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太平洋の夢「樺太の種」 プロローグ 〜 第一章 軍縮の幽霊

一九三三年三月、日本は国際連盟を脱退した。

その決定が太平洋を戦場に変えた。

もし別の選択があったとしたら——

これは、選ばれなかった歴史の物語である。





プロローグ

一八八一年、東京



その王は、まず海の話をした。


謁見の席でも。

晩餐会でも。

翌日の、伊藤との会談でも。

最初に口を開くとき、いつも同じ場所から始めた。


太平洋。


ハワイ王国の国王カラカウアが東京を訪れたのは、明治十四年の春のことだった。

史上初めて日本を訪れた外国の国家元首だった。

王は小柄だった。

しかし部屋に入ると、その場所が少し違う場所になった。


明治天皇との謁見の後、宮中晩餐会が開かれた。

シャンパンが出た。

フランス料理が出た。

王は箸を上手に使った。

それを見た侍女たちが小声で笑った。


翌日、王は伊藤博文と会った。

場所は赤坂の仮応接所だった。

通訳が二人いたが、会話の大半は英語で進んだ。

伊藤の英語は流暢ではなかった。

しかし王の話の要点は取れた。


「日本とハワイは、同じ海に生きる民族です」

と王は言った。


「アジアとポリネシアの血が混ざるとき、太平洋は安定する。混ざらないとき、太平洋は誰かに支配される」


誰か、とは西洋列強のことだった。

特にアメリカのことだった。

王は名指しはしなかった。


「皇族との縁組を提案したい」と王は続けた。


「それからアジア連盟の構想も。日本を盟主として」


伊藤は王の話を聞きながら、考えていた。


縁組は難しい。

皇室の問題は政治より複雑だ。

アジア連盟も、今の日本には早すぎる。

条約改正さえまだ終わっていない。

列強との関係が固まっていない段階で、新しい同盟を作ることのリスク。


しかし——と伊藤は思った。


この王の目には本物の危機感がある。


ハワイに何が起きているか、伊藤はある程度知っていた。

アメリカ人の農園主が土地を買い占め、砂糖利権を握り、政治的な影響力を蓄えている。

王国の内側から侵食されている。

その危機感は、日本が西洋列強に感じているものと、構造的に同じだった。


「すぐには答えられない」と伊藤は言った。


「しかし検討する価値はある」


王は頷いた。


「それで十分です」と王は言った。


「私はすぐに答えが欲しいわけではない。ただ、考え始めてほしい。次の世代が動けるように」


晩餐会の夜、伊藤は一人で草案を書いた。


縁組と連盟は保留。

しかし友好関係の枠組みは作れる。


移民の往来、漁業の協定、教育の交流。

条約未満の、しかし条約より実質的な何か。


それを積み重ねることで、五十年後、百年後に、正式な枠組みに育てることができるかもしれない。


伊藤はその考えを「日布親善協定」と名付けた。


翌朝、書き上がった草案をカラカウア王に渡した。

王は読んで、笑った。


「これで十分です。十分すぎるくらい」


その年の秋、日布親善協定が調印された。


移民の往来、漁業の協定、教育の交流。

それだけだった。

連邦でも同盟でもなかった。


しかし、何もないよりはるかに多かった。


伊藤は後年、この協定についてほとんど語らなかった。

語るべき劇的なことが何もなかったからだ。

劇的でないことが、この協定の本質だった。


五十二年後、その協定を種として蒔いた伊藤は暗殺されていた。

しかし種は地中に残っていた。




第一章 軍縮の幽霊

ジュネーブ 一九二九年十月



十月のジュネーブは雨だった。


レマン湖から吹いてくる風が石畳を濡らしている。


国際連盟事務局の前に停まった黒塗りの車から1人の男が降りた。

黒瀬誠一郎。

コートの襟を立てることもせず空を見上げた。


湖の匂いがした。

腐葉土と冷たい水と、どこかの煙突から来る石炭の煙。

ジュネーブは秋になると空気が重くなる。


ヨーロッパ中の問題がこの町に集まってくる。

それが解決されないまま沈殿しているせいだと黒瀬は思った。


三十一歳。

外務省欧亜局第二課、在ジュネーブ代表部付き書記官。

