第26話 同盟国と公家達の『新政討伐』
永禄10(1566)年5月中旬 伊勢国霧山城
北畠具房
隠居した父上から家督を継いで3年、家臣達からは、何かと武勇のある父上と比べられ難儀をしているが、なんとか努めている。
だが、去年の5月には将軍家の二条御所が三好家の襲撃を受け、将軍足利義輝様は無事逃げ仰せたようだが、行方知れずだ。
そしてそれだけでは終わらなかった。
暮れも押し迫ってから、なんと帝が都から何処かへお隠れになられたのだ。
さらには、今月端午の節句の日に、帝の詔が発せられ、民を無下にする大名武家を討伐し、新政を行うとされたのだ。
我が北畠家は大名ではあるが公家である。
帝に従うのが当然の家柄なのである。
しかし、こればかりは如何に当主とはいえ俺の一存では決められぬ。急ぎ親族、重臣を呼び集めた。
集まったのは、隠居の父具教、弟の養子で長野家を継いだ長野具藤、叔父の木造具政、一門衆で奉行の藤方慶由、波瀬具祐、片穂久長、星合直藤らである。
「皆を集めたのは他でもない、先の帝の詔の件よ。我が北畠家がどうすべきか、皆の具申を得たい。」
「されば申し上げます。都を去った公家衆は三河、駿河に下向しておりまする。
三河松平家と、駿河相模をも領有した伊豆風間家は盟友であり、越後の上杉家も敵対を控えておりまする。
このことから察するに、帝を匿われたのは伊豆の風間家かと推察致しまする。」
「某も、波瀬殿の言う通りかと。そしてそれが誠ならば、帝のなさろうとしていることも決して夢幻にあらずと思いまする。」
「伊豆風間家は、領地はもちろん同盟する三河や遠江、どうやら越後でも普請で民に銭をもたらし、農地を改良して石高を上げ、新たな作物や物作りを広めて、堤防を築き野分による河川の氾濫を防ぎ、道や橋を整備して支配地の関も廃して、多くの商人がその豊かさにあやかろうと集まっているそうにございます。駿河に赴いた商人が驚愕しておりました。」
「その治世が帝のお求めなられていることであれば、お助けするに異存などないな。」
「殿、そればかりではなく、我が北畠家を朝敵としてはなりませぬ。家臣がどうなろうと、帝のご意思に従うべきにございます。」
「反対の意見はないのか。」
「 · · · · · 。」
「父上、父上はどう思われまするか。」
「 · · 公家としての北畠家を思う皆の気持ち、嬉しく思うぞ。
我らが存在する意味は帝をお護りすることである。その為に滅びることを恐れてはならぬ。」
「父上、畏まりましてございます。
よし、慶由。三河へ使者に立てっ、公家衆から帝へ、我が北畠家は如何なるご下命も、お受けすると伝えて貰うのだ。」
こうして、大名の中では唯一、伊勢の北畠家が帝の詔に従ったのである。
それだけでなく、分家の尾張5家と陸奥田村郡の田村 清顕がこれに呼応した。
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永禄10(1566)年5月下旬 尾張国犬山城
松平家康
美濃の稲葉山城を攻略中の織田信長から、家臣の丹羽長秀が使者として参った後、織田軍は。加治田城に籠もった。
加治田城の城主佐藤忠能は、永禄8年の堂洞合戦において、幼い娘八重緑を味方の証として岸方の養女(人質)に差し出し、織田信長に内応して見殺しにした。
小太郎殿は、このことをわざわざ儂に報せた上で、佐藤忠能を討つ際は、八重緑姫の仇と口上をされるようにと申しつかった。
小太郎殿は、家のためとか自分達のために抗うことのできない女子供を犠牲にする者を心底軽蔑して、許さないお方だ。
か弱き者を守れぬなら、生きる資格なしと言われておる。そのような者に従った信念なき者達も戦乱のごみであり、決して生かして置くなと申された。織田に従った美濃の土豪どもは根切り確定だな。
儂の下へは、いち早く北畠の分家5家が本家と共に臣従を申し出てきたが、尾張を制した際に日和見をしおった土豪達も臣従を申し出て来た。
だが臣従の条件が〘領地を召し上げ、当主一族の男子と重臣達の切腹〙と聞くと『それでは臣従の意味がない』と反発しておる。
