すいっち おふ、そして歩けば婚約者たちに当たる
その瞬間。目の前が燃えた。
比喩ではなく、私を覆うように火の柱が次々と立つ。
「キーラ!」
愛しい人の焦った声が、炎に歪んだ風景の向こうから聞こえる。
いつもなら真っ先に届くはずのそれが、なかなか脳まで伝達されない。無意識に口が詠唱の形に動いていた。
ただ、身体だけは大きい木偶の坊の怯えた顔に、ギリギリの理性で火を向けないように保つ。
この学園に厳正な魔法への制限はない。だから、ちょっとした魔法や感情が暴走した際などの魔力漏れが咎められることはない。
だが、限られた授業以外で攻撃魔法を人に向けるのは、校則として禁じられている。今、私のこの炎は単なる魔力漏れではなく、明確に殺意のもと木偶の坊へ攻撃をしかけいる。
最悪、退学。
婚約者としての立場は直ぐに無くなるだろう。
だが、―――だが。
じわりじわりと増幅していく怒りが火柱となって少しずつ木偶の坊へと迫っていく。
ロードラーザ様の嘲りはまだいい。あの男は嫌がらせのために言っているだけであって、半分冗談のお遊びのようなもの。あれで、ターナス様に尊敬出来る部分があるとも認めている。
だが、この阿呆は。純粋に、考えなしにターナス様を踏みにじり、見下した。幾度も守ろうとしたターナス様の優しさを台無しにして。よりにもよって、ターナス様が一番大切にしている民の代表かのような言葉を使って。
こんな野卑な男に格下だと思われるなど、侮蔑されるなど、あってはならない。
「キーラ、キーラ、落ち着け。大したことではない」
「な、なんだ。やはり女に守られることしか出来ない腰抜けじゃないか。俺は間違っていなかったらしい」
―――本物の、馬鹿だ。
じわじわと迫っていった炎が、決定的な油を注がれて、倍の速さでみるみるうちに木偶の坊の方へと広がっていく。
「ひ!?」
校則のこともあって、私が本気だとは思わなかったのだろう。あれにはそこまで頭も魔力もない。本来ターナス様と同じ授業を受けることなどないのに、ただその騎士としての微々たる才覚によってのみ、近衛騎士などという誉を受ける機会を受けたのだ。
途端に逃げを打つ背中に炎の手を伸ばす。
燃やす。焦がす。塵も残さない。
目の前が赤く赤く深い赤に溺れそうになったその時。
「キーラ」
大きな声ではなかった。
ただ深く、重く、静かな声がその場に響く。
優しくも強い、その声が、私の炎を包み込むようにしてかき消した。
それは、まさしく、王者の声。
振り向くと、ターナス様は真剣な瞳を少し緩めた。こちらへ一歩づつ近づいてくる。
私の周りに未だ残って揺らめいている盾のような炎に手を伸ばされ、私は慌てて残りの炎を消した。
ターナス様はそれが分かっていたかのように、……いや、もしかすると消していなくとも……躊躇なく私を抱きしめた。
優しい手が、赤子をあやすように背中をたたく。
「キーラ。言っただろう。大したことじゃない」
「で、も」
「少なくとも、キーラが泥を被らなくてはならないことじゃない。誰に何を言われようと、僕の本質が変わるわけでもないし……それに」
ターナス様は私の顔を覗き込んで、ふっと笑った。
「……僕の良いところは、君が沢山知っていてくれるだろう?」
「……!」
悪戯気な、甘い笑みに、私の頭から木偶の坊のことはすぽんと消えた。
俯いた私の頭をターナス様が自らの胸に預けさせるように優しく引いた。
私の頭から思考が消えた。
あったかい。ターナス様からお日様のような匂いがする。
私がぼけっとしている間に、ターナス様が何かを喋っている。
「セルテ・シャードレ。二度はないと言ったはずだな?」
「な……っ、なんだ、今更」
「君の愚かな発言のために、私の婚約者が窮地に陥るのは忍びないのでね。……そこの君たち。今の状況を見て、まさか彼女に非があるとは思うまいな?」
「は、はいっ、カルバーナ嬢が怒ってしまわれるのは当然かと……」
「では、教師にはそう説明してくれ」
「はっ」
「さて、君は私に威厳を求めていたな。ならば、望み通り見せてやろう。君には相応の罰を受けてもらう。手始めに、私を侮るような近衛騎士は必要としていない。生涯君が私を守ることなどないから安心して良い。それに伴い、君には学園を辞めてもらう。自主的にか強制的にかは君の判断に任せよう。さらに、学生でなくなった君には学生を守る法は適用されない。よって、不敬罪においての我が国の一般的な法を基に、廃摘。少なくとも二年程度牢にいてもらうことになる」
