17・水神の印
目を覚ました人間の娘は、かんなと名乗り、
自分こそが龍青様の婚約者だと言い出した。
「恐れ多くも、公方様のご配慮です」
女房のお姉さん達がそう言って、まずは身なりを整えるのが先と、
かんなという名の人間を別室へと連れて行き、
女人用の着物の着替えと、濡れた髪や体を拭き取る為の布を与えられ、
身なりを整えた後に、彼女は私達の待っていた部屋に再度やって来た。
「キュ……」
「姫、こっちへおいで」
部屋の入り口で、手まりを投げられる体制でじっと固まっていた私は、
やっぱり手足が震えて怯えていると、龍青様に手招きして呼ばれたので、
キュイっと返事をし、彼の後ろにささっと回り込んで隠れる。
かんなは見知らぬ者達に取り囲まれているというのに、
この状況に怖がることもなくて、一歩、二歩、三歩と近づいた所で、
山吹色の着物を着ていた侍従のお兄さんに止められた。
其処で床に膝を着き、指を重ねて深々と頭を下げてきた。
用意された緋色の着物に袖を通し、
薄くけしょーとかいう、顔に付けているものを直したその姿は、
来た時と比べて、見違えたものだったと思う。
だからか、そんな彼女の姿を見て、
隣の部屋に控えていた侍従のお兄さん達から、
ほうっという溜息と、「美しい……」という言葉が漏れていた。
人間の醜悪は私にはよくわからないが、お兄さん達いわく、
かんなというのは、人間では綺麗な部類の娘になるらしい。
さらりと長い黒髪がその着物に映えて、横の髪が前に揺れて流れ落ちた。
娘の目の前には私と龍青様、左右には侍従のお兄さんが一人ずつ居る。
「助けていただいた上に、御前に現れることをお許しいただき、
感謝いたします。改めまして私は近くの山村で暮らし、
水神様の贄としての大役を務めさせていただく事になりました。
かんなと申します。以後どうぞよしなにお願い申し上げます――旦那様」
娘は頭を下げたまま、そう龍青様に告げた。
だんなさまってなに? と私が首をかしげていると、
龍青様は口元をひくひくとさせて、娘を見ている。
「だっ、旦那様っ!?」
「人間の小娘が、生意気にも主様に旦那様と言っているわよ!!」
「恐れ多いにもほどがあるわ、あの小娘!!」
「さすが人間だわ、身の程を知らないのね!!」
近くで覗き見していた女房のお姉さんが、甲高い声で叫んでいたり、
きいっ! と言いながら、手に持っていた扇を握りしめていた。
そんな中、言われた方の龍青様の方は……。
「……」
「キュ?」
「ああ、公方様、公方様が固まっていらっしゃるわ」
隣の部屋から、こちらの様子をのぞいていた女房のお姉さんが、
「また公方様が死んだ魚の目をしている」とか言っていた。
私はというと、死んだ目をしているという龍青様の着物の裾から、
よじよじとよじ登って、彼の肩の上に無事乗る事に成功した。
が、私の体はまだかたかたと震えている。
「キュ……」
しゃべっている、動いているぞ。
あの人間が、生きている。人間が傍に居る!
それだけで私は人間の怖さを思い出していた。
私の郷を襲った人間の中には、
その手に恐ろしい刀という武器を持っていて、
とと様やかか様、私をはじめ、郷のみんなが追いかけ回されて、
とても怖い思いをしたのだから。
ここにいるみんなも、あの時みたいに同じ目に遭うのだろうか。
「キュイ……」
私はとんでもない者を起こしてしまったのではないか。
目をぎゅっと閉じて、しがみ付いてキュイキュイと震えている私に、
龍青様は気づいて、よしよしと私の頭をなでてくれた。
「――娘、何度も身を投げ出しここへたどり着く、
その恵まれた運と根性には感心するが、
俺は何もお前のことを生贄にと要求した覚えは一度もない。
さっきからその、旦那様やら婚約者と言い出す目的は何だ?」
龍青様は娘に少しも笑いかけず、肩に居た私を抱っこしてくれた。
自らの名を相手に名乗り、教えてあげる気はないようで、
さも興味なさげに、腕の中の私の頭をしきりになでている。
とくんとくんと脈打つ、龍青様の心臓の音に耳を傾ける。
彼が傍に居るのを安心できた私は、怖くなくなってきたので目を細め、
手から伝わる温もりが、私を安心させてくれた。
「あ、あの、目的……といいますか、
当代の水神様は、番となる嫁御がまだ居ないとのこと、
なので私こそその大役にふさわしいと、これまで村で育てられてきました。
水神様の嫁御になる娘として、だから望まれていないはずは……」
「ふさわしい……か、ではその根拠は?」
「は、はい、生まれつきこの瞳……水神様と同じ色を示すこの瞳こそ、
私がいつか水神様の嫁に嫁ぐように、私の先祖と水神様の間で交わされたもの、
古より定められた何よりの印です」
「……だから婚約者か」
