19、暇
眼下を流れる薄い雲を黙々と歩みを進めながら見つめる。
私の立つ場所を避けて流れる激しい気流。
どこかそう遠くはない場所でクレバスを覆い隠していた厚く固い雪が重みに耐えきれなくなり裂け目に落ちていく音が響いている。
険しく厳しい山の表情を切り立った尾根から望む。
マリルドが去ってからもう1週間が過ぎていた。
ウーターニャは診療に出るようになり、日中は私は1人で過ごすようになった。
特に働くでもなく城の中を探索したり、素顔を隠して町に下りて散策したり、駆け回ったりして過ごす日々に…罪悪感が生まれてきた。
「私…何もしてない…!!町で買った撥水コートの布で、てるの助くんにフードに目玉と口を描き込んだレインコートを作ってあげた以外の実績が…ない…!!」
『まさか。イサナは存在してくれているだけでこの世の何よりも価値がありますよ』
「うん、違う。でも肯定してくれてありがとう」
『てるの助もイサナの素晴らしい画力のお陰で油断を誘う味わい深い家付き虫になりましたし』
「…絵がヘタってはっきり言ってくれていいよ。…いいもん。てるの助くんと目線が合うようになったから私はいい仕事をしたと思ってるもん」
『やさぐれないで下さい。何かしたいのであれば、俺に愛を囁けば良いでしょう?』
「うん、それはやだ。そうじゃなくてさ。人の役に立ってないこの状況が不安なの」
『イサナは存在するだけで俺の役に立っていますが…?』
あ、ダメだ。
ワルサーと話していてもなんだろう…手応えがない。
価値観が異なり過ぎる。
人の役に立ちたいと言っても世の役に立ちたいとかそういう立派なことを希望しているのではない。
例えば…例えば…電車で席を譲る、っていうのは暫く電車に乗ってないから元々やっていないしなぁ…。
高齢の方のためにお店のドアを開けるお手伝いをするとか。
バイト先のおじいちゃん店長がコロナ対策品としてアルコール消毒液と間違えて購入して店先に設置しようとしていた劇物であるメタノールを、コロナの流行前に買い置きしていた私物のアルコール消毒液とそっとすり替えてみたり。
うん、このくらいの無理のない範囲でできる程度のことをしたい。
『其の様な安い偽君子行為に何の意味が?イサナは不特定多数の中ででしか自分の存在意義を見出だせないのですか?』
そうなのかな?
そうかもしれない。
「変だよね。地球にいた時はこんなに自由に出歩くことすらできない生活を大人しく受け入れていたのにさ」
『仕事をしたいと言い出さないところは正直だと思いました』
「あはは!だって私は仕事人間タイプではないもん」
城の敷地の外に出るとそこはもう岩肌と雪しかない世界。
しかし城下町からヘプタグラム城へと繋がる獣道程度の幅の1本道の上に立つ限り、寒さにも強風にも当てられることはない。
狭いがなだらかに整えられた道の上には雪どころか小石1つの落石もない。
ここを1週間前に多くの人が通っていた。
今は轟々という凄まじい風の音しか響かないこの山に人が訪れていたのだ。
「もう誰も来てくれないのかな…」
『陽が落ちればウーターニャが帰ってきますよ』
「ウーターニャちゃんだっていつまでここを拠点にできるかわからないんでしょう?」
もしそんな日が来てしまったら…私は食事以外の楽しみを見つけられるのだろうか。
こんなに快適な世界にいるんだもの。
私は完全なる引きこもりに仕上がるに違いない。
『俺が何もしなくてもイサナをヘプタグラム城に軟禁出来るって事か…』
「はい?軟禁…?」
『イサナが他人と楽しそうに話をする姿に俺が嫉妬しない訳がないでしょう』
「んー。町で何か軽いバイトでもしたいけどワルサーと同じ顔だから皆が怖がるんだ…よね…」
1歩踏み出せば10m前進するように魔法を組み込まれている不思議な道はもう少し先で雲の中に入る。
気流で形を激しく変える雲の中に動く影が見えた気がし、私は雑談を止めて雲を凝視した。
岩の影を見間違えた…?
