彼の憎悪
流血表現はありませんが、やや残酷な表現があります。
彼が唐突に暴走します。
「よお人殺し」
イビールはにやりと笑い、ジャンの頭を思い切りはたいた。
「は……なに、なんで……」
彼は、はたかれた頭の痛みより混乱が先に立つらしい。すっかり暴れることも忘れ、呆然と自分が殺したはずの友人の顔を見ている。
「機械人形、と言うらしいわよ」
「サゼーナは珍しく怒っていたな。予備とはいえ、発表で使う作品に傷をつけられるのだから当然だが」
イビールは倒れ伏す機械人形をごろりと仰向かせ、眉をひそめた。
「げ。これが俺?……似てるかぁ?」
「流石に顔を作る暇はなかったから、ロードラーザ様が幻影で誤魔化していたのよ。貴方も声をあてていたでしょう?中々迫真だったわよ」
「そ、そうですかね」
イビールは一瞬びくりと震えてから照れたように頬を掻いた。
なんだろう。私は彼に怯えられている気がする。そういえばカナーラも初めは似たような反応を示していた。まったく、私が何をしたというんだ。
ジャンは状況についていけていないらしい。呆然と私たちを見ている。
イビールはそんな彼の方に近づいて、彼と目線を合わせるように屈んだ。
「……この通り、俺は今、生きている。……だが、お前は俺を殺したんだ、ジャン」
「……イビール……」
「お前のことは、カルバーナ嬢たちから聞いた。……お前のいた国では、きっと教わっていないんだろう。魔法使いは、魔力を奪われては生きられない。魔力は血と同じように、体の一部なんだ」
ジャンの瞳が、やや揺れる。
「……俺は……魔法使いなんか」
「お前は人殺しになりたいのか」
ジャンは唇を噛んだ。
一つ国を跨げば、価値観はがらりとひっくり返る。
それは当たり前のことだ。
だけど、いくら知識としてそれを理解していても、それに馴染めるかどうかは本人次第だ。
そればかりか、すぐには馴染めないことの方が普通だろう。
私には魔法が無い生活なんて想像できない。
それと同じように、彼には魔法がある生活を普通とは思えないのだろう。
私はそっと目を閉じた。
『世界っていうのは、びっくりするほど広いらしいぞ』
晴れやかに笑ってこちらに手を差し伸べたあの人の言葉が、今になってより深く胸に沁みる。
どんなに言葉を尽くしても、すぐに納得は出来ないだろう。
それでも、言葉一つでひっくり返る世界もあることを私は知っている。
ついに黙り込んだジャンは、彼を思う友人の言葉をどう受け止めていくだろう。
私もキューズロンダ様も、不思議なほど穏やかに、その光景を眺めていた。
やがて彼は顔を片手で覆って、絞り出すように声を発した。
「俺が罪を犯したことくらい……初めから、分かっているんだ。でも、どうしても許せなかった。魔法なんていう、危険なものを、のうのうと使っている魔法使いが。日常的に使っているこの国が、危険だとしか思えなかった。その上父さんまで……ずっと、人や、機械の手でものをつくる技術によって生みだしてきた商品に、急に魔力を取り入れようだなんて言いだして。母さんがどんな方法で殺されたか知っているはずなのに!便利だとかなんとかいって……父さんはこの国にそそのかされたんだ。シャルルジャン製の商品は俺の誇りだった。なのに……なのにっ!」
彼の魔法に対する憎しみは、相当根深いらしい。母親を殺された件だけでなく、彼の実家の商売もそれを加速させたようだ。
確かに、いつかキューズロンダ様がサゼーナに贈った商品は、シャルルジャン製の『魔力帯びフラスコ』だった。
彼の父親は、彼とは魔法に対する考え方が少し違うようだ。もしかしたらそれで、彼にとっては父が母をないがしろにしているように感じたのかもしれない。
私も、キューズロンダ様も、イビールでさえ、これ以上彼にかける言葉を持っていなかった。
この場にいる誰もこれ以上の説得は不可能で、しかし、彼の意見を受け入れるわけにもいかない。重い沈黙が場を満たす……そう思われた。
「ふ……くくくっ……駄目ですね」
はっとして振り返る。
ゆらりと起き上がった影に私たちは目を見開いた。
「ロードラーザ様……?思ったより早かったのね」
私の言葉に答えず、彼はゆっくりとジャンとイビールの方へ足を進めた。
思わず眉をひそめる。私の言葉が無視されるのはいつものことだが、どうにも様子がおかしい気がする。
キューズロンダ様もそう思ったのか、ちらりと私と視線を合わせ、彼を注視した。
「貴方は自分の悪を認めているように言いますが、本当にそうですか?
