乗り、インターホンの子機を木の幹へしっかり固定する。
防雨カバーもつける。
ついでに、ラミネートした手書きの案内板も結びつけた。
『御用の方は、このボタンを押してください』
異世界文字はシルフィに書いてもらった。
「……なあ、シルフィ。これで読めるよな?」
「ああ。読める」
「文面、変じゃない?」
「少し丁寧すぎるが、問題ない」
「ならよし」
「ただ、この森の奥で“御用の方は”という案内がある時点で、だいぶ異常だ」
「それは言うな」
エルマは木の根元で結界の境界線へ魔力リンクを組み込んでいた。
「ここに、コウタ様のスマホからの操作信号を受け取る簡易開閉術式を重ねます。通常は完全閉鎖。インターホンで来訪者を確認し、許可した場合のみ、三分間だけ通行可能なゲートを生成。三分経過で自動閉鎖。どうでしょう?」
「完璧だ。ついでに、閉じ忘れ防止があるのは偉い」
「前回の反省を活かしました!」
「成長している……」
ポンコツはポンコツでも、失敗から学ぶタイプのポンコツである。
それは大事だ。
俺はスマホの画面に表示された新しいアイコンを確認した。
『結界ゲート開閉』
押すと開く。
もう一度押すと閉じる。
タイマーで自動閉鎖。
かなり便利だ。
もはやファンタジーの魔法結界というより、スマートロック付きの高級マンションである。
「よし、テストするぞ」
俺はインターホンのボタンを押した。
数秒後、ログハウス側に置いた親機から、軽快なメロディが聞こえてくる。
『ピンポーン♪』
さらに、タブレットに接続した画面へ、木の前に立つ俺たちの姿が映った。
「おお、ちゃんと映ってる」
「……自分の姿が小さな板の中にいるのは、何度見ても落ち着かんな」
ガランが画面を見て眉をひそめる。
「映像だって」
「分かってはいるけどねぇ」
「この距離で声も届くのか」
ロエンが親機へ顔を近づける。
「届くぞ。ほら、話してみろ」
俺が通話ボタンを押すと、親機側からロエンの声が少し遅れて響いた。
『……畑は無事か』
「テストの第一声がそれなのかよ」
「重要だ」
「この機械に聞くことじゃないだろ」
「念のためだ」
その横で、ポテトがインターホンの子機へ鼻を近づけ、くんくん嗅いでいる。
「ガウ?」
「食べ物じゃないぞ」
「ガウゥ」
「最近、お前にそればっかり言ってる気がするな」
*
その日の午後。
ログハウスのリビングで、俺がタブレットで電子書籍を読んでいると、テーブルの上に置いたインターホンの親機が、軽快なメロディを奏でた。
『ピンポーン♪ パンポーン♪』
「お、来たな」
俺は身を起こし、親機の通話ボタンを押した。
小さな液晶画面に映ったのは、大汗をかき、困り果てた顔のトムじいだった。
『あ、あー、コウタ殿!? 聞こえますか!? 私です、トムです!』
画面越しのトムじいは、周囲の森をきょろきょろと見回しながら、インターホンのカメラに向かって叫んでいた。
『教えられた獣道を通ってきたはずなのですが、いくら歩いても村にたどり着かないのです! それどころか、木に括り付けられたこの奇妙な箱から急に声がして……私は森の妖精に化かされているのでしょうか!?』
「妖精じゃなくて結界だよ。トムじい、そこにいてくれ。今開けるから」
『け、結界……? 開ける……?』
トムじいの声が震える。
俺はスマホのアプリを開き、エルマが魔力リンクを組んでくれた特製ボタンをタップした。
『結界ゲート開放』
すると、画面の中でトムじいの目の前の空間が、まるで薄いカーテンを開くように、すうっと左右へ割れた。
鬱蒼とした森の奥に、突然、ログハウスと畑とソーラーパネルのある村の風景が現れる。
