絶望から絶望の地へ
野戦病院の不衛生さのせいか熱発したし、餓死しかけている。
国防のために戦った兵士に、アルタイルはろくな食料を寄越さない最悪な国だ。
国王も政治家も貴族も死ね。
俺はこの地獄の病院で生き延びて、フィラントの部下に戻って、あのような人に政治家になってもらう。
仲間を集めて、英雄こそが上に立つべきだと言い、フィラントにどこかの領地を与えてもらい、そこにマシな街を築き、天国のような国にする。
その国ではバカ王子は、バカなんて呼ばれない。
ユース王子は若者は宝だと言う優しい王様になるから、フィラントが率いる俺たち騎士団が守る。
クソ野郎共は最悪な国で死んじまえ。
もう死にそうで、こんな壮大な夢は叶わないから、最後に視察に来た偉い奴をぶっ殺してやる!
次に来た奴を……と細くなって力の入らない手でナイフを握ったけど誰も来ない。
腐った匂いがする、何も入っていないような冷めたスープを啜る。
流行病の時にサシャが届けて飲ませてくれた、あの美味かった野菜スープが恋しい。
昨日、隣のやつが死んだけど誰も回収しないから臭う。そうでなくても糞尿の匂いが気になるし、ネズミに齧られそうになって嫌だ。
チチチと寄ってきたネズミを、気力を振り絞って手を動かして追い払う。
俺が運ばれてからずっと、部屋中、あちこちから苦悶の声が上がっている。
戦場は地獄だと思っていたのに、こここそ地獄。戦地の土の上で寝る方がマシだ。
敵の死体の下に隠されて寝ていたことだって、今の状況より何倍もいい。
手当してもらったはずの腕の怪我はじくじく痛んで腫れて熱っぽい。
頭の怪我がこうなっていたら今頃死んでいる。
担ぎ込まれた時は「英雄の一人」みたいに褒められたのに、その先にこんな最悪な扱いが待っているなんてゴミクソ国家め。
「この部屋もなんて酷い! 皆さん、私たちが来ましたからね!」
居るはずのない女性の声が耳に届いた。
なんだろうと顔を動かす気力もない。もちろん、体を起こすことも。
もう死ぬから冥府から迎えが来たようだ。
女の天使の迎えなら悪くはないが、俺は生かされたから帰りたい……。サシャにお礼をしないと……。
はっきりしない意識の中で、優しい女性の声がいくつも響いた。
やがて俺は天使の腕に抱きあげられた。とてもいい香りがする。
この香りはなんだっけ……。
「順番にお医者様が診てくださいますからね」
とても優しくて心地良い声。白金の影に柔らかな感触。
病で死ぬ直前まで俺を慈しんだ母と同じ手つき。
「天使……さま……。サシャだけは守って……」
光が揺れたから、流れ星かもしれない。
なんだっけ。流れ星は綺麗な願いなら叶えてくれる……それなら俺は……。
「大丈夫ですからね。お母様と私たちが必ずや元気にしてみせますから」
人影が増えて、体が浮いた。
「まだ生きている」と聞こえて「俺は生きている。生き延びる」と叫んだ。しかし、声は出なかった。目も開けていられない。
しばらく意識がなくて、どのくらいの時間が経過したか分からない。
食欲を刺激する匂いが鼻をくすぐり、温かくて湿ったものが唇に触れた。
「エトワール、ミルクのようにね。いきなりは危ないから」
「はい、お母様」
意識が遠のき、はっきりしたら藁の上にいた。
黒髪の若い女性が俺が体を起こしたことに気がつき、近寄ってきてニコリと笑ってくれた。
金持ちの家で働く使用人のような服装で、頭には白い布を巻いている。服はとても地味な暗い灰色だが、エプロンは白い。
「ここは軽傷部屋です。意識がはっきりして良かったです。お名前は?」
「……マルクです」
「ポケットに入っていた証明書と同じですね。遺品ではなく本人っと。食事を持ってきます」
こうして、俺のいた野戦病院は地獄ではなくなっていたと知った。
甲斐甲斐しく世話をしてくれる看護士や、衛生や医療を手伝う男たち、増員された医者がいる、手厚い施設になっていた。
貴族夫人が医療団を率いてここに来て、私財まで投じて「国を守った英雄たち」のために、何もかもを変えてくれたという。
