第22話 畿内一揆模様『虎の威』
永禄10(1566)年5月中旬 京都三条今川館
今川氏真
今月5日の端午の節句の日に、帝の詔が発せられた。
某には事前に知らされており、都の各所に帝の詔を知らせる高札を立てるように、申し仕ってその日は朝から都中を走り回った。
そして、風魔の者達からその夜は都のあちこちで町衆の集まりがあったと聞いた。
その頃、堺湊沖には3隻のキャラック船が現れ、湊の船の出入りを禁じ堺湊を封鎖していた。その不気味さに怯えた会合衆の使者に次のような通告を伝えた。
『帝の詔に従い、堺の町民も蜂起せよ。大名に組みするなら、堺の町など不要。
帝に従うならば、堺湊にある全ての鉄砲と火薬を献上せよ。』
時を同じくして、摂津大阪湾にはガレオン船3隻を旗艦とするキャラック船20隻の大艦隊が現れていた。
そして、次々と兵員と物資を荷揚げし、その数は2,000名にもおよびそれは、船団の往復とともに増大を続けていた。
やがてその軍勢は、石山本願寺を包囲して布陣。朝廷の使者が本願寺に遣わされた。
『御仏の教えに背き、一向一揆を起こし民を殺めた僧侶、坊官を破門せよ。従わぬは門主の資格を剥奪し、朝敵となす。』
慌てた本願寺顕如は、妻の実家三条家に取りなしを頼もうとするが、都には三条家の者などおらず、また各地の門徒の石山本願寺を護るように命じたことが露見したために、風間家の駿河軍団の砲兵隊50門の砲撃を受け、石山本願寺は灰燼に帰した。
本願寺顕如達の生死は、不明である。
石山本願寺を殲滅した俺は、浄土真宗本願寺派の拠点地域、越中や長島に噂を流した。
『仏様の殺生しちゃならねぇという教えに背いた本願寺顕如上人は、仏罰を下されて滅んだそうだ。一向衆の者達は改宗して悔い改めねぇと、仏罰が当たるだ。』
そんな噂を、一向衆の坊主どもに先駆けて流した。先手必勝だ。
奴らは報復したくても、何処へ報復したらいいかもわからないだろう。
この当時、京の都を支配していたのは、三好三人衆であり、その一人三好長逸は、堺に豪華で立派な邸宅を有していた。
水軍が堺湊を封鎖し、摂津の石山本願寺を壊滅させたことで、三好長逸は阿波に援軍を要請した。阿波の篠原長房は、1万の軍勢を送り込むべく森 甚五兵衛率いる阿波水軍を動員してきたが、堺湊に上陸する前に、風間水軍の迎撃に会い、完膚なきまでに叩きのめされ海の藻屑と消えた。三好三人衆の軍勢を纏めて葬れたことは行幸だった。
堺に籠もる三好長逸は、堺を人質に取ったつもりでいたようだが、俺は堺の会合衆や町衆に堺から3日以内の退去を命じ、期日後に砲撃殲滅すると通告した。
そして期日後に砲撃を開始した。砲撃を開始すると三好勢は即座に堺を退去して、大和方面へ逃亡した。
三好勢の退去後に堺へ戻ろうとする堺の衆に、当初の通告どおり、鉄砲火薬の提出がなければ、堺の町は灰燼になすので戻るなと通告。堺の会合衆は仕方なく鉄砲と火薬を水軍に引き渡した。
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永禄10(1566)年5月下旬 京都三条今川館
今川氏真
帝の詔が発せられて以来、京の都は騒がしくなっていた。
永禄の変で将軍が暗殺未遂に会われ、姿を隠されて以後も、京の都の治政は幕府政所の伊勢家が担っていたが、将軍家が征夷大将軍を返上され、足利幕府は無くなったと言うのだから、いったい都を誰が治めているのだという話である。
ましてや、帝も公家も都を逃げ出してしまっている。そして、情勢は刻々と変わっているのだ。
勢力で勝っていた三好三人衆から、当主の三好義継が離反して、松永久秀の下へ身柄を移したと思えば、帝の詔ともに帝の新政軍を名乗る軍勢が、あっという間に石山本願寺を滅ぼし、堺を攻め落としてしまったのだ。
ましてや、三好三人衆の援軍を出した阿波の軍勢も来てはいない。
松永久秀や三好義継も、帝や幕府のいない京には価値がないのか、放置している。
京の都は、遷都以来初めての、まさに無風地帯となっているのだ。
それでもやっぱり、京の町衆の主は帝なのであろう。下京を歩くと、たくましい町衆の声を耳にする。
「帝はんが戻られるまで、わてらで都を守り抜かなあかん。応仁の乱のときかて、耐えたさかい、今度も耐えて見せたるわ。」
「環濠を少し直さなあかんな。塀が壊れとるところがあるさかい。」