それが公式の肩書だった。


ポケットにラッキーストライクが半箱ある。

モルヒネは宿舎の金庫の中だ。


今夜は要らないと思う。

たぶん。


軍縮委員会の第四分科会。


会議室の空気が四種類の言語でできていた。

フランス代表が話す。

通訳が英語に変換する。

英国代表が頷き、ドイツ代表が書記に何かを囁く。


黒瀬には通訳がいらなかった。

三つの言語が同時に耳に入り、それぞれ別の場所で処理されて、日本語になって右手から出ていく。


自分の右手が正確に言葉を写し取っているのを、別の場所から眺めているような気持ちでいた。


言語とはそういうものだと彼は思っている。

身体が覚える。

脳は関係ない。


六週間前、ジュネーブに来る直前、黒瀬はパレスチナから届いた公電を読んだ。


ヘブロンでアラブ人による暴動が起き、ユダヤ人六十七人が死んだ。


英国委任統治当局の対応が遅れた。

シオニスト機構が抗議声明を出した。

公電の最後に「在地邦人への影響なし」と付記されていた。


黒瀬はその一文を三回読んだ。

影響がないのは日本人だけだ。

世界の別の場所で、何かが壊れていた。


会議が終わり、廊下に出た。

椅子を引く音、書類をまとめる音、複数の言語が混ざり合う音。


「タバコを一本もらえますか、黒瀬さん」


日本語だった。

しかしアクセントが違う。

母音の置き方が微妙にずれている。

黒瀬は顔を上げた。


女が立っていた。

廊下との境の柱に背をもたせて、こちらを見ていた。


三十歳前後。

濃い茶色の髪を後ろで雑に束ねていた。

束ね方が雑なのは性格ではなく、他のことに時間を使っている人間の束ね方だった。


背は高くない。

しかしこちらを見る目に、引けがなかった。

コートは安物だが、それを気にしていない着方をしていた。


黒瀬はその女を見た。

見ながら、自分が見ていることを意識した。

それは珍しいことだった。


「日本語を話せるのですか」


と黒瀬はロシア語で言った。

試すような真似は趣味ではない。

ただ反射だった。


女は一秒間、目を細めた。

黒瀬を値踏みする目ではなかった。

何かを確認する目だった。

それからロシア語で答えた。


「少し。あなたのロシア語のほうが上手ね」


黒瀬はラッキーストライクを一本渡した。

女はそれを受け取り、自分のマッチで火をつけた。


「ミリアム・カッツ」と女は言った。


「シオニスト連盟、ジュネーブ支部。といっても名刺はありません」


「黒瀬誠一郎」


「知っています。日本の外交官で、言語の習得が異常に速い」


黒瀬は少し間を置いた。

調べている。

どこまで調べているのか。


この女が今日ここに偶然いたわけではないことは、最初の一秒で分かっていた。


「私たちには土地が必要です」


とミリアムは言った。

唐突に。

しかし唐突ではなかった。

この女はずっとそれを言おうとしていた。


「パレスチナでなくてもいい。どこかに。本当に、どこかに」


黒瀬はタバコに自分で火をつけた。


「樺太」


と彼は言った。

なぜその言葉が出たのか、後から考えても分からなかった。


酔っていたわけではない。

疲れていたわけでもない。

ただ、窓の外の灰色の湖を見ながら、頭の中に雪の降る島が浮かんだ。


広い。

人が少ない。

ロシアと日本の間で宙ぶらりんになっている島。


ミリアムが黒瀬を見た。

初めて本当に見た、という顔だった。


「本気で言っていますか」


「分かりません」と黒瀬は正直に言った。


「でも不可能ではない」


黒瀬は吸いかけのタバコを灰皿に押しつけた。


「今夜、時間がありますか」と彼は言った。

フランス語に切り替えていた。


ミリアムは三秒間、黒瀬を見た。

三秒は長い。


「あります」


と彼女はフランス語で答えた。

発音は完璧だった。


黒瀬は外套を取って廊下に出た。

ミリアムが隣に並んだ。

二人は同じ方向に歩き出した。


石畳の音がした。

雨はまだ降っていた。


その夜、宿舎の金庫は開けなかった。


窓の外に、レマン湖があった。雨が続いていた。


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