白蛇編・1
「――……おい、そこのちびすけ、ここで何をしている?」
「……キュ?」
それはいつものように、お兄さんの屋敷に来た時のことだった。
水神様をしている龍青様のお仕事が終わるまで、
お庭に作ってくれたお砂場へ行って遊ぼうと思った私は、
手まりを持って廊下をとてとてと歩いていると、
目の前に真っ白な着物に紫色の袴を着た。
見知らぬお兄さんが立っていた。
(だれ? 知っている匂いじゃないし……)
すんと鼻で嗅ぐが知らない匂いだし、見知らぬ顔だ。
姿は人型を取っているようだが、相手は肩の上で切りそろえられた白い髪と、
目は血のように真っ赤な色をしているので、ちょっと怖い。
何かの化身……人外だと私にも分かる。
身丈は龍青様達よりも小さいので、
まだ彼も子どもなのだろう。
人型だと、かか様と同じ髪と肌の色だな……なんて思ったが、
雰囲気はかか様とは全然違って嫌な感じがした。
私の行く手を立ちふさがるように立っていて、私が右へ避ければ右に来て、
左に来たら左に来て、通せんぼをされた。
「まだ話の途中だぞ? 逃げるな」
「キュ」
そして見上げる私を、ふんぞり返ってにらみつけているではないか。
な、何てえらそうなヤツなんだ。龍青様よりもえらそうにしているぞ。
私は警戒しながら口を開く。
「キュイ」
おまえこそ誰だ。ここは龍青様のお屋敷なんだからね。
どかないと手まりを投げるぞ。私はぷるぷると震えながら応えた。
こ、怖くなんてないんだからね。ほんとだぞ、本当なんだからね!
龍青様のナワバリに、主の龍青様よりも怖そうにしているのを見て、
私はすっかりごきげんが悪くなった。これは悪いヤツかもしれない。
「そんなこと知っているわ! おまえのことを聞いているんだろうが!!」
「キュ!?」
私はびくっと飛び上がった。
「いいか! ここは神聖なる水神の主様のおわす大事な聖域、
おまえのような素性も分からぬ土くさい野良の子どもが、
簡単にうろつけるような場所ではないんだぞ!!
どこから忍び込んだか知らないが、さっさとここから出て行け!!」
怒鳴られた。まだ何のいたずらもしていないのに、怒鳴られた!
それだけで、じわあ……と涙が浮かんだ。わ、私、何も悪くないのに。
で、出て行け? なんで悪い事もしていないのに出て行かなくちゃいけないの。
龍青様には「いつでも遊びにおいで」と言ってもらっているし、
今日だって、龍青様に連れてきてもらったのに。
女房のお姉さんたちも、侍従のお兄さんやおじさんも優しいし、
庭師のおじいさんとも最近は仲良しなのに。
そんな事なんて、みんなにも……い、一度も言われたことないのに……。
「キュ……」
龍青様が、龍青様の大事にしているお屋敷だから、
がんばって守ろうとしただけなのに。
大好きなお兄さんも、お屋敷のみんなの事も守りたかっただけなのに。
「キュ……キュ……」
「ほら、何をしている。さっさと出て行かないか!」
震えて動かない私の頭をがしっとつかんで、持ち上げられて、
私のことを無理やりどこかへ連れて行こうとしているではないか。
痛くて怖くて、爪で引っ掻いて抵抗すると、鈴がちりんと鳴った。
「キュイイ!」
「……っ!?」
周りに水の球が出来たかと思うと、それが蛇の姿になり、
頭をつかんでいるお兄さんの頭に当たって、ヤツの手が離れた。
私は、ぽてっとお尻から床に落ちると、そのまま必死になって逃げ出す。
逃げなきゃ! どこかに連れて行かれちゃう!!
「いてっ! 何するんだこらっ!」
「キュイイ――!」
龍青様――っ! 変なヤツが私のこといじめるよ――っ!!