『な……っ!!??』
トムじいが、腰を抜かして地面に尻餅をついた。
『く、空間が……森の風景が割れて、中に別の世界が……!? こ、これがコウタ殿の真の力……!!』
「違うって。俺の仲間の魔導士が張った防衛結界だよ」
俺は外へ出て、荷車を引いて唖然としているトムじいを出迎えた。
「わざわざ悪いな、トムじい。これで、あの鬱陶しい貴族の調査隊も、魔物も、この村には入ってこられない。俺とお前の、完全な秘密の取引所だ」
「……恐れ入りました」
トムじいは、まだ腰が抜け気味のまま、深々と頭を下げた。
「麓の街では、騎士団を退けた森の大賢者の噂で持ちきりですが、まさかこれほどまでの神域を構築されているとは……。街の者どもが聞けば、間違いなく祠を建てますぞ」
「やめろ。余計な信仰を増やすな」
「では、秘密にしておきます」
「本当に頼むぞ」
「もちろんです。商人にとって、秘密は商品よりも重いことがございますので」
さすがトムじい。
ここぞという時の顔は、ちゃんと商人である。
彼は荷車から木箱を下ろし始めた。
「頼まれていた物資、お持ちいたしました。最高級の小麦粉、新鮮な果物、各種布地、それから……ロエン殿がご所望されていた、南方の珍しい野菜の種です」
「おお、助かるよ。それと、例の黒い豆は手に入ったか?」
「はい。こちらです」
トムじいが取り出したのは、麻袋に入った黒褐色の豆だった。
俺が以前、コーヒー豆みたいなものはないかと特徴を伝えて探してもらっていた、異世界の嗜好品である。
袋を開けると、独特の焦げたような、それでいて芳醇な苦い香りがふわりと漂った。
「……素晴らしい。これなら、俺の求めるアレが作れそうだ」
「街では、眠気覚ましの苦い煎じ汁として一部の学者や商人に好まれております。ただ、クセが強いので一般受けはあまりしておりませんな」
「分かってないな、こっちの世界の人間は」
「は?」
「いや、こっちの話」
俺は満足して頷き、トムじいに約束の対価として、金貨と追加の百円ライター、そしてコンソメ味のポテトチップスを渡した。
「おおっ、またこの理性を削る薄片を……!」
「売りすぎるなよ。中毒者が出るぞ」
「もう半分ほど出ております」
「出てるのかよ」
「ですが、量は厳しく管理しておりますので!」
「そこは本当に頼む」
トムじいは、俺が渡した現代品を宝物のように荷車へしまう。
「では、私はこれで。次回もこの森の呼び鈴を押せばよろしいのですね?」
「ああ。次に来る時も、そのインターホンを押してくれ。勝手に結界へ突っ込むと、たぶん森をぐるぐる回ることになる」
「命じられずとも押しますとも! あのような神秘の門、二度と迷子になってから入りたくはありませんので!」
トムじいが空間の裂け目を抜けて森へ戻っていく。
俺がスマホを操作すると、結界は再び音もなく閉じ、外界との繋がりを完全に遮断した。
画面の向こうでは、ただの森だけが揺れている。
「……よし」
俺は小さく息を吐いた。
物流ルート、復旧。
秘密性、維持。
来客対応、文明化。
完璧である。
*
物流ルートの安全も確保され、村は再び平和を取り戻した。
しかし、結界の調整と魔力リンクの構築で頭脳をフル回転させたエルマは、プレハブ小屋の前の芝生の上で、完全に力尽きて干からびていた。
「……コウタ、様……」
エルマが、地面に突っ伏したまま、かすれた声で俺を呼ぶ。
「脳の……魔力回路が……焼き切れそうです……。至急、冷却と……致死量の糖分を……」
「致死量はやめろ」
「では、生存に必要な過剰糖分を……」
「言い直しても危ないな」
俺はため息をつきつつも、彼女がよく頑張ったのは事実なので、素直に頷いた。