「なっ……」
「どうした?喜べ。君が望んだことだろう?」
なんだか不穏な雰囲気に、うっとりしていた思考を慌てて戻す。そろっと顔を上げようとすると、ターナス様に頭を押さえられてしまい、かたい胸に逆戻りしてしまった。
ちらっと見えた木偶の坊の顔が真っ青で痛快だ。
というか、こんなターナス様は初めてだ。声に柔らかさがなく、なんならちょっと黒い。苛々しているとは少し違うが、間違いなく怒ってはいる。
木偶の坊の行く末よりターナス様の様子が気になって気を取られていたら、いつの間にか事態が収拾しており、その場にいるのは私とターナス様のみになっていた。
私はそろそろ幸せよりも息苦しさを感じていたので、私の頭を押さえている腕をたたいて呼吸の確保を求めることにした。
「ああ、すまない。苦しかったか?」
「ぷはっ、い、いえ。大丈夫、ですわ」
眉を下げてこちらを見るその顔は、いつも通り優しいものだった。さっきの黒いターナス様も見てみたかったと密かに思う。
「それより、ターナス様、きちんと怒れるじゃないですか!ターナス様は他人に優し過ぎるのです。だから見る目のない人間に舐められるんですよ?せっかく努力してきたのに、それを表に出さなきゃ勿体無いでしょう」
私はつい説教をしてしまう。いつもは直ぐに反省するターナス様だが、今日は様子が違った。
一つ溜息をついて、ずいと顔を寄せられる。
「……キーラ。今回ばかりは僕も君に言いたいことがある。君は僕に優し過ぎるだの自分を大切にしろだの言うが、君の方こそどうなんだ」
「え……?」
珍しく軽く眉を寄せたターナス様に、少したじろぐ。
「君だって第一王子の婚約者。他の貴族令嬢より尊重されるべき身分だろう?それに、身分などなくとも、キーラがキーラであるだけで大切だと思っている人間だっていくらでもいる。僕を思ってくれるのは嬉しいが、僕のために自分をないがしろにするのはやめてくれ」
きっぱりと言うターナス様。私は思ってもみないことを言われ、驚きに目を瞬いた。
「ターナス様、私、自分をないがしろにしたことなんて一度もありませんけれど」
「……どの口がそれを言うんだ。さっきの出来事がそうだろう?君は退学覚悟で僕のために怒った。あのまま万が一退学にでもなれば、君は周りからどんな目で見られるか分からないわけではないだろう。それに、彼は仮にも騎士だ。先程は油断していたようだが、武力に訴えられればどんな目にあうか」
想像したのか、まるで自分のことのように不快そうに顔をしかめるターナス様。
「ですが、それは私がターナス様を侮辱されることに耐えられなかったからです。自分のために怒ったので……」
「キーラ。自分の気持ちのままに振舞うことと、自分を大切にすることは違う」
ターナス様は言い聞かせるようにはっきりと言った。
真摯な目は、私を心から慮っているようだった。その目は、随分昔にはしょっちゅう見ていた目だ。いつからか心配する方とされる方が逆になっていたが、始めの頃は私が沢山ターナス様に心配をかけていたし、迷惑もかけていた。昔と今が重なって、きゅうと胸が切なくなる。
温かい手が、頭を撫でる。
「僕のために怒ってくれてありがとう。君は約束をいつも守ってくれる。だが、君が君自身を大切に扱ってくれることが、回りまわって君を大切に思う僕たちを大切にすることにつながることもある。それを覚えていてくれ」
「……はい」
私が小さく返事をすると、ターナス様の優しい目が柔らかく細まった。……心臓が痛い。
ターナス様はさっと空気を切り替えて、話を変える。
「まあ、僕の方もきちんと相手を叱る練習をすべきだな。威厳……威厳か……どうやったら出るんだ?」
「はじめに彼らを注意した時のターナス様、王というよりは教師でしたし……威厳の種類が違うと思います。ああ、でもその後、あの木偶の坊を裁いた際の対応は王様のようでしたね」
「ああ、そういえば。父が政務をする際の口調を真似てみたんだ。ふむ、そう見えたのなら成功かもしれないな」
「……え、口調の問題ですか?」
