第1話「狡兎の商い」
信貴山の夜は、火の海であった。
月は薄い。雲の裏にある。ゆえに、眼下に満ちた寄せ手の松明だけが、明るい。風が渡るたび、火は潮のようにうねった。
城兵は、五百を数えぬ。
天守の内に、男がひとり、背を向けて座している。膝の前に、古びた茶釜が一つ。
平蜘蛛、という。
——釜を差し出せば、命は助ける。
そう言うてきた者がいる。男は、断った。
男の手が、釜の肌を撫でる。淀みのない、静かな手つきである。
「……思えば、よい買い物ばかりで、あったわ」
声に、恐れの色はない。
(後の世は、わしを、釜を抱いて爆ぜた男と語るそうな。……あの童が申しておった。異国めいた、妙な渾名まで付くらしい)
口の端が、静かに上がった。
「——作り話、か。面白い。……ならば、史実にしてやるのも、一興よ」
炎の爆ぜる音が、遠い。
後の世、この男は稀代の悪人として語り継がれる。
だが——その悪名すらも、男が己で選び、値を払うて購うたものであったとしたら、どうであろう。
この男は、遠い昔のあの日、生涯でいちばん高い買い物をした。
——これは、その男が生涯を賭けて行うた、「買い物」の物語である。
*
朝から蝉が鳴いている。
越水城の奥は、この日も音が薄かった。
四畳半の茶室に、三好家の祐筆・松永久秀が独り座して帳面を繰っている。
配下の忍びが一年をかけて書き溜めた、摂津の小村の記録である。細かい字が糸を張るように連なっていた。
飢饉の来る二年も前から、蓄えを始めた村。
火薬から田の作りようまで、工夫に失敗というものが一つもない村。
そして——きのう。その村の少年は、この帳面の前で白状した。遥か先の世の記憶を持ったまま生まれた者だ、と。
(残らず話せ、と申しつけてある。……さて、どう出るか)
閉じた扇子が、とん、と掌を打つ。
釜が鳴っていた。
きのうは火を落としてあった。今朝は入っている。香も、焚き直させた。
商いの座とは、そういうものである。
「お連れいたしました」
襖が開く。少年が入り、老人がその後ろに座った。老人は今日も無言である。どう転んでも共に沈む——そう決めた者の静けさで、そこにいる。
朔は、釜に目をやった。火が戻っている。その意味を、この童は読む。読んだ上で、油断はすまい。
「昨日の続きよ」
久秀は、帳面を傍らへ置いた。
「残らず話せ。——そう申しつけたな」
少年は、畳に両手をつかえた。
「——お断り、申し上げまする」
蝉の声が遠くなった。
玄斎の膝の上で拳がわずかに動いた。それだけである。
久秀は笑わなかった。笑わぬまま目だけが冷えた。この目で詰められて声の震えなんだ者を、久秀は幾人も知らぬ。
だが、少年の声は据わっていた。
「狡兎死して走狗烹らる、と申しまする。兎が尽きれば、猟の犬は煮て食われる。……残らず差し上げれば、私はその日から用済みにございます」
「ほう。では締め上げるまでよ」
「無駄にございます」
間を、置かなかった。
「痛みの下で申す言葉が、まことか偽りか。——先の世の事は、その時が来てみねば、確かめようがございませぬ。殿は、確かめられぬ品に責め苦の手間をお払いになりますか」
扇子が止まっている。
「ゆえに売りまする。少しずつ」
「……売ると」
「殿が銭で品を購われるように、私に、点を下さいませ。初めに二十点。以後、月々に一点。品書きは、ただにて差し上げまする。値は私が付け、買う買わぬは、殿がお決めなされませ」
久秀は少年を眺めた。
人の欲を品書きのように読む男が、いま、品書きを差し出されている。
「面白いの。……だが、なぜ私がそなたを生かしておくと思う」
「私が生き続けねば、殿は次の知恵をお買いになれませぬ」
即答であった。
沈黙が下りた。釜の湯だけが細く鳴っている。
やがて、久秀の肩が小さく揺れた。
「では、こうも言えような。私が滅べば、そなたを守る者もおらぬ。……つまり我らは、互いの首に、縄を掛け合うたわけだ」
「——左様に、ございます」
「良かろう」
扇子が、とん、と鳴った。
「その商い乗った」
久秀は柄杓を取り、湯を汲んだ。しゃか、しゃか、と茶筅の鳴る音がする。差し出された茶碗を、朔は押し頂いた。
「約束の茶よ」
一口、含む。苦い。舌の奥が痺れて、目の覚める苦さである。
——この日から長く、この二人の商いは続くことになる。それがどれほど高くつく買い物であったかは、誰も、まだ知らない。
「して」
久秀が膝を進めた。数寄者の目が、そこにあった。
「——では、最初の買い物を、しようか」
一、点前渡し 二十点
残り 二十点
昨年末に連載開始を予定していた本作、難産の上ようやく開始の準備が整いました。
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■用語解説(読み飛ばしてOKです)
・信貴山…大和国(現在の奈良県)にある山。未来における松永久秀の居城であり、最期の地となった信貴山城が存在した。
・平蜘蛛…正式名称は「古天明平蜘蛛」。蜘蛛が地にはいつくばっているような形状をした茶の湯の名物茶釜。松永久秀が織田信長に謀反を起こした際、命と引き換えに差し出しを命じられたが拒否したと伝えられている。
・越水城…摂津国(現在の兵庫県西宮市)にあった城。1540年当時、近畿における三好家の最重要拠点の一つであった。
・松永久秀…1540年当時は三好長慶の祐筆(文書作成や記録を担う実務官僚)。後に大和国を支配する戦国大名となり、畿内の政治に大きな影響を与えた。後世では長らく「梟雄」と評されてきたが、近年の研究では三好家に忠実で極めて優秀な能吏・武将であったとされる。
・祐筆…武家社会において、公文書の作成や記録、代筆、文書管理などを担当した専門職・文官のこと。
・狡兎死して走狗烹らる…中国の古事(『史記』など)に由来する故事成語。「素早い兎が死んでしまえば、用済みとなった猟犬は煮て食われてしまう」転じて、「必要なときは重宝されるが、不要になれば容赦なく捨てられる」という意味。