いや、気のせいではない。
濃い水蒸気の塊の中から人影が1つ、いや2つ見え隠れしている。
ウーターニャは翼を使い飛んで来るので、あれは彼女ではない誰かだ。
あと少し待てばその姿ははっきりと見えてくる事だろう。
「ど、どうしよう!お客様だよ!」
『追い払いますか』
「もー!ワルサーはいつもそう言う!」
この星の人であれば1歩で10m進む登山道も、私の右足ならば1歩で40m進める。
急ぎ城の中へ戻り、身嗜みを整える。
誰だろう。
どんな人だろう。
1週間ぶりの来訪者に期待が高まる。
ガンガンガンと入口の扉に備わるドアノッカーを叩く音が城の中に響く。
黄色の布で作ったレインコートを着たてるの助くんがドアの前の映像を床に映し出してくれる。
しっかりとした防寒具を身に纏い、フードを深く被っているために顔は分かりにくいが、若者だと思われる。
「お通ししたいけどお客様って何処に案内するものなの!?」
慌てててるの助くんに助けを求めると床に大食堂の映像を映し出された。
「うん、その部屋ではないかな。パーティーをする予定はないし…あぁーごめんね、悄気ないで」
『3階層に案内しては?』
「さん、かい…。え、あそこ綺麗だけど迷宮庭園になってるじゃない」
『薔薇園の方にお茶ができる場所がありましたよ』
「え?てるの助くん、3階にお茶ができるような場所があるの?」
てるの助くんに訊ねるとこくこくと頷き、薔薇園の映像を見せてくれる。
あるんだ、そんな場所も…。
前に3階層に行ったときにはイチイの木を刈り込んで作られた迷路に入り、道を間違えては水浸しにされるという散々な目に遭った。
こんな素敵な場所があったんだね…。
ワルサーも気付いていたなら教えてくれれば良かったのに。
『あの時は庭園で湖面に映るイサナの姿が見れるのではないかと期待していました。水を滴らせるイサナ…見たかったです』
「見られずに済んで良かったよ。…よし、お客様はここに案内しようか」
私の決断と同時に玄関の扉が開く。
ようこそお越し下さいましたと声を掛けるより早く、「天使様はいらっしゃいますか!?」と藤の花のような髪色の青年に縋り付かれそうになった。
私が身構えると同時に足元に雷が落ちる。
『汚ならしいオスがイサナに触れるな』
「ちょちょちょちょ、なに今の雷!こわ!」
状況的に雷を落とした魔法を使用したのは私でしかあり得ないのに、その魔法に対して慌てふためく城の住人の様子に藤の花の髪を持つ中背の青年と氷砂糖のような髪を持つ背の高い少女が唖然としている。
「あー、今の雷は何でしょうねぇ。あれかな、宇宙に向かって放たれるあの…確かスプライトって名前の雷だったのかなぁ?」
不自然なしらばっくれ方かも知れないが、私の半身が嫉妬して牽制攻撃をしただなんて恥ずかしくて言えやしない。
嘘は言ってないし。
惚けただけだからこれはセーフ。
「こ…殺さないで下さ…」
「違いますからね?私は魔法なんか使ってないですよ」
青年が震える声で命乞いを始めたので食い気味に否定する。
「天使ってウーターニャちゃんに用があったんですか?彼女は今は町に診察に出ているはずですが」
「そんな…!今はこの城にいると聞いてやって来たのに…!」
氷砂糖の髪の少女が青ざめる。
入れ違ってしまったのだろうか?
彼女に急ぎの要件ということは誰かの命に関わる事柄なのだろう。
『ウーターニャなら俺の小指に呼び掛ければすぐにここに来ますよ』
「そっか、ありがとう。ウーターに」
「すぐ向かうわ!」
左手の小指に向かって名前を呼び掛けた瞬間にウーターニャから返事があった。
「あ、うん、助かります。…?もしもーし?あら?もう通話切っちゃったの?…あー、えーっと。天使の子が急いでこちらに来てくれるみたいなので暫くお待ち下さいますか?」
「!!6代目様、ありがとうございます!天使様を呼び寄せる事ができるとは…新城主様は噂通り、特別な御方なのですね!」
氷砂糖の髪の少女が深々と頭を下げて感謝をしてくれたが私は6代目ではない。
代わりにワルサーのことを全力で褒め称えておいたのだが返事はなく、その代わりにあちら側にある私の左半身に火照りを感じた。
断っておくが別に媚びたりした訳ではない。
6代目様最高!って言っただけなんだけどな。