もっとこう、あの時のターナス様は、根本的に違っていたように思うけれど。
ターナス様はそれからしばらく「威厳とは……」と呟き、「鎧を身にまとえば威圧感が出るか……?」やら「そういえば、あの国の夫妻の表情が若いのに威厳に溢れていたような……今度コツを教わろう」やらと独り言ちていたが、だんだん妙な方向へ行っている。そろそろ引っ張り戻さないと。そもそも、あの夫妻の鉄壁の無表情はおそらく天然ものなので、きっとコツは教われないと思いますよターナス様。
ふと、建てられた時計に目をやり、ターナス様の顔色が変わった。
「あっ……と、すまないキーラ、約束があったんだった」
「なら、私もそろそろ戻ります。他の方に仕事を預けていたのでした」
「そうか、では途中まで送ろう」
そして、久方振りに、穏やかに二人で学園内を歩いたのだった。
―――
魔力が補充された魔道具の詰め込まれた箱を指輪に収納する。結局生徒の指導を全て任せてしまったので、代わりに所定の場所まで運ぶことにしたのだった。そう申し出た私にクラスメイトの彼は異様に畏まって必死に拒否していたが、何故あんなにおびえていたのだろう。確かに身分はこちらが上だが、今までそんな反応はしていなかっただろうに。全く、人を鬼か何かのように見て、失礼なものだ。
そう思い返しながら歩いていた私は、そっと手すりに指を乗せ、階段を下りる。
と、不意に、背中に衝撃が走った。
足首が変にひねって、全体重が前に行くのが分かる。
風魔法は不得意だ。慌てて前方に風を放ちバランスを取ろうとするが、遅かった。
「え。……う、あああああああ!?」
ど、ご、が、が!
重い音を立てて、予想通り、下に落ちる。しかし大方の予想を外れて、私に怪我はなかった。
ちなみに、先程の間抜けな悲鳴は私のものではない。
私の下で目を回している男子生徒のものだった。
「あら、失礼いたしました」
私は彼の上から退く。見たところ、彼にも大きな怪我はなさそうだ。どうやら彼の方でとっさに風魔法を使ってくれたようだった。
「うーん…………お、お怪我……は…………ってわああ!?」
彼は慌てて私から距離を取った。なんだ、さっきから。私は化け物か。眉間にしわでも寄っていたかと確認するが、どちらかと言えば眉は下がっている。当然だった。先程ターナス様成分を補充した私は機嫌が良い。
「か、カルバーナ嬢っ、ししししつれいしました!」
すっかり青ざめ、がたがたと震える彼を私は呆れながら眺め……どこかで見覚えがある気がして、じっと見た。その顔が恐怖にひきつり、顔色が青から緑に変わったころ……やっと思い出す。
「あなた……トト・カナーラ?」
ロードラーザ様とそれなりに親交があり、今はシルカの取り巻きとなっているらしい商家の息子だった。
トト・カナーラは整っている割には陰気そうな目を見開いて答えた。
「僕をご存じなのですか」
「ええ、まあ」
その瞬間、目に見えて彼の雰囲気が変わった。
「……そうでしたか。改めて、失礼を致しました。お詫びのしるしに、試作品で申し訳ありませんが先日我が社が開発した美容液をお渡しいたします」
彼を知っているということで顧客だと思われたのだろう。怯えた表情はきれいに消え、完璧な笑顔を浮かべた彼はどこからともなく(指輪からだと思うが番号を命じている様子が無かった)試作品だという美溶液の入った小瓶を取り出し、流れるように言葉を発し始めた。
「従来の効能に加え、柔らかで強すぎないいくつかの花を調合した香りが加わり、むき卵のような肌ツヤを保障しております。自己治癒力を高める効果もございますので手や顔についてしまった小さな傷であればきれいに消えるという優れものでございます」
一瞬その変わりように呆気にとられる。流石商家の息子、文句が上手い。むき卵のような肌ツヤ……真っ白でつるつるぷるぷるじゃないの。思わず試作品を受け取ってしまった。
と、彼が続けて取り出した別の小瓶の説明に入る直前、突然爽やかできれいな笑顔は崩れ、もとの陰鬱で怯えた顔に戻った。
しかし、今度はその視線の対象は私ではなかった。
「……トト?」
「……アミアーゼ」
気付けば背後に、仁王立ちでこちらを見下ろす彼の婚約者が立っていた。
一難去ってまた一難