「はい、これまでの水神様よりの恩恵に報い、盟約を果たすは我が使命。
その為に私はこの身を捧げる為に、こうしてやって参りました」
その言葉を聞き、周りの人達は人間の娘の容姿を改めて見ていた。
言われてみれば確かに、この人の瞳は龍青様と同じ水色をしている。
あの色が水神の嫁になるという、確かな証になるのだと。
そうなのか、では私は……と考えてみると、
嫁の印なるものを持っていないなと思い出した。
私の瞳は若草色、水色なんかじゃないからね。
龍青様の腕の中で、ちらっと背後にいる人間を振り返る。
龍青様とおそろいの瞳の色か……。
仲良しの印みたいで、ちょっといいなとか思った。
龍族同士でも、龍青様と私は全然違うし、成体の龍と子どもの龍だし。
おそろいの部分って、何一つないんだよね。
すると、急に自分の胸がきゅうっと苦しくなった気がして、
龍青様の着ている着物を握りしめる。
「キュ?」
なんだろうこれ……なぜかは分からないけれど、
さっきから、とろんとした目でお兄さんのことを見る、このお姉さんが嫌だ。
人間だから嫌なんじゃなくて、そんな目で龍青様を見てくるのが嫌だった。
それに龍青様の興味がこのお姉さんに行ってしまって、
私とはもう遊んでくれなくなったらどうしよう……なんて、
そんな事を考えてしまった。
それがとっても嫌だなって思うなんて……。
そう、まるで龍青様を取られてしまうような気がした。
「キュ……」
「ふむ……では、その瞳の色は水神の所有の印と主張するのか」
「はい! ですからぜひ私を嫁として迎え入れ……」
「――だが、それは俺の残したものでもなければ、
俺の一族の誰かが残したものでもないな」
そう言いながら、龍青様は私の頭をなでる。
なでなで、なでなで、なでなでなでなで……。
龍青様、あの、ちょっとしつこいよと思ったら、
私の頭に顔を埋めて、匂いを嗅いでくるではないか。
よっぽど仕事とかでお疲れなのだろうか?
私がキュイっと抗議して、その手をぺちっと軽く叩いたら止めてくれた。
「ふ……つれないな、俺の姫は……」
顔を見て分かった。龍青様はどうやらこの話を早く終わらせたいらしい。
そうだよね。私と一緒に早く遊びたいよね。分かる、それは分かるよ。
本当だったら今頃、私とめいっぱい遊んでいるはずなんだもんね。
「は? あ、あの、ですが……」
「俺はおまえの印に覚えがないということだ。どうやら水神違いのようだな。
水神はまあ数が多いとは思うが、片っ端から当たれば見つかるだろう。
というわけで悪いが他を当たってくれるか? 嫁の宛ては既にあるのでな」
「え?」
そこで人間の娘は、先ほどから龍青様がなでている私の存在に気づいた。
今度は龍青様にあごをくすぐられていたが、
人間と目が合ってしまった私は、びくっと体が震え、
またも体がかたかたと震えて、涙がぽろぽろとあふれてくる。
な、なんだ見てくる。見てくるぞ?
「キュ……」
こ、怖くない、怖くなんてないんだからな。
私は怖くなんて……こ、こわ……。
「キュイイ!」
だめだった。怖いものは怖い。やはり本物はちがう。
人間に慣れるべく、このお屋敷で働く従者のみんなと会うたびに、
みんなと手をぽんっと合わせる練習をしていただけではだめだったのか!
そう言えばさっきは、起こすためにこの人間に触ってしまったし。
思い出したらますます怖くなった。キュイイ……と涙を流しながら、
龍青様の着物に、ごしごしと私の手をこすり付ける。
もうだめだ龍青様、私この人間に勝てる自信がない。
着物に何度も私の手をこすり付けて拭く。
「おお、よしよし……大丈夫だよ姫って、
こら、さっきから何をやっているんだ。おまえは」
「キュイ、キュイイイ……」
さっき、人間触っちゃったから拭いているの。
「それで俺の着物を手ぬぐい代わりにするな」
「キュ……キュ……」
だって、龍青様の着物はとっても綺麗だし、神様のものだから、
怖くなくなるかと思って……とキュイキュイ泣いた。
「あーそうかそうか。はいはい、泣くな泣くな、
ほーら、姫? たかいたかーい」
龍青様が高い高いをして慰めてくれると、私はすんすんと鼻を鳴らした。
その様子をじっと見ている人間の娘、かんなが居る。
「あ、あのまさか既に水神様にはお子が……」
「いや? この娘は俺の嫁だが」
「キュ」
そうだよ。
私はこっくりとうなずく。
「よ、嫁!?」
更にぎょっとした顔で、私の方を見てくる人間の娘。
龍青様の腕の中に居る。手まりのような小さな私のことをじろじろと。
見ているというか、にらまれている気がするな。
「なんでこんな、ちんちくりんなのが」とか言いたいんだろう。
「ああ、正確にはこれから嫁になる予定の娘、俺の本当の婚約者だ。
俺は既にこの姫と将来を誓い合った。相思相愛の仲となっていてな?