「分かった分かった。今日は特別に、極上の甘味の宴を用意してやる」
俺の言葉に、ハンモックで寝ていたシルフィと、木の上で日向ぼっこをしていたミリィの耳が、弾かれたようにぴんと立った。
「甘味だと?」
「あまいもの! わたし、たべる!」
エルフと獣人の女性陣が、凄まじい速度でタープの下のテーブルに集合する。
甘いものへの執着は、種族や世界を超えた共通の真理らしい。
「よし、お前ら。現代日本のスイーツ屋台文化の一角を味わわせてやる」
俺は《快適生活お取り寄せ》を開き、セット購入で調理器具と材料を召喚した。
テーブルの上に現れたのは、巨大なホットプレート。
そして、トムじいから仕入れた小麦粉、卵、異世界の獣の乳を使って俺が事前に作っておいた、さらさらのクレープ生地。
さらに、通販で取り寄せたホイップクリーム、チョコレートソース、バナナ、イチゴのトッピング一式。
「なんだいそれは? 汁を鉄板で焼くのかい?」
ガランが、ホットプレートを不思議そうに見つめる。
「これはクレープだ。見てろよ」
俺は熱したホットプレートに薄く油を引き、お玉一杯分の生地を流し込んだ。
専用のトンボを使って、生地を素早く、均等に、限界まで薄く円形に広げていく。
ジュワァァァ……。
軽快な音と共に、生地が焼けていく。
バターと卵の甘く香ばしい匂いが、タープの下へふわりと広がった。
「な……っ!?」
干からびていたエルマが、ゾンビのように跳ね起きた。
「な、なんですかこの匂いは……! パンとも違う、ケーキとも違う……圧倒的に甘く、そして暴力的に食欲をそそる香気……!」
「まだまだ、ここからだ」
生地の端がちりちりと焼け、薄いきつね色になったところで、俺はスパチュラで器用に裏返した。
数秒だけ火を通し、すぐに皿へ移す。
薄く、しっとりとした焼きたてのクレープ生地。
その半分に、俺は容赦なく、たっぷりと純白のホイップクリームを渦を巻くように絞り出した。
「おおおおっ……! 白い雲が、生地の上に乗った!」
ガランが歓声を上げる。
「コウタ! はやく! はやくたべたい!」
ミリィが尻尾をぶんぶん振り回し、目を輝かせている。
クリームの上に、スライスしたバナナとイチゴを並べ、その上からチョコレートソースを網目状に美しくかける。
最後に、生地をぱたん、ぱたんと扇状に折りたたむ。
完成だ。
「さあ、食ってみろ。チョコバナナ生クリームクレープだ。両手で持って、大きな口でかじりつくのが作法だぞ」
俺が一つ目のクレープを差し出すと、一番糖分を欲していたエルマが、ひったくるようにそれを受け取った。
「い、いただきます……!」
エルマが、大きく口を開けてクレープの頂点へかぶりつく。
サクッ。
フワァッ……。
「……ッ!!???」
エルマの丸眼鏡が、今日一番の輝きを放った。
「な、なんという……なんという暴力的な甘味の多重奏ですか……!!」
エルマが、クレープを両手で握りしめたまま絶叫した。
「焼きたての生地の温かさと香ばしさ! その直後に押し寄せる、冷たくてふんわりとした生クリームの圧倒的な暴力! さらにバナナのねっとりとした甘みと、イチゴの瑞々しい酸味、チョコレートのほろ苦さが完全に調和して……これは、脳の報酬系を直接破壊する禁断の甘味術式です!!」
「食レポが毎回危険物扱いなんだよな」
「危険です! 幸福が危険です!」
「名言っぽいこと言うな」
エルマはもう止まらなかった。
顔の半分を白い生クリームだらけにしながら、猛烈な勢いでクレープを吸い込み始める。
「あたいも――じゃない、アタシも食うよ!」
ガランも俺が焼いた二つ目のクレープにかぶりつき、目を丸くした。
