83、溺れる母性
何度撫でてやったか分からない妹弟の髪の固さを思い出し、鬼は拳を握り締める。
「ボクら子供の守護者が干渉できるのは10歳までの幼子に対してだけだ。…僅かな時間だけれど、この10年の月日は掛け替えのない時間だとボクは思っている」
「だったら…シソキの【終極の願い】が変わればリナイトを返して貰えるってことだよな!?」
「残念だけどシソキ君の【終極の願い】を今更変えてももう遅いんだよ」
「……!?」
「キミ達はキミ達が望む顔に変えさせるためにリナイト君をこの色めきの滝壺に連れて来たんだよね?」
「はぁ?…変えさせるだなんて人聞きの悪いこと言わないで。リナイト本人が望んで、リナイト本人の意思で美の女神の魔法を浴びる予定だったのよ。他者が強制的に魔法を獲得させる『【願い】の【窃盗】』に該当するかのような言い方はやめてよね」
「今は『【願い】の【窃盗】』に該当しなくとも、リナイト君が成長したらどーだろね?」
鬼の軽い口調は変わらない。
けれどシソキが反論し、言葉を重ねる度に鬼の周囲に怒気が立ち込めるのを肌で感じる。
ぴきぴきと音が鳴っているのは鬼が衣服の下の静脈が浮き出るほど鬼が怒っているからだ。
ワルサーが読み取っている鬼の怒りの感情が私の頭の中に流れ込んで来る。
「…キミ達は美の女神の魔法を受けさせるためにリナイト君に容姿が劣っていると教え込んでいたね。子供はね、親者人に対して見返りのない絶対的な愛情を向けてしまうものなんだよ。キミ達が教えた言葉の意味を理解し、愛するキミ達に生まれ持った容姿を否定されていた事実に気付いた時、リナイト君はどんな感情を抱くと思う…?」
「…は?マジで鬼ってバカじゃないの!?アタシは子供の頃自分の容姿に苦しめられたわ!リナイトも同じよ!早くに美しい容姿を手に入れさせてもらえた事を感謝するに決まってるわ!」
「馬鹿はシソキ君、キミだよ。人の感性は千差万別だ。勝手にリナイト君の心の指針まで定めるもんじゃないよ」
「ねぇ、アンタマジで何を言ってるの?意味がわからない!だから鬼って嫌われるのよ!」
シソキの罵りに鬼はからからと笑う。
「そうなんだよねぇ。ボクらは子供を愛してるのに、子供たちから最も嫌われてる人間はボクら傅なんだよね。まぁ10歳になるまでは強制的に子供の國に押し込めておいて15歳になった途端、有無を言わさず國から追い出すんだから怨み辛みも大きいのも仕方ないけどさぁ。ボクら傅は生涯子供達に片想い。ま、それも仕事の内なんだけど。でもせつないもんだよなぁ」
生涯片想い…か。
私、なんとなく鬼の切なさは理解出来るかも。
私も親愛なる妹に嫌われており、絶賛片想い中だ。
だが、私の場合は自業自得で凪ちゃんに嫌われているけれど、鬼は真摯に子供と向き合っているにも関わらず子供達からは漏れ無く嫌われてしまっている。
それは子供の國の内外に多数存在する鬼の全てが子供に関する情報を共有し把握している不気味さが起因しているのかもしれない。
「私でさえ幼少期には凪ちゃんから好かれていたというのに…。鬼…気の毒…」
鬼に感情移入してしまった私は目頭を押さえて涙が滲むのを堪える。
「…イサナ。この世界の人間の殆どが当たり前に鬼を嫌っています。彼らは世界一の嫌われ者ですよ。鬼に情けは無用です」
「えー。まさかワルサー君もボクらのことが嫌いなの?」
「俺は俺とイサナ以外の人間は全て嫌いです」
「そっかあ。じゃあ仕方がないなぁ」
鬼は再びからからと笑う。
「クソ鬼が!アタシとの話はまだ終わってないだろーが!何笑ってんのよ!」
「そう?まだ話す?じゃあ続けるけど頭が凝り固まってるシソキ君に理解できるかなぁ……?」
「ふざけないで!」