確かに今はとても幼くて、まだ婚姻の契りはしていないが、
大きくなったら俺の嫁になってもらうつもりだ」
「キュ?」
そーしそーあい? ってなに?
こんいん? ちぎり?
「そ、そんな……も、もう他に婚約者がいるなんて……っ!」
再び私の方へ向けられる視線。
じろじろ、じろじろ、その視線にはなんだか嫌な感じがする。
な、なんだ私とやる気なのか?
私は涙を流しながら口を引き結び、
龍青様の顔に飛びついてギュッとしがみ付く。
「ひ、姫、どうどう、いた、痛い。さすがにそれは痛いから!
爪、爪を立てないでくれるか、というか顔!
俺の顔に張り付かれたら前が見えないだろう、姫、姫っ!?」
「キュイイ!」
そのまま、私は龍青様から引き離された。
「……ぷはっ! あーよしよし、まあそんな訳でな。
俺はもう嫁には困っていない。期待させたようで悪いのだが、
他の水神を当たる事だな。俺は今、自分の嫁を育てるのに忙しいから」
「で、ではどうぞ私を、その方の付き人にしてくださいませんか!?」
「……何?」
「キュ?」
「こ、故郷にこの事を伝えても、きっと誰も信じてはくれません。
戻ってもまた沈められるのが目に見えています。
だから……ここで働かせていただけませんか?」
そう言いつつも、この人間の娘は私の方を見ていない。
見るのは龍青様の顔だけだ。
周りには、侍従のお兄さんも女房のお姉さんも居るのに、
御簾ごしで見守る人たちの存在すら、彼女は見ようともしなかった。
まだ頬をほんのりと染めながら、上目づかいをして、
何か訴えかけるような瞳をして龍青様を見ているので、
よくわからないが、その目的が龍青様に近づくことだというのは分かる。
「……キュ」
見ていてちょっとむかっとしたのは、なんでだろうな。
それになんなんだ。私のつきびと? つきびとってなんだ?
龍青様が私の方を見下ろすので、私はとりあえず首を振る。
なんだかよく分からないけれど、やだ。それだけを伝えた。
私を使って龍青様が狙われているのなら、嫌に決まっている。
「キュイ!」
ぷいっと、そっぽを向いた。
「……悪いが、俺の姫は人間のことが苦手でな。
もしも俺がおまえを屋敷に置くのを許したりでもしたら、
姫が怖がって、二度とここに寄りつかなくなってしまうではないか。
俺はその方が一番堪える。よって却下だ」
「キュイ!」
こくこくと私は必死にうなずいた。
良いぞ龍青様、もっと言ってやって!
「で、では、仲良くなれるように努めますので」
なんだそれは、つまりそれは私の方がなんとか慣れろってことでしょ?
やだやだ龍青様、人間と一緒に居るのは怖い。
すんすんと鼻を鳴らしながら顔を背けた私を見て、龍青様は頭をなでてくれ、
私の手にそっと大好きな手まりを持たせてくれた。
「分からないのか……? 姫は既にお前のことを警戒している。
人間というだけで、怖がるのも仕方ないほどの傷を抱えているからな。
俺の嫁となる娘を怖がらせてまで、おまえをここへ置く義理も必要性もない。
姫の傍付きとなって、俺からの寵愛を狙ったのだろうが残念だったな」
「……っ!?」
「幼い姫を排除し、俺の嫁の座に居座ろうとするような者を、
水神であるこの俺が見破れぬとでも思ったか?
それに俺の姫は幼くても水神の婚約者、その位の事は本能で感じ取れる。
穏便に済まそうとは思っていたが、難しいようだな」
すると、それまで穏やかだった娘の顔色は一気に変わった。
その顔は私の故郷の郷で見た人間達のあの顔に、
とてもそっくりなものになった。
「なっ、なぜそこまでして、その娘を選ぶんですか?