しかもその夫人——フィオールは、俺たち一人一人に毎日のように話しかけてくれる。
気難しそうな顔立ちで、ほうれい線が目立つ若くもない彼女が見せる笑顔はまさに天使で、絶世の美女に見える。
昨日なんて、ランプを持って歩く彼女の影にキスをする兵士がいた。
俺のいる部屋の看護士——エミリも大人気。感激と恋心で手を取った兵がいて、「天使に触るな」と隣の兵にぶん殴られた。
俺も隣のやつが、包帯を巻かれる時にわざとエミリの手を撫でまわした瞬間、そいつの髪を掴んで「ぶっ殺すぞ」と言っていた。
「随分、元気になって嬉しいです。マルクさん、ありがとう」
エミリの笑顔と、鼻をつんっと指で押す仕草で俺はさらに元気になった。
死ぬかと思った病気から回復した後のサシャの笑顔がエミリの微笑みと重なる。
体が軽くなり、痛みが減っているから、俺はサシャとまた会えるんだ! と感激した。
地獄から天国とはまさにこれ。少ししか固くないパンや、野菜にわずかに魚の入ったスープなど、三食あることもそう。
怪我は帰国できる範囲だったので、熱が下がって、食事のリハビリが『良』まで進んだので退院が決まった。
退院手続きをして事務員に、俺には褒賞が用意されていると説明された。
「俺に褒賞ですか?」
「ええ」
金一封。戸籍不明だったので戸籍と市民権。望むなら故郷で街の警務を行う仕事。
この褒賞を与えられる理由は、英雄の一人と共にゲルダの丘を奪還したから。
俺はこの時、ようやくアルタイルがゴルダガを追い払って領地をほぼ取り返したことや、フィラントがあの後も活躍したことを知った。
ここに運ばれて、飢餓で死にそうになったせいで、半月以上経っていた。
天国で浮かれて、大切なことを忘れていた。
「フィラント様はご無事ですか⁈」
口にしてから、「死んだ」と聞きたくなくて今まで天国から目を逸さなかったのだろうと感じた。
「サー・フィラントは五日前に担ぎ込まれて、まだ生死を彷徨っています」
年老いた事務員は涙ぐんだ。息子が別の戦で、フィラントに助けられたという。
国が勝利を掴んだ日、その勝利に貢献した一人、息子の命の恩人——フィラントが亡くなりそうだなんてと言い、泣き出した。
「そんな……。見舞いって行けますか⁈」
「死体ばかりが出てくる重症部屋にいるので無理です。俺も断られてしまって」
「そう……なんですか……」
退院して生まれた街に帰れる、サシャに金を返せると高揚していたけど、気分が沈んでいく。
病院を出る前に重症者部屋に寄ってみた。看護士が忙しいようで見舞いは断られた。
移動の動線の邪魔になるから、ドアの前で祈って欲しいと頼まれたのでそうした。
「もし。こちらにご友人がいるのですか?」
とても美しい看護士に話しかけられた。綺麗だし若い。
かなり色白なところと、黒よりは灰色に近い、まるで星や宝石を閉じ込めたような瞳が印象的。
この声には聞き覚えがある。
「あの……俺、多分あなたにスープを飲ませてもらいました。ありがとうございます」
「そうですか。人が多くて覚えられず、すみません。お元気そうで嬉しいです」
優しい声と美麗な笑顔に見惚れたものの、恥ずかしくなってつい逃げた。
俺のいた部屋の看護士も可愛くて優しかった。
聖堂へ行き、あのような天使を遣わしてくれたことを感謝せねば。それ以上にフィラントの回復を頼まないとならない。
俺はあの死地でフィラントが自分の腕に巻いてくれた包帯をお守りに作り変えて、毎日、何度も神に祈った。
空に星が見える日を願い、流れ星を探した。
星は一つも流れない。それでもずっと、何度も何度も「フィラント様が死ななくて、みんなが喜びますように」と祈った。
離れがたくて野戦病院近くの村で働き口を探そうと考えたけど、警務職の拝命には期限があるのと、サシャが心配で俺はフィラントのその後を見届けなかった。
死を知らなければ、「生きている」と信じ続けることができる。
俺は残酷かもしれない真実よりも、知らないことで得られる希望を選んだ。




