058 追跡
アリアがいない。アンナのその言葉に動揺するヒリュウの鱗亭の者たち。
応援も頼んですぐにみんなで探そう、と話していると、店の窓を割って何かが投げ込まれた。
こんな窮状にふざけた真似を、と怒ったルキウスは、ステラが止めるのも聞かずに飛び出した――
(おかしい……)
ルキウスが店を飛び出したとき、ちょうど男が路地裏に入る角を曲がったのが見えた。
この距離ならすぐだ、ルキウスはそう思ってリュウオンシを使って加速した。
だが、追いつけない。
リュウオンシを発動させるとルキウスは、概ね人の五倍の速さで動ける。なのに追いつけない。
逃げる男は路地裏をよく知っているようで、迷わずに走り抜けていく。だが、ルキウスは下町の路地裏には不慣れで、先読みができない。
入り組んだ路地を選んで進み、次々と角を曲がる男。曲がるときにはどうしてもスピードを落とさなければならない。それを計算しているようで、明らかに直線を走るのを避けている。
それでなくても路地裏は狭くて障害物が多く、走りにくい。おまけに通行人や浮浪者、犬や猫などもウロウロしていて邪魔だ。
確かに、ルキウスに不利な条件が揃ってはいる。だが、それでもおかしい……なぜだ?
(あいつ、もしかして僕と同じリュウオンシか?)
もう、そうとしか考えられなかった。しかし、仮にリュウオンシを使っていたとしても男はルキウスよりは遅いようだ。
なので、少し直線が続くと一気に距離が縮まる。だが、男は障害物などを上手く利用し、近寄らせない。
そういうもどかしい追跡劇にイライラを募らせるルキウス。そんなときに男がまた路地を曲がった。
すると、正面に壁――
(よし、行き止まりだ)
ルキウスは、男が止まると判断して一気にスピードを上げた。
(捕まえた!)
と、思った。だが――男が消えた……
「へっへっへ、ざまぁねぇな」
上から声が降ってきた。ルキウスが声の方に顔を向けると、男が壁の上からルキウスを見下ろしている。
「チロ⁉」
ガラスを割って何かを投げ込み、逃げていたのはアグリコラのチロだった。
「先行くぜ」
そう言ってチロは、壁の反対側に飛び降りた。
「待て!」
許せない! こんなときにこの前のプグナの嫌がらせか! そう考えたルキウスはチロの後を追って壁を越える。
いい意味でお坊ちゃん育ちのルキウスは、性格が穏やかで、自分のことならば何を言われても大概は笑ってやり過ごせる。
たが、身内の話となれば別だ。途端に激しやすくなる。今がそうだ。
みんながアリアのことを心配し、一刻も早く探さねば、と焦っているときに私怨によるくだらない嫌がらせ。ふざけるな! とキレたのだ。
しかし、ルキウスがキレたのはそれだけが理由ではなかった。ルキウスは、速さに絶対の自信を持っている。だが、チロのリュウオンシは〈弾く〉だ。正体がわからなかったときは自分と同じリュウオンシかと思っていたが、チロならば違う。なのに追いつけない。それは、ルキウスの矜持を大いに傷つけた。
完全に頭に血が上ったルキウスは、夢中でチロを追いかける。
チロに続いてルキウスが角を曲がると壁の切れ目が見えた。恐らく先は普通の通りだ。
チロがスピードを上げた。通りに出ると不利だと考えているのだろう。今のうちに差をかせぐつもりだろうが、路地さえぬければこっちのものだ。
ルキウスの心に余裕が生まれた。
(終わりだチロ! もう逃さない!)
チロが路地を抜けた。
(よし!)
ルキウスの口元に笑みが浮かんだ――が、それが固まった。
チロが飛んだのだ。
高く――ふわりと――
チロは空中で、体をくるりと回してルキウスと正対する。そして、両腕をルキウスに向けて伸ばすと、弾いた!
チロが弾いた鉄球が、まだ路地を抜けていないルキウスに降りかかる。
だが、リュウオンシを使っているルキウスには鉄球が全て見えていた。その数は十二発。
ルキウスのリュウオンシ〈速さ〉は、走る速さを上げるだけではない。体を使った全ての動きを上昇させる。
その『体の動き』には、神経情報の伝達、心拍数、血流、呼吸などといった生体内の活動や、急激な活動の上昇に耐えられるだけの筋肉や骨格などの強化も含まれる。
今のルキウスは、動体視力も反射神経も常人の五倍だ。弾かれた鉄球を見極め、避けるなど造作もない。
ただし、条件さえ悪くなければ……だ。
ルキウスはまだ路地にいる。路地の幅は狭い。両腕を少し広げれば壁に当たる。
鉄球の照準は腰から上に集中している。しかも、ルキウスの体の幅に合わせて散らされている。
(……また侮った)
チロにしてやられるのはプグナのときに続いて二度目だ。
鉄球はうまい具合に散らされており、手で全てを払いのけるのは無理だ。
道具を使って庇うか? 店の制服を着ているので剣どころか何も身につけていない。
避けるには上か下しかないが、上から降ってくる鉄球よりも高く跳ぶのは難しい。
(くそっ!)
ルキウスは減速をして身をかがめながら走り抜け、全ての鉄球をやり過ごした。
そして、その姿勢のままでルキウスは路地を抜けた。
(はっ⁉)急停止。
「くっそっおぉ!」
思いっきり地面を蹴飛ばすルキウス。
ルキウスの目の前にあるのは川だ。幅はおよそ八トゥカ(9.6メートル)。鉄球を避けて減速していなければ余裕で飛び越えられる幅だ。
川の向こうでは、ルキウスが鉄球を避けている間に川を飛び越えたチロが、
「粋がってっからだよ、このボンボンが」とルキウスを嘲り笑っていた。
「待ってろ! 今そっちに行ってやる! ちゃんと勝負しろ!」と怒鳴るルキウス。
「バーカ、誰が待つか」
チロは、「じゃあなー」と言って笑いながら駆け出し、あっという間に下町の雑踏に消えていった。




