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見えなかったもの

葬儀が終わっても、私たちの世界は元に戻らなかった。

田角あかり先輩の席が空になった教室は、どこか軽く、どこか重かった。窓から差し込む光はいつもより薄く、風は窓辺のカーテンをゆっくり揺らす。誰もがそわそわして、教室の隅では小さな声が固まっては消えた。


そんな日常の中で、西村かえではいつもどおりに立っていた。

彼女は明るく、身のこなしが軽い。部活ではディフェンスを受け持つことが多く、試合中の彼女は雷のように速かった。そんな彼女が、先輩のことで泣いたり怒ったりする姿を見せるのかと思っていたら、意外にも淡々と、いつもの笑顔を選んでいる。だが、その笑顔はみかに届くためのものだけではないと私は気づいていた。彼女は誰かを守るように、あるいは自分の不安を押し込めるために笑っているのかもしれない。


「みか、今日、部室で少し話そう。先生もいない時間に」

かえでがそんなことを言ったのは、放課後のチャイムが鳴った直後だった。彼女の声には、いつものはつらつとした響きが少しだけ弱っていた。私はうなずき、二人で部室へ向かった。


部室に入ると、夕陽が床に斜めに伸びていた。窓枠の影がすじを作り、落ち着かない光と影がボールやベンチの間を通り抜ける。あの朝、体育館で見た光景がまた胸に巻き付く。かえでは先にロッカーの蓋を開け、無言で中を確認した。そこは先輩の物が入っていた場所だが、今は整理されていて空っぽに見えた。


「警察が、ロッカーの中を調べてたって」かえでは小さな声で言った。

「うん、昨日の放課後、先生が言ってた」私は答え、それから自分のバッグから小さな紙片を取り出した。数日前に廊下の棚の隅で拾ったものだ。指先にうっすら血のように見える汚れがついていたが、よく見るとインクのにじみのようでもあった。紙には一文字だけ、薄く『西』らしき形が見えた。


かえではその紙を手に取り、丁寧に広げた。

「……あかり先輩が最後に何か書こうとしてたって、先生が言ってたね」

「うん。でも、警察はまだ詳しくは言ってくれない。あの紙が本当に関係あるかどうかも分からないって」

二人で並んで紙を見つめると、いくつかの可能性が浮かんでは消えた。『西』は『西ヶ丘高校』の“西”かもしれない。あるいは人の名前の一部かもしれない。あるいは、文字ではなく、破れ方がそう見えているだけかもしれない。


「みか、私たちで整理してみようよ。警察に頼れないことっていっぱいあるじゃない?」かえでが言う。彼女の瞳には真剣さがあった。疑いではない。好奇心でもない。むしろ、失った人への礼儀のようなものに見えた。私はその提案を受け入れた。誰に何と言われようと、私たちには先輩の最後の声を無視できない気がしたのだ。


まず、私たちはあの日の体育館の配置を思い出す作業から始めた。床の血の広がり方、先輩の体の向き、落ちていた小物——。かえでは図を書き、私は書かれた線の上に可能性を並べていった。手の位置、相対する扉の位置、照明のスイッチの位置。すべてを細かく思い出し、組み合わせる。


「先輩はドアの方を向いて倒れてたよね。ってことは、追いかけられてきたか、誰かを見ていたか」かえでは冷静に言った。彼女は顧問の先生から聞いたという情報も持ってきていて、血痕の位置や抵抗の跡についても専門家のように確認する。私はかえでの観察力に改めて頼もしさを感じた。


次に、私たちは警察が公開した資料の断片――先生たちが話す範囲で聞き取れたこと――を照合した。抵抗の跡、握られていた紙切れ、死亡推定時刻。それらを並べると、ある筋道が見えてきた。先輩が何かを守ろうとした痕跡があり、最期に何かを残そうとした形跡がある。紙は確かに重要かもしれない。ただし、そこに書かれていたものが“告発”なのか“名前”なのか、あるいは単なるメモなのかはまだ分からない。