私にはそうは思えない。貴方は魔法が絶対的な悪であるという正義を、大切な人を失ったという大義を振りかざしているに過ぎません。貴方は自分が正しいと思っている。
……別に、何を正義としようと自由ですよ。
ただ、それで貴方が人に死を与えて良いという理由にはなり得ません。
貴方が誰かを殺したその瞬間から、貴方の正義は貴方の罪になるのです」
ロードラーザ様は歪に笑った。ゆっくりと、ジャンに向けて手を伸ばす。
ぱちん、とその指が弾かれた。
「私がこの世で最も許せないことは、死と魔法を軽んじることなんですよ」
とぷん、と、ジャンの体全体が闇に沈められる。
いや、限りなく闇に近い、何かだ。
もやもやとした靄のようで、液体のようでもあるその渦巻く黒の中で、ジャンが溺れるように体勢を崩す。何かを掴もうと伸ばした指の先まで、闇のようなそれはしっかりと纏わりついている。彼の身体を縛っていた蛇は、最早拘束の意味がないと悟ったのかするりと離れ、渦の中を悠々と泳ぎだす。
「……っ、か、は……っ」
「いかがです?死の味は。貴方が皆さんに振る舞った味ですよ。人は、死ぬほんの刹那に脳から快楽物質が分泌されますが、特別に貴方にはその瞬間を永遠に取り除いた絶えない恐怖をご馳走させて頂きました。……絶品でしょう?」
目を見開き口をわななかせて、ジャンは何かを見ている。涙が、涎が、汗が、その他ありとあらゆる体液が恐らく自覚なしに吹き出し、地面を濡らす。
「神が人に与えた、本来誰しもが一度味わったきり忘れることの出来る恐怖です。闇のようで闇ですらなく、今まで得ていたありとあらゆる感覚を根こそぎ奪われ、記憶を、感情を、まるごと無に塗り潰される。あるのはただただ、直前に得た精神をすり潰される程の激痛だけ。激痛に頭を、目を鼻を耳を舌を腹を胸を足を手を炙られ塵すら残さず灼き尽くされる。痛みを感情として受け止めることも、言葉にして逃すこともできないんだ。普通は、本能として刻み込まれるだけで忘れられるはずだけどな?何の因果か俺は忘れさせてくれないんだ。どんなに前世の記憶が薄れても、あの時に襲ってきた恐怖も畏怖も絶望もどんな喜びよりも深く深く頭に残ってる。未知は怖いよな。だが既知が怖くないだなんて誰が決めた?俺にこんな重い枷を与え脳髄にまで植え付けた理由は?……きっと理由なんてない。お前が生徒を無差別に襲ったのと同じように、理不尽で理解不能なことだ。なら、お前も同じ理不尽を経験しても良いだろう?まあ、経験して精神が無事で済む保証は無いけどなぁ!」
ゆらり、とロードラーザ様の気配が揺れた。ぶれて、別の何かが彼の影と重なる。
ジャンの顔色はすっかり緑色に青ざめて、涎にごぽりと泡が混じる。既に立つどころか座ってすら居られないようで、壁際に寄りかかり地面にずり下がりかけている。
ロードラーザ様、いや、ロードラーザ様の姿をした『何か』は歪に高く笑った。その瞳には狂気の光が爛々と照っている。その姿は、喋り動いているにも関わらず、まるで死者のようだった。
誰も何も言えない。
常軌を逸した姿に、本能は、止めねばならないという警鐘を鳴らすのと同時にぴくりとも体を動かさせてはくれなかった。
このままでは確実に、ジャンは死ぬ。
どうすればいい。
焦りに脳を焦がした、その時。
「ハルド、様?」