『味方しなかった者は敵である。敵に与えられるのは降伏か根切りしかない。戦の用意をしておれ。』と追い返しておる。
これも新政の踏み絵の一つなのだ。民を犠牲にしてまで戦わぬと、臣従の条件を受け入れるか、背後で織田家に加勢して生き残ろうとするか。彼らの性根を測るために、半蔵達伊賀者が見張っておるのだ。
10日程後、この間に覚悟を決めた土豪の者達が12家臣従を申し出て来た。残る21家は、連絡を取り合っているという。
土豪達の家臣郎党は、各々10人程度しかおらぬ。後は農民兵だ。
さて、不届き者達の討伐と致すか。
儂は各家に100名の兵を一斉に差し向けた。そして、兵には攻め入る前に領民を助けることなく、織田に組みして自分達が生き残ろうとしている土豪達の言いなりになるのかと問わせた。
その上で武器を捨て村へ帰れば、新政の民として帝が豊か暮らしに導くと呼び掛けた。
当然に農民達は、武器を捨て逃げ出した。
残ったのは、10数人の武士と郎党である。
戦いになどならぬ、ただの打ち首であった。
儂は自分達の命と引き換えに、領民の命を守ろうと臣従してきた者達に言うた。
「その方らは、領民のことを守ることを選んで武士の役目を果した。よって、帝の新政に適う者達である。今後は新政の代官として、民のために尽力せよ。」
「ええっ、切腹をしなくてよろしいのでっ。
我らもう、覚悟の上で家族との別れを済ませて参ったのでござるが。」
「その覚悟がその方らの、命を助けたのよ。
向後は儂と同じく誰恥じることのない帝の臣下ぞ。心して努めよ。」
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永禄10(1566)年7月中旬 尾張国犬山城
松平家康
美濃の加治田城に籠もっていた織田信長は痺れを切らして稲葉山城攻略を再開した。
それと言うのも、美濃攻略に連れ従えた兵の大半は尾張の領民兵である。いつまでも自分達の家族や村を、放って置く訳には行かないと、脱走する者達が続出していたのだ。
このままでいれば、織田軍が瓦解してしまうと焦り、美濃を手中に収めてしまうことにしたのだ。
織田軍は稲葉山城を包囲し、3日3晩猛攻を続けて、ついには3日目の夜襲で、裏道の山道から奇襲で攻め入った木下藤吉郎の軍勢によって城門が破られ、織田軍の城内侵入を許し、明け方には織田の軍旗が翻った。
だがそれは一時のことに過ぎなかった。
稲葉山と尾根続きの瑞竜寺山頂から、松平軍の援軍とされた風魔砲兵隊の10門の砲撃が轟き、稲葉山城と城内にいた織田軍を壊滅にしたのである。
同じ頃、夜陰に乗じて織田信長の本陣背後に迫った三河軍からも、風魔砲兵隊の砲撃が開始され、稲葉山城落城に沸いて、油断した織田軍は大混乱に陥っていた。
三河軍は1千丁の鉄砲隊で、混乱する織田軍を掃討しながら、勇猛な三河武士軍団が暴れ回り、ついには織田本陣に突入し、初陣の本田忠勝が信長を討ち取ったのである。
こうして、尾張に続き美濃も松平家康の手によって、帝の新政の地となったのである。
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永禄10(1566)年8月中旬 出羽国羽州三山
行空(九条 稙通)
戦乱の世の無情と民も我も貧困から救えぬ無力感から、世捨人となって10年の歳月が過ぎ去った。
仏への祈りと風流と言えば聞こえが良いが、貧しき暮らしの中に愉しみを見つけて細々と暮らしていた。
そして、そのまま生涯を終えるのだと観念していたところが、帝が世を変えるために、お立ちになった。
晴天の霹靂である。我が欲して止まなかった民のための治世に帝が立ち上がられた。
我もお役に立ちたい。その一心で東国へと身を投じ、ここ羽州三山へとやって来た。
羽州三山は、熊野などと並ぶ修験道の地であり、多くの修験者、信者を集めている。
伝えられるところによれば崇峻天皇の皇子、蜂子皇子が開山したと伝えられる。
崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。