かえでは紙片を白い布の上に置き、ルーペで縁をなぞるようにのぞいた。彼女の指先は汗で少し震えていたが、表情は冷静だ。私たちは互いの視線を交わし、言葉にしないままに同じ結論に達した――「焦らず、しかし確実に」。捜査は警察の仕事だが、私たちにできることは先輩が残したであろう“痕跡”を丁寧に繋ぐことだ。誰かを断定するのではなく、事実を一つずつ確かめること。


そのあと私たちは、先輩が最後に誰と会っていたか、どこで何をしていたかを部のメンバーに聞き取り始めた。聞くことは難しかった。みんなが口を閉ざす中、細い糸をつかむようにして、少しずつ小さな情報を拾っていく。先輩が放課後、図書室で一人で本を読んでいたという証言。廊下で誰かと小声で話していたという断片。備品の管理について誰かに相談していたという雑多な話。


「ひとつひとつがつながるかもしれない」かえではそう言って、集めたメモをノートに貼り付けた。彼女の手際はよく、ページは色分けされ、矢印が引かれていく。私はその様子を見ながら、自分の中に芽生える感情を認めないようにしていた。恐れ、疑念、そしてなにより後悔。あの日、私がもっと早く気づいていれば――。そんな思いが胸を締めつける。


夜、二人で机を挟んで調べを続けていると、かえではふと顔を上げて言った。

「みか、私、先輩とけっこう話してたんだよ。進路とか、バスケ以外のこと。だから、私も何かしてあげられたらって思ってる」

その言葉に、私は胸が熱くなった。彼女は責められるべき対象ではない。むしろ、私と同じように喪失を抱えている友だ。二人で同じ痛みを分かち合いながら、見えない手がかりを探している。


ある夜、ノートのページの端に、私たちは小さな一致を見つけた。先輩が最後に手にしていたとされる紙と、図書室の貸出票の破片の形状がどこか似ているということ。かえでは私にそれを示し、私は息をのんだ。破れ方、インクのにじみ方。すべてが決定的な証拠ではない。しかし、それは新しい視野だった。先輩は誰かに告げようとしていたのではなく、何かを記録しようとしていたのかもしれない。


「誰かを疑う前に、この断片が何を示しているのか確かめよう」かえでは穏やかに言った。私はうなずいた。彼女の手を取ると、それがほんの少しだけ温かかった。友情とは、こういう時に重さを持つのだと思った。互いの存在が、どれほど心の支えになっているか。


二人で過ごす時間は、やがてただの捜査を越えた。過去の思い出を語り合い、先輩が好きだった曲や試合のことを思い出し、笑いがこぼれる瞬間もあった。そうしているうちに、かえでの「守る」という言葉が、脅しのような響きを失っていった。代わりに、それは優しさの宣言となり、私たちの間に確かな絆を築いた。


最後に、私たちは二人で体育館の位置を実際に歩いてみた。夕方の薄暗がりの中、足音は消え、空気は静かに落ち着いていた。床にひょっとしたらまだ見えない痕跡があるかもしれないと信じて、私は膝をつき、丁寧に床のきしみや小さな欠けを確かめた。かえでは懐中電灯を照らし、先輩の最後の足取りを想像した。


その夜、家に帰る道すがら、かえではぽつりと言った。

「ねえ、みか。私たち、ちゃんと先輩の声に耳を傾けられてるかな」

私は答えを探した。街灯の下、二人の影が長く伸びる。風が少し冷たくて、私の掌がかえでの小さな手を離したくないと思わせた。

「うん。一緒なら、きっと」私はそう言った。確信ではなかったが、その言葉が二人の間に灯をともした。


けれども、それでも胸の奥には小さな不安が残っていた。紙片の『西』の文字は、まだ説明がつかないままだった。私たちが引き出した線が、本当に先輩の最後の真意に触れているのかどうかは、まだ分からない。真実は静かに姿を潜め、私たちの手の届かないところで笑っているように思えた。


二人で歩く帰り道、かえではふと立ち止まり、背後の校舎を振り返った。窓には、ほんの少しだけ光が残っていた。彼女の横顔は夕陽に溶けるように赤く染まり、まるで先輩がそこにいるかのようだった。かえでは無言で手を差し出し、私はそれを取った。冷たさの中にある温度を確かめるように、私たちは少しだけ寄り添った。


前作のランクインありがとうございます。

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