絶対防御のアルミフェンスと、鼻から五円玉を飛ばす人魚
絶対防御のアルミフェンスと、鼻から五円玉を飛ばす人魚
胃が浮き上がるような落下の感覚が途切れ、足の裏に柔らかい土の感触が伝わってきた。
「……っ」
加藤真守は、ゆっくりと目を開けた。
先ほどまでいたコンビニのネオンも、アスファルトの道路も消え失せている。代わりに広がっていたのは、鬱蒼と生い茂る見知らぬ木々と、土の匂いだった。
見上げた夜空には、地球のものよりも一回り大きく、うっすらと赤みを帯びた月が浮かんでいる。
「どうやら、本当に異世界に飛ばされたらしいな」
真守はワイシャツの襟元を緩め、ため息をついた。
婚約破棄、35年ローン、そして借金まみれの女神ルチアナによる強制転移。普通ならパニックになるところだが、生来のB型気質と、数学教師としての合理的な思考が、彼を極めて冷静にさせていた。
「焦っても始まらん。現状の把握が最優先だ。女神は俺に『マイホームを自由に出し入れできるスキル』を与えたと言っていたが……」
その時だった。
「お助けええええっ! 私に食える所はありません事よおおおお!」
静寂の森を引き裂くような、情けない悲鳴が響き渡った。
真守が声のした茂みを掻き分けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「ひぃぃぃぃ!」
涙目で走って逃げているのは、一人の少女だった。
だが、その服装が異常だ。ダサい緑色の芋ジャージの胸元には『ルナミスデパート』という謎のカタカナが印字されており、足元はペタペタと音を立てる健康サンダル。さらに、耳の形が魚のヒレのようになっている。
そして、その後ろから猛スピードで追いかけてくるのは――軽トラックほどもある巨大な赤い猪だった。
「人魚……? いや、脚があるな。それにしても、あの猪のサイズはヤバい。完全に人を殺す気だぞ」
真守が助けに入るタイミングを計っていると、逃げていた少女が急に立ち止まった。
そして、ジャージのポケットから何かを取り出し、自らの鼻の穴に勢いよく詰め込んだ。
「食らええええ! 貧乏神の怒り! フンッ!!」
少女が力強く鼻息を噴射すると、鼻の穴から勢いよく『五円玉』が射出された。
チリーンッ、という間の抜けた音と共に、五円玉はレッドボアの硬い額に当たって虚しく地面に落ちた。
「ダメですの! 痛くも痒くもないみたいですわあああ!」
「当たり前だろ! 何やってんだあいつ!」
思わず真守はツッコミを入れた。
レッドボアは五円玉に怒り狂ったのか、さらにスピードを上げて少女へと突進していく。このままでは、芋ジャージごとミンチにされてしまう。
(間に合わない……!)
駆け寄っても間に合わない距離。
真守の脳裏に、落下間際にルチアナに突きつけた要求が蘇る。
『俺の家は俺が守る! 水道もガスも電気も、絶対防衛の敷地権も、すべて保証しろ!!』
真守は、右手を前方に突き出し、己の人生を賭けた三十五年の重み――愛しの我が家を強烈にイメージした。
「出ろ……俺の、マイホームッ!!」
瞬間、少女とレッドボアの間の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
ズドォォォォンッ!!