まだ子どもじゃないですか! 貴方様に嫁ぐにはとても時間がかかります。
私なら、私ならすぐに夫婦になることができるじゃないですか!!」
すると、傍で控えていた侍従のお兄さんや女房のお姉さんが、
話を聞いてざわつき、ひそひそと話し始める。
「確かに、それなら子を直ぐに望めるかもしれませんが」
「相手がどの水神の所有する娘か分からぬ以上、嫁御に迎えても後が……」
「ですが姫様だと、まだ子を望むには幼すぎますし……。
あの方が成体になるまでに、まだ時間がかかることを考えれば。
それにもしその間に、公方様に何かあったらと思うと……」
「ですが、相手はあの人間ですよ?」
「前例が無いわけではありません。何代か前の水神様は、
人間の娘を嫁に娶ったと聞きますし、
他の水神様も同様の件を聞いております」
「では、あの娘を主様の嫁として迎え入れた方が良いと?」
そんな事を話す屋敷の人達の声を聞いて、私はキュイキュイと泣いた。
よく分からないけれど、私が要らないって言われたように感じた。
それじゃあ私……龍青様の嫁とか番になれないの?
なんだかそれは、龍青様ともう一緒に居られなくなるような気がした。
そんなのやだ……やだやだ。
私、龍青様の嫁になるんだもん。そう約束したんだもん。
約束は大事だって龍青様だって言っていたじゃないか。
「キュイイ……」
「……おまえ達、俺の怒りを買いたくなければ静まれ」
そう龍青様がいつもよりも低く怒りを込めた声でそう言うと、
御簾ごしに聞こえてきていた話し声は、ぴたりと止まった。
静まり返る部屋の中、龍青様が私を膝の上に静かに乗せ、
私をなだめるように頭をなでてくれる。
「確かに、今の姫は幼すぎて俺と番になるのはまだ難しい。
年頃のおまえを嫁に迎えれば、家臣達の不安材料も消えるのだろう。
もう俺の一族は俺を残して既にいないからな。
どんな手段を使っても、俺の子孫を残したいだろう」
「では……!」
龍青様の言葉に、かんなという女の目がきらんと輝いた。
「だが、それでも俺はおまえを必要としない。
この俺が嫁に欲しいと願うのは、そばに居てほしいと思うのは、
今、俺の膝の上に居るこの姫だけだからな」
「……キュ?」
「姫は野心もなく、無償の愛情を俺に与えてくれる。
それは何を引き換えにしても得難いものだ……野心のある誰かとは違ってな。
水神というのは総じて、無垢なる娘を好むものだからな」
「……なっ!」
「姫が居た事で、俺はもう一度素直に笑うことが出来るようになった。
生きているという、命の温もりも知ることが出来た。
全てこの姫が居たからこそだ。何を引き換えにもできないだろう。
それに、おまえのその印が水神の嫁御の証というのなら、
この姫にもその印は付いているぞ」
「え?」
「キュ?」
その言葉は、私だけでなく、周りの者達をもざわつかせた。
「ひ、姫様も印を!?」
「どういう事ですの?」
「それも他の水神ではない、“俺の嫁になる者”として付けられた。
正真正銘、本物の古に交わされた盟約の証となる印だ。
同じ所有の印でも、その価値は俺にとって雲泥の差、
娘がその盟約を守ると同時に、その水神である俺も守らなければならない」
「キュ?」
「どんなことがあろうとも……な」
言われてみてもよく分からなかった。
龍青様を見上げて、どういうこと? と、首をかしげる。
すると龍青様が私を見下ろして、私の頬を指先でそっとなでてきた。
私の、若草色の瞳を見つめながら……。
「おまえは幼すぎて気づかなかっただろうが、
俺は出会ってすぐに気づいていたよ」
「キュ?」
「不思議に思う事はなかったか? 姫は姿こそ父君と母君の色が混ざり合い、
その能力も一緒に受け継いではいるが、その瞳、その瞳の色だけは、
両親の持つ色になっていないことに」
とと様は朝焼けのような瞳の色、かか様は鮮やかな金色の瞳。
一言でいえば両親の瞳の色は黄色なのに、子どもの私はどちらの色も宿していなく、
若草色という草の色をしていた。
だから両方の色が混じっているようでもなかった私は、
この色をとてもふしぎに思っていたんだよね。
「キュ」
では龍青様の瞳の色はと言えば水色、それらを混ぜたらと言われて、
私は首をかしげた。分からないけれど……もしかしたら今の瞳の色がそうなの?
この若草色の瞳が。
「ふふ、まだ姫には難しかったようだね。だがそうだよ。
姫の瞳はいずれ俺の嫁になるという盟約の色、俺のものという何よりの証。
だから俺はね、おまえ以外の嫁は迎えるつもりはないんだよ」
龍青様によって私はぎゅっと抱きしめられる。
それは、私がまだ知らない話だった。