「シソキ君。そもそもこの地は育児をするのに向いていないんだ。子供の國の他に育児に向いているのは魔法が使えない質実の國と森羅の國の中だけだよ。幼い精神に排他感情を抱かせてみろ。リナイトが幼稚な感情のままに誰かに対して本気の【殺意】抱いてしまったなら世界の理は即座にリナイトを自身を消失させるだろ?」
「うちの子が【殺意】なんか持つわけがないじゃない!アタシの子よ!?アタシの分身なの!アタシはリナイトの考えは全部わかってるの!【殺意】を持つ可能性ですって?ゼロよ、ゼロ!皆無よ!」
苛立つシソキに応じたのは鬼ではなかった。
雄々しい体に似合わぬ震える声を絞り出したのはドジャス。
「…リナイトが…オレたちより早く死ぬって言うのか…?」
「はぁ!?パパまで何を言ってるの!?」
「あくまでも可能性の話だけれどね。【魔法】っていうのは殺人の為の道具の用意も下調べも無用だから頭を冷やす時間もないままに殺人を成してしまう。激情は即座に攻撃魔法を発動させてしまうんだよ。我に返った時には己の身は消失を始めていて残された時間は24時間を切っている…なんてよくある話だろ?」
「でも…リナイトがまさか…オレたちを恨むだなんて…」
鬼の体が一回り大きくなる。
シソキとドジャスを怒鳴り付けるまいと感情を圧し殺し続けた結果、鬼の肉体はぐんと膨らんだのだ。
「キミ達が親としてリナイトに教えた言葉は最低だったじゃないか。リナイトが…ブサイク?容姿の評価を下していいのは本人だけだ。リナイトの全てはリナイトの為にあるんだからな。そうだろ?」
鬼が瞳を大きく見開く。
これ以上食い下がっても無駄だと言わんばかりだ。
徒ならぬ鬼の様相にドジャスは口を閉じるが、シソキは止まらない。
「パパ!?何を黙ってるのよ!アタシに似た可愛いお顔の子供を育てたいっつったのはアンタでしょ!?」
鬼はもう2人の相手をするつもりはないらしい。
体を元の大きさに戻し、色めきの滝から注がれる微量の霧が体に付着したことで水滴となったのをつまらなそうに払い落とす。
相手にして貰えなくなったことでドジャスは青褪める。
「…もう何をしても無駄だ。相手は鬼なんだぞ…」
「…あの鬼を殺してよ…。パパにできないならアタシが…」
「やめろよ。お前が死ぬだけだ…」
「何よ…この根性なし…!」
ドジャスが泣き崩れるとシソキが涙を滲ませる。
鬼は長い副腕を伸ばし、2人の背を優しく撫でてやる。
「リナイトに会いたいのなら『女性の國』か『男性の國』へお行き。もう親として干渉する事は出来ないが子供の國に時折入國してリナイトの様子を見に行く事は出来るからね」
「…もうあの子を育てさせてもらえないの…?」
「…おかしな子だね。【願い】を叶えて死ぬつもりだったんだろう?何を悔やんでいるのさ」
「生きているのに自分の子を抱けなツラさは鬼のアンタになんかわからないでしょうね!」
シソキはうわあんと大きな声で泣き出す。
鬼は彼女にはもう何も言わず、ドジャスに「慰めておやり」と声を掛けるとぬかるむ地に沈み始める。
「…先生…。…リナイトを…うちの…うちの子を…助けてくれた事は…感謝する…」
ドジャスは鬼に顔を向けずに礼を言う。
ワルサーからは見えている彼の顔には怒りと悔しさに満ちている。
懸命に振り絞って伝えた言葉だった。
鬼は呪いのような感謝の言葉に慣れている様子でひらひらと手を振ると、とぷんと地に沈んで消えてしまった。
鬼の視野から外れ、畏怖魔法から解放されるとシソキは泥土に倒れ込んで泣き喚く。
駆け寄り慰めるドジャスをシソキが拒絶をし、汚れた腕でドジャスの胸を殴り付けた事で跳ねた泥がワルサーの髪を掠めてしまい、ワルサーがブチギレていた。
私はその光景をただぼんやりと地球から眺めていた。
願えばその殆どを叶える事が可能な魔法の世界。
その夢のような世界の陰を目の当たりにした私は叶球の体の中に再び入る決心が付かなくなってしまった。