私は決めた。こいつの事はぜったいに龍青様に言いつけてやると。
龍青様が本気で怒ったら怖いんだからな、
ごめんなさいしても遅いんだからな!
涙をぽろぽろと流しながら、落とした手まりを拾って私は必死で逃げる。
この先に待つ龍青様の居る部屋へ駆け込もうとした。
あそこは私の一番安全な場所だったから。
「は? こ、こらっ! ちょっと待てちびすけ! そっちは……っ!」
「キュ!」
やだ!!
龍青様の桃をくれないヤツに、この私は止められないのだ!
白いお兄さんは、私のことをつかまえようと追いかけてくるので、
私は飛び上がってもっと早く走る。こんな所でつかまってたまるか。
もしかして前に私のことをさらった仲間か!?
助けてと私がキュイキュイっと叫ぶと、私の泣き声に反応した手まりが、
私の手から飛び出して、白いお兄さんめがけて勢いよくぶつかった。
「うわああっ!? な゛、なんだこれ!?」
べしっ! ばしっ! ぼこっ!
床に落ちてはずむ手まりが、白いお兄さんへと勢いよくぶつかっていく。
「キュ!」
手まり!
涙目で振り返ると、手まりが「いまのうちに逃げて!」と言いたげに、
くるくる、ぴょこぴょこと飛び跳ねては、足止めをしてくれているようだった。
手まりは私よりも強いから、きっとだいじょうぶだ。
私はうなずいて、早く龍青様に助けを求めに行こうと、
再びてちてちと駆けだした。
てちてち、てちてち、てちてちてち……。
ああ、なんで私の手足はこんなに短いんだろう。
廊下を曲がり、目的の場所は果てしなく遠い。
たどり着くよりも呼んだ方が早いと思った私は、
「龍青様、龍青様!」とキュイキュイ泣き叫びながら鈴を鳴らすと、
龍青様が鈴の音を聞きつけ、部屋から慌てて飛び出てきて私の姿をとらえた。
「姫!? ど、どうしたんだこっちへおいで?」
つるつるした床を勢いでこけないよう、
必死に持ちこたえて、てちてちと走ってきた私も龍青様を見つける。
涙がぽろぽろ出てきて、龍青様に助けを求めてお兄さんの名を呼ぶ。
「キュイイ!」
龍青様!!
両手を伸ばし、抱っこを求めて飛びついた私を受け止めてくれた龍青様は、
私が泣いている事に驚き、抱き上げてくれた。
「よしよし、そんなに泣いてどうした姫? 何があった?」
「キュイ! キュイイイ!」
知らないお兄さん、怖いのが来たよ!
嫌なことされた。怖い事された。私のことをどこかに連れて行こうとしたの。
いきなり怒鳴って来て、私の頭を急につかんで持ち上げられたんだよ。
「……何?」
「――あっ! おまえ何をやっているんだ!?
主様から早く離れろよ、ちびすけ!」
そこへあの白いお兄さんがやって来て、
どかどかと歩いて私達の方へ近づいてくる。
ほら、さっさと離れろとこちらに手を伸ばしてきたので、
私はキュイっと悲鳴を上げて龍青様にしがみ付いた。
そうしたら、私のことをつかまえようとした白いお兄さんの手を、
龍青様がぱしっと振り払ってくれた。
「止めろ!」
「……っ、ぬ、主様!? なぜ止めるのですか!」
「離れるのはおまえの方だ。ハク。
こんな幼い子ども相手にいったい何をしようとした?
