恐怖の午前六時
そのままアレな方向へとなだれ込む、かと思われたがそんなことお天道様が許しても私は許さんぞ。そう思って何度も抵抗を試みたが中々か上手くいかず、辛うじて息ができる程度の口と口の接触が何度も続いて私はへとへとになり、
――――結果を言おう。私は気を失ったのだ。
「………唇、はれてる」
洗面所の鏡を見て、愕然とした恐怖の午前六時。
犯人はキッチンにて鼻歌を歌いながら朝食を作ろうと試みている。いかんせんあいつの料理はまだぎこちないので一刻も早く戻って監視しなければならないのだが、衝撃の光景に目が釘付けになって動けそうにない。
駄目だ。今日は仕事行けない。昨日の今日でこんな唇は露骨すぎる。
適当に声を作って体調不良だと誤魔化そうか。連絡を入れる相手があの相棒だと思うと気が重い。窓の外は清々しい晴れ間がのぞいているのに、私の心は曇天だ。
「ナナカー!」
大声で呼ばれ、反射的にキッチンに戻ってみると、あいつは指から血を流しながら、へらついた笑みを浮かべていた。背景に能天気な花模様が見えるのは目の錯覚だろう。
「指切っちゃった」
「見れば分かる。洗って絆創膏貼っておけば?」
「そうする~」
成人男子に付記するには気持ち悪い言葉かもしれないが、“ルンルン”とスキップをしてあいつは薬箱へと駆けて行った。
自分で言うのもなんだが、昨日(いや、今朝か)の出来事はあいつにとって中々に満足のいくものだったらしい。意識を失った後どうしたかと問えば、「ナナカには何にもしてないよ!」とやや赤い顔で返してきた。妙な不安を誘うが、まあいたさなかったのならそれでいい。詳しくは問うまい。
何を作る気だったのか、袋の開いた小麦粉と卵、牛乳がボールの傍に置いてあった。指を切ったのは、袋を開けるときに包丁を使ったかららしい。ハサミで開けろと言いたい。目玉焼きでも焼くかと思案していると、後ろからがばりと抱き着かれた。驚いたら負けだと思い、唇を食いしばって激痛が走る。
「ナナカ、おれ、ホットケーキが食べたいな」
メープルシロップのような甘ったるい声が耳元で囁かれる。腰元に巻き付いた二本の腕が不埒に横腹を撫でる。
あいつの中で何かが吹っ切れたらしいことは、いくらなんでもわかった。私の中でも、昨日のことで、あの純粋な子供はこの大きな図体の中にはいないということを納得できてしまった。全てが変わってしまったとは思わないが、あんなキスをする男とあの可愛らしい少年を重ねてしまうと、綺麗な思い出が汚されそうで、無理やりそう納得したとも言える。
「作るから、エプロン取ってくれる?」
そう言えば、反応は迅速だった。手渡してくれるのかと思いきや、後ろから手を回して着せ、紐を結んでくれた。着せてくれたのはいいが、その後肩に顎を乗せて和むのはやめてほしい。
「ふあー、なんかおれ幸せ。ナナカがお嫁さんになってくれたら、こんな毎日が毎日続くのになあ。ナナカ、料理嫌いじゃないでしょ?」
「まあ、嫌いじゃないけど…」
「おれのために毎日ホットケーキ焼いてくれる?」
「え、毎日ホットケーキはちょっと…」
「ナナカひどい。そうじゃないのに」
「そうじゃないって?」
「おれのお嫁さんになってほしいなーってこと」
「はあ?」
と怪訝な顔をしつつ、ああなるほど、毎日俺のために味噌汁を作ってくれ、と似たようなことを言いたかったのだろうと推測した。いったいどこでそんな言葉を覚えたのだろう…。って、違う。今考えるべきはそこではない。
「あの、今、なんて?」
聞いてはいけないことを言われた気がして、私は思わずそう尋ねていた。
するとあいつは急にまじめな顔をして、顔だけそちらに向けた私の身体をぐいと自分の方へ向けた。
「おれ、ナナカのこと諦められない。ナナカがあの頃よりずっと好きだよ。一緒にいたいし、ずっとそばにいたい。ナナカじゃないと駄目だ。だから、おれと結婚してよ」
聞いたことのない声色だった。ずっとどこかで、目の前の男はかつてのあの子と同じだと思っていたけれど、こんなあいつは見たことがない。
怖い。それがたまらなく怖い。足元から知らない恐怖が這い登ってきた。
それと同時に、言葉にならない喜びを覚えた。これも、知らない喜びだった。
「け、っこんって…なに、言ってるの。あんた、ここに残るつもり?」
「おれは帰らないといけない」
「そ、そうだ、そう、だと思った」
もしやと期待した心が、一気にしおれた。しかし次に言われた言葉に、もう訳が分からなくなる。
「だから、ナナカにおれについてきてほしい」
「は?」
「“こちらに再び赴き、罪を償え”。王からの伝言だよ」
プロポーズよりずっと、衝撃的な言葉だった。
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