「んまァァァァァァァァイ!! なんだいこれ! 肉料理のガツンとくる旨味とは全く違う、体がとろけるような幸福感! この白いクリーム、無限に食えるねぇ!」
「無限に食うな。腹壊すぞ」
「でも無限に食いたい!」
「気持ちは分かる」
「あまい! ふわふわ! イチゴ、すっぱくておいしい!」
ミリィも顔をクリームまみれにして、幸せそうに目を細めている。
「ミリィ、口の横」
「あとでなめる!」
「最近そればっかりだな」
「むだにしない!」
「偉いようで行儀は悪い」
「……エルフは森の果実を愛する」
シルフィはいつものように、やや偉そうな前置きから入った。
だが、その手にはすでにクレープが握られている。
「しかし、この人工的に極められた甘味の階層は……悔しいが、認めざるを得ない。森の伝統菓子が、ただの木の実に思えてくるほどだ」
「それ、エルフ的に言っていいのか?」
「言うな。今のは聞かなかったことにしろ」
「いや、自分で言っただろ」
「コウタ、もう一つだ。次はクリームを倍にしろ」
「開き直りが早いな」
「糖分の前では誇りなど軽い」
「エルフが言っていい台詞じゃない」
女性陣がクレープの虜になり、俺がひたすら生地を焼き続けている間。
甘いものにあまり執着しないロエンは、一人静かに、俺が用意したもう一つのご褒美を嗜んでいた。
「……コウタ。この黒い湯は、本当に美味いな」
ロエンが、トムじいから仕入れた異世界の黒い豆を焙煎し、通販で買ったフレンチプレスで抽出した熱いコーヒーを、マグカップでゆっくりとすすっている。
「だろ? 甘いクレープの後に、その苦味と香りが最高に合うんだよ」
「ああ。土の香りと、焦げたような深い苦味……。これは、大人の飲み物だ。畑仕事の前に飲めば、全身に力がみなぎる気がする」
「飲みすぎると寝られなくなるからな」
「それは困る」
「そこは困るんだな」
「朝の仕事に響く」
「結局、畑か」
狼獣人のハードボイルドな横顔が、コーヒーの湯気の向こうで妙に絵になっていた。
俺も自分の分のクレープ――シンプルなバターシュガーを焼き、冷たいアイスコーヒーと一緒に口へ運ぶ。
バターの塩気。
砂糖の甘み。
薄い生地の香ばしさ。
そして、アイスコーヒーの爽やかな苦味。
「……最高だな」
外の世界からは完全に見えなくなった、俺たちだけの秘密の要塞。
インターホンという現代の文明の利器で物流を確保し、あとは結界の中で、仲間たちと美味いものを食って怠惰に過ごすだけ。
エルマの少しのポンコツと、俺の《快適生活お取り寄せ》のハイブリッドが、この引きこもり生活をさらに完璧なものへと押し上げてくれた。
「コウタ様! クレープのおかわりをお願いします! 今度はチョコレートソースを三倍で!」
「おい、私もまだ二つしか食べていないぞ。私を優先しろ」
「だっははは! アタシは五つ目だ! 早く焼いておくれ!」
「コウタ! わたし、イチゴいっぱい!」
「ガウッ!」
「ポテト、お前はクリームなしの生地だけな」
「はいはい、順番に焼けよ。生地はいくらでもあるからな」
真夏の青空の下。
外の喧騒や脅威からは完全に隔離された結界の内側で、俺たちのやかましくて甘い引きこもりライフの宴は、夕暮れまで延々と続いた。
完璧な結界にも、ポンコツな欠陥はあった。
けれど、欠陥は直せばいい。
足りないものは、通販で補えばいい。
そして、補った結果、だいたい生活は前より少し便利になる。
俺の理想の引きこもり生活は、今日もまた一つ、現代文明と異世界魔法の雑な連携によって、取り返しのつかないくらい快適な方向へ進化してしまったのだった。