ことと次第によっては、おまえの処遇を決めなければならない」
代わりに、私の頭に龍青様の手がやさしく触れる。
「そっ、それは、あのですね。この子どもが主様の屋敷に侵入してきたから、
ぼくは追い出そうとしただけですよ」
「この娘は俺が大事な客人として招いているので問題ない。
手荒な真似をしたから俺の姫が怖がっているだろう。
姫への狼藉はいかなる理由があっても、この俺が一切許さぬ」
「主様……って、客人? 俺の姫? って、わあああっ!?」
龍青様の着物の袖からたくさんの水で出来た蛇が出てきて、
私をいじめていた白いお兄さんの体を縛り上げ、
床にごろんと寝転がされ、頬を水の蛇に尾の先でぺしぺしぺしっと叩かれている。
白かった肌は何度もぺしぺし攻撃を受けて、赤く腫れあがっていった。
「いたたっ!? 痛いです主様! お許しくださいっ!!」
「俺の大事な姫に手荒な真似をした仕置きだからな。痛くして当然だ!!
ここに居る娘は、俺と番になる約束を交わしてくれた大事な婚約者。
俺の屋敷も所有する水源も、姫が自由に行き来できるよう許可してある。
だからおまえが姫の行動をとがめる必要も筋合いもない」
「婚約者!? このちびすけが、正気ですか!?」
知らせはいただいておりましたが、まさかこんな幼子だったなんて」
ぎょっとした顔で私の方を見てくる白いお兄さん。
頬が叩かれて赤くなっているけれど、私が龍青様の婚約者と聞いて、
顔が青ざめているようにも見えた。
私はキュイっと鳴いて、龍青様にぎゅっとしがみ付く。
「そうだ。まだ幼いがれっきとした俺の婚約者だ。
大きくなるまで、昼間は両親の元から預かり大事に育てている最中でな。
番になれば、おまえが仕える相手にもなるだろう。立場をわきまえよ」
「……キュ?」
龍青様、このお兄さんと知り合いなの?
ミズチのおじちゃんみたいにお友達とかなの?
私は着物をくいくいっと引っ張って、顔を見上げると、
龍青様は私の方を見下ろして、安心させるように笑いかけてくれた。
「ああ、姫にちゃんと紹介しようね。彼は俺に仕える神使のハクだ。
白蛇の化身でね。いつもは陸地にある社の管理を任せているんだよ。
まだ会わせた事が無かったから驚かせてしまったか、ハク、姫にあいさつを」
「……主様の神使、白蛇のハクだ」
ふてくされた顔で白いお兄さんはそう言った。
すごい嫌そうだな。
「蛇、まだこの俺に言わせたいか?」
名前の方じゃなく、ただの蛇と呼んだ龍青様の声が一段と低くなり、
敵を威嚇する時のような獣の目に変わり、
水面のような色が金色に光っているのを見て、
龍青様がすごく怒っているのが分かった。
冷ややかな目線と、とがめるような声で龍青様が言うと、
目の前の白いお兄さんが飛び上がった。
「ハ、ハク……です」
龍青様に言われて、拘束をやっと解かれた白いお兄さんは、
身なりを整え、両手を床に付けて深く頭を下げてきた。
でもそれは龍青様に言われたから、しかたなくやってやるという感じで、
ハクと呼ばれたヤツは、まだ私のことを「よそもの」と接するような扱いで、
じろじろとにらむように見ていた。あきらかに歓迎はされていない様子だな。
「キュ……」
いいもん。もう龍青様が一緒だから怖くないもん。
白いお兄さんは龍青様と知り合いだったのか、でも“しんし”ってなに?
「神の使いと書いてね。しんしと読むんだが……神である俺の意思を代行、
つまり俺の代わりになって仕事を取り計らう者のことだよ。
陸地で人間との橋渡しもしてもらっているんだ」
「……」
「……キュ」
まだ見てくるぞ、このお兄さん。
私は着物をつかむ手を、さらにぎゅっとつかむ。
「ところでそちらの、ちび……じゃなくて姫は、どちらでお知り合いに?」
「以前、身売りの悪漢から保護したのがきっかけでね。
おまえがミズチと関わっていたあの一件の関係者だ。
“盟約の娘だった”と言えば、おまえにも分かるだろう?」
「――っ! で、ではこの娘は先代様の!?」
先代の龍青様のとと様と花嫁になった娘……。
私の先祖にあたる者の話は、龍青様の知り合いや、眷属、
水域に暮らしている者達にはちょっと有名な話らしく、
目の前のお兄さんは、ぎょっとした顔で私を見てくる。
「ああ、俺の父が嫁にしようと長いこと狙っていた娘だ。
その縁もあって俺と姫は引合わされたようなものだが……、
今はもう、その呪も解けて父にも諦めてもらえたがな」
「話はうかがっておりましたが……こ、この娘が、
あの先代様の呪いを退けたという、豪胆な姫君だと!?」
「キュ?」
ごうたん?
