終章「雨が動き出す」
雨は、まだ落ちていなかった。
境界の扉が閉じたあと、世界は一瞬、呼吸を止めたように静まり返った。
律は立ち尽くしていた。
肩に何も戻らない重さが、骨まで染み込んでいた。
灯が隣にいた。
その灰色の瞳は、淡い光を宿していた。
「終わったわけじゃない」
その声は、遠くで響いた。
「でも、選択は済んだ」
律は視線を落とした。
足元で、雨粒が震えていた。
静止していた粒が、わずかに揺れる。
その揺れが、世界の脈動を告げていた。
「……湊は」
律の声は、雨に溶けて消えそうだった。
灯は静かに答えた。
「彼が選んだ。それだけ」
律は息を呑む。
「戻ったのか、残ったのか」
「答えは、あなたの胸にある」
灯の声は淡々としていた。
「境界は、選択を刻むだけ」
御厨の影は、もうなかった。
彼が置いた未来は、光に溶けて消えた。
その代償が、境界を閉じた。
救いか、破滅か――答えはまだない。
律の胸に、湊の声が残っていた。
兄貴。
迎えに来てくれ。
その言葉が、雨に溶けて消えた瞬間を、律は忘れない。
カチ、カチ――。
メトロノームの音が、遠くで逆流するように響いた。
その音が、律の耳に崩れ込む。
時間が、再び動き出す。
雨粒が、一斉に落ちた。
静止していた世界が、音を取り戻す。
その音は、選択の余韻を刻んでいた。
律は顔を上げた。
空が、灰色に染まっていた。
その灰色が、現実の色だった。
灯が歩き出す。
その背中は、淡い光を帯びていた。
「行こう」
律は頷いた。
「……俺は、まだ分からない」
「分からなくていい」
灯の声は、雨に溶けて消えた。
「選んだことだけが、確かだから」
御厨の声は、もう聞こえない。
でも、彼が置いたものは、律の胸に残っていた。
未来を置くという選択。
それが、境界を閉じた。
その代償を、律は忘れない。
湊の影も、もう見えない。
でも、彼が選んだ瞬間は、律の骨に刻まれていた。
戻ったのか、残ったのか。
その答えを、律は探し続けるだろう。
雨が、ふつうに落ちていた。
その音が、世界の呼吸を告げていた。
進むのが地獄でも、それは救いでもある。
希望と絶望は、次の一歩の両輪なのだ――。
律は歩き出した。
雨粒が、肩に落ちる。
その冷たさが、現実の証だった。
境界の光は、もうない。
でも、その余韻が、律の胸で脈打っていた。
「灯」
律は小さく呼んだ。
「……ありがとう」
灯は振り返らなかった。
ただ、雨の中で静かに笑った。
カチ、カ…――。
メトロノームの音が、遠くで消えた。
その消失が、選択の終わりを告げていた。
律は、静かに息を吸った。
そして……雨の中へ、歩き続けた。
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