鼓膜を揺らす地響きと共に、森の中に異質な建造物が出現した。
白と黒を基調としたモダンな外観、二階建ての5LDK、ビルトインガレージ。周囲をアルミフェンスで囲まれた、日本の郊外にありそうな真新しい一戸建て住宅である。
「ブギィィィィッ!?」
時速五十キロで突進していたレッドボアは、突如現れた障害物を避けきれず、家の敷地を囲む安価なアルミフェンスに顔面から激突した。
――バキィッ、という破壊音は鳴らなかった。
その代わり、「ポヨンッ」という気の抜けた音が響き、レッドボアの巨体が、見えないトランポリンに弾かれたように真後ろへと吹き飛んだのだ。
「……よし。傷一つない」
真守は、フェンスの門扉を開けて外へ出た。
女神ルチアナは、約束通り『敷地の絶対防御権』を設定してくれたらしい。異世界の魔物の突進エネルギーは、フェンスに触れた瞬間に100%無効化されていた。
「な、なんですかこの巨大な箱は……!?」
「ただの俺の家だ。怪我はないか?」
芋ジャージの少女が、へたり込んだまま真守を見上げる。
しかし、休む暇はなかった。弾き飛ばされたレッドボアが、今度は明確な殺意を持って真守へと標的を定めたのだ。土を蹴り立て、凄まじい鼻息を噴かしながら、一直線に突進してくる。
「マ、マモル様(仮)! 逃げてください! それはレッドボア、軍の兵士でも手こずる凶暴な魔物ですわ!」
「逃げる必要はない」
真守は、アルミフェンスの門から一歩だけ外に出た。敷地の防御力に頼ることもできたが、ここで対処しておかなければ今後も面倒だ。
真守は、ゆっくりと半身に構え、脱力した。
数学教師としての演算能力が、猪の動きを瞬時に解析する。
(質量およそ一トン。初速は時速五十キロ弱。重戦車のような突進だが、直線的すぎる。運動エネルギーのベクトルは巨大だが、作用線が完全に丸見えだ)
合気道において、相手の力を真正面から受けるのは愚策中の愚策である。
レッドボアの凶悪な牙が、真守の胴体を貫かんと迫る。
その瞬間――真守は足捌き(転換)で、猪の突進の軌道から紙一重、わずか数センチだけ身体をずらした。
猪の力の方向に自らの動きを合わせ、触れるか触れないかの絶妙な位置で、猪の首根っこに両手を添える。
「ふっ!」
そのまま、猪の突進エネルギーを邪魔することなく、螺旋状の円運動へと誘導した。
自らのスピードを殺しきれず、さらに真守の誘導によって重心を完全に崩されたレッドボアは、自らの力を制御できずに宙を舞った。
ドゴォォォォンッ!!
一トンの巨体が、錐揉み回転しながら背中から地面に激突し、森の木を数本へし折ってようやく停止した。
真守は間髪入れず、足元に落ちていた手頃な太さの木の枝を拾い上げると、白目を剥いて痙攣している猪の顎下――急所である神経叢を的確に突き抜いた。
「……よし。教育的指導、終了だな」
木の枝を投げ捨て、ワイシャツの埃をパンパンと払う。
静まり返った森の中で、芋ジャージの少女は、口をあんぐりと開けたまま固まっていた。
「な、なんという……! 魔法も闘気も使わず、ただの木の棒とちょっとした動きだけで、あんな凶悪な魔物を一撃で沈めるなんて……!」
少女はズリズリと這いずるように真守に近づくと、その足首にガシッと力強くすがりついた。
「助けていただき、ありがとうございますうう! 私、シーラン国の王女にして大人気地下アイドルのリーザと申します!」
「お、おう。王女? アイドル?」
「このご恩は、貴方様に一生養って貰うことで返させて頂きますうう!!」
真守は、足元で涙と鼻水を流す自称王女の人魚を見下ろして、冷静に突っ込んだ。
「……いや、それご恩返しじゃないよな?」
「そんなことありませんわ! 私、公園の雑草より白米が好きなんです! どうか、どうかこの立派な温かいお家と、美味しいご飯を私に……ッ!」
「お前、さっきから言ってること全部自分の欲望だけだぞ」
婚約破棄され、異世界に飛ばされた数学教師の初日は、こうして騒がしく幕を開けたのだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
「家のフェンス強すぎ!笑」
「合気道と物理演算の無双がカッコいい!」
「ヒロイン(?)のリーザ、図々しすぎて草」
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次回、第3話「タダ飯人魚とポポロ村」!
マモル先生のマイホームが、ついに異世界人を驚愕させます! お楽しみに!