「困った事があっても、立ち向かう強さがあるって事だよ」
そうなのか、私は強いって事だね? そうだぞ、強いんだぞ。
だって私はとと様とかか様の子どもなんだからね。
私はふふんと鼻を鳴らして、ふんぞり返ってみたら、
後ろにころんと落っこちそうになって、
あわてて起き上がって龍青様の着物をつかむ。
危ない危ない、落ちるところだった。
「……どう見ても、ただの芋くさい田舎娘にしか見えない」
なんだと!? しっけいな!
私はキュイキュイと鳴きながら抗議した。
この私の体はね! 龍青様とおそろいのとってもいい匂いがするんだぞ!
匂い袋は毎日両手でにぎにぎ、すりすりして眠っているんだからね。
「ぬ、主様とそろいの物を持ち合わせている……だと!?」
「キュ」
ふんっと鼻息を荒くしてうなずいた。そうだぞ、おそろいだぞ。
それに私は毎日龍青様に抱き着いて、お兄さんの匂いをすりつけているんだ。
そんなことを言ったら、それを聞いた白いお兄さんが、
まるで雷を打たれたかのように固まっていた。
「ぬ、主様から直々にそんな待遇を……っ!」
「た、待遇というか、姫がまだ幼く甘えん坊だからということもあるが、
まあ、そういう訳でな、姫のことは俺があずかろう。おいで姫。
怖かったね? もう大丈夫だから」
「キュ」
うなずいた私に笑いかけてくれた龍青様は、
そのまま震えていた私を抱っこしてくれたまま、
部屋に戻るために廊下を静かに歩きだしたら、
なぜかその後ろを、怖い顔のままの白いお兄さんがついてくるではないか。
その間を、手まりが間をさえぎるようにコロコロとついて来ていた。
(お砂場に行こうと思っていたんだけど)
この怪しげな白いお兄さん……。
ハクとかいう雄を龍青様と一緒にしたくなくて、
私はぎゅっと龍青様の着物をつかんだ。
そっちの白いお兄さんは来なくていいのに。
来ないでいい、龍青様と一緒に居るからと手でしっしっと振ってやったら、
余計に顔を真っ赤にさせて意地でもついてくるではないか。
「姫、砂場に行きたかったんだよな?
あとで仕事が終わったら、俺も一緒に遊んでやるからね」
御簾を潜り抜けたところで龍青様が言う。
「キュ?」
私が不安がって外で遊べないと思ったのか、龍青様はそう言ってくれた。
ちがう、ちがうんだ。お砂場に行こうとは思っていたんだけどね?
目の前のお兄さんが、龍青様に悪さをしないか分からないから、守るの。
しっぽをぶんぶんさせてそう言うと、龍青様が後ろを振り返って笑っている。
「――だ、そうだぞハク。おまえの方が姫にとってはよそものらしい。
きちんと姫に礼を尽くせなかったせいだな。
姫は不審なおまえから、俺のことを守ってくれるそうだ」
「……っ! ぼくが主様を害するはずがありません!!」
大好きな龍青様の部屋に入り、龍青様は文机の前に座る。
腕の中の私を膝に降ろそうとしたけれど、私がひしっとしがみ付いているので、
くすくすと笑いながら私の頭をなでてくれた。