そこで、3本足の霊烏の導きにより羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、月山、湯殿山を開いて三山の神を祀ったと、伝わる。
修験者達は、帝の祖神を崇める朝廷の崇拝者達だ。既存の世俗にまみれた寺社と違い、帝の民を思う気持ちを、必ずや理解して力を貸してくれるはずだ。
そう思い、この地を訪れたのだ。
羽州三山を取り仕切る執行別当は、天啓殿と言われた。
「まさか、前関白様がこのような地までお越しになるとは、只々驚きを通り越しておりまする。」
「天啓殿、帝が詔に述べられたごとく、民を救うべく立ち上がられたのでおじゃる。
是非にも羽州三山のお力添えをいただきたく、この行空、最後のご奉公と思い参ったのですじゃ。」
「はあ、しかし。行空様、東国は貧しき土地なのでございます。毎年のように冷夏で作物が満足に採れず、民は困窮の中で暮らしておりまする。
我ら羽州のお山で修行する者は、そんな民達を救う力無く、ひたすら神仏に祈るばかりにございます。
たとえ我らが武家と争うても、敵対する武家には兵としての民達がおり、彼らに悲惨な戦させることになりまする。」
「天啓殿、ここへ来るまでの道中、関東の地を経て参ったのですが、我ら公家と民が立ち上がり、帝の御旗の下に武家を駆逐しておりましたぞ。
この行空が求めるのは、羽州三山が武家と戦することではありませぬ。民達が立ち上がり武家と戦う時、弱き民の女子供を匿って欲しいのでごじゃります。
さすれば、民達も心置きなく、戦えるのでおじゃる。」
「 · · それならば、力になれましょう。
羽州三山の連なる者らに、そのように伝えましょう。」
旅の道中、関東で会った公家の者らが東国へ来ており、皆各々に村々を回って、帝の詔を説いておる。そして寺社の合力も。
そして、蜂起を決めた村々には、旅の商人や行商の者らによって、密かに関東から槍や弓などの武器、食糧が運び込まれている。
また、公家衆には帝の差配が伝えられて来ており、かくもあらぬほどの見事な手配りが行き渡っている。
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永禄10(1566)年9月上旬 陸奥国田村郡
行空(九条 稙通)
東国での民の蜂起は、ここ陸奥国田村郡の田村隆顕の領地から始めることとなった。
田村郡及び周辺から蜂起した農民は700名余。その軍勢が田村隆顕の城を包囲し、帝の詔に従うように降伏を求めたのである。
城には、農民兵の姿がなく、武家郎党が80人ばかりで、田村隆顕は戦わずして降伏開城した。
そして、その噂は瞬く間に東国各地へと広まり、農民達を勇気づけ大名土豪達を恐怖に落し入れた。
もちろん、これは小太郎の策略である。
北畠家とその分家が臣従を申し出てから、東国の分家である田村家を周囲大名から救出することと、土豪達に降伏を糺す意味で田村家が演じた演出劇であった。
そして、城に入った儂は何故か上座に座らせられておる。
「田村殿、儂がここに座るのは居心地が悪いのじゃが。」
「はははっ、この田村隆顕は敗軍の将なれば本来城中を勝手に歩くことさえ罷りなりませぬ。しかして、帝の遣いとしてご身分の最上なるは行空様ゆえ、そこにお座りいただかねばなりませぬ。」
「儂はここにじっとしてはおれぬ。地下の公家達が帝のために走り回っておると言うに、儂が何もせずには済まぬのでおじゃる。」
「そう焦られることはございませぬ。行空様は羽州三山の支援を取り付けてくだされたではありませぬか。公家衆も各地の寺社の支援を取り付けて来ております。
しばらくは東国各地の民達の蜂起を見守ることにございます。
時が来れば、上杉様や風間様が軍勢を差し向けることになりましょう。
我らの出番はそれからにございます。」
東国各地で蜂起した民達は、まず農民兵の抜けた地方の小豪族を降伏させ、或いは討ち滅ぼし、次第に勢力を拡大して残るは、大名家ばかりとなって行った。