「御新造はん、米はぎょうさんありますさかい心配入りまへんが、味噌と塩が心配でっせ。買うておきなはれや。」
「八百八はん、おおきに。すぐ買うておきますわ。」
6月に入り、松永の軍勢が京の都に侵入して来た。様子見だろう、わずか500人くらいの軍勢だ。都の下京も上京も環壕を閉ざして軍勢の侵入を許さぬ構えだ。
「我らは松永家の軍勢だ。京の町を見聞致す、開門致せ。」
「なんの権限があって来はりましたかな。
帝はんが、大名など民の敵として討てと言うておりますがな。」
「ええい、ほざくなっ。面倒な打ち破れっ。」
「掛かれっ、掛かれっ。」
「くそったれ、これでもくらいな。」
「皆の衆っ、礫を投げなはれっ。」
「わぁー、わぁー。それ、それっ。」
堀に飛び込み門に殺到する松永勢に、町衆は投石や熱湯、肥溜めの糞尿を掛けて応戦する。門の内側では槍を構えた者達が待機している。
そんな喧騒の最中、遠くから馬の嘶きや馬蹄の音が聞こえたかと思うと、あっという間に騎馬の軍団が姿を現し、松永の軍勢に馬上から鉄砲を斉射して蹂躙した。
「我らは、風魔。錦の御旗を掲げる軍団だ。朝敵となる軍勢は、我らが相手を致す。掛かって参れっ。」
「「わぁー、帝はんど、帝はんの軍勢が来てくれはりましたで。皆で掛かれやっ。」」
門を開けて出て来た町衆は、環壕の水堀に固まる松永勢を槍で討ち取って行く。
逃げようとする松永勢も、鉄砲騎馬隊に包囲され、降伏するしかなかった。
騎馬隊は、その後も続々と現れる。
また、何台もの馬車の行列が続き、内裏へと消えて行った。
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永禄10(1566)年6月上旬 京都ニ条御所
風間小太郎
摂津大阪湾から上陸した風間家の軍団は、鉄砲騎馬隊が2千、足軽鉄砲隊及び砲兵隊が2,200、槍隊が1千の軍勢だった。
それに、逸る公家が30名余ついて来た。
京の都へ入ると、騎馬隊の斥候から都を襲撃している軍勢があるとの報せを受け、騎馬隊に先行して駆逐するように命じた。
俺が着いた時には、既に制圧した後だったが、町衆が戦ったらしく、ちょうど援軍になったようだ。俺は軍勢の一部を公家の入った内裏に配置し、本隊はニ条御所後に入れた。
「関白殿下、内裏の様子はどうでしたか。」
「幸い賊に荒されとらんで、ほっとしたわい。内裏に留まった者達も無事じゃ。」
「それは良かったですね。」
実は帝達を連れ去り、公卿達を三河などに下向させ、ごく身分の低い公家だけが内裏の保全に残った際に、三条屋敷の者達に命じて内裏塀を乗り越えると、人感照明やサイレンに変わる虎の咆哮、さらには狩猟網の罠などを設置し、管理させていたのだ。
罠で捕まった者も、10数人いたそうだ。
「三条館の者達が世話をしてくれたようじゃのぅ。忝ないでおじゃる。」
「後で褒めてやってください。喜びます。」
「さて、この後はどうするのじゃ。京の周辺には、松永も筒井もおじゃるぞ。」
「二人とも倒すしかないですね。まあ、人気取り合戦ですね。」
「はあ、どういうことじゃ、それは。」
「松永も筒井も、帝ほど農民に人気があるか試されると言うことですよ。
関白殿下、まさかですけど、帝じゃなく公家衆が農民達に嫌われてるってことはないでしょうね。その場合、負けるかも知れませんよ。」
「 · · · · 。」
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永禄10(1566)年6月中旬 大和国筒井城下
風間小太郎
筒井順慶の居城である筒井城は大和国筒井にある平城で付近には左保川が流れている。
種まきの終わった水田には、まだ背丈の短い稲が不揃いに育っている。
この領地一帯には帝の詔の以後、面白い噂が流れていた。
「おう、聞いたかや。なんでも帝の軍勢にゃあ、南蛮から連れてきた虎が何十頭もいるだと言うことだ。帝はその虎とご領主の兵を戦わせるだとよ。
危ねぇから、戦にでちゃなんねぇぞ。
なにせ頭から喰われて、お陀仏だそうだ。」
「ええっ、嘘だろ、虎なんて見たことねぇぞ。そんなもんに喰われちまったら、成仏できねぇんじゃねぇか。」
数日後の夜から、風の音に乗って聞いたことのない獣の恐ろしい咆哮や呻き声を聞いた者達が現れ、それも噂になった。
そしてついに犠牲者が出た。城に出入りしていたある村の長が夜道で獣に襲われ、命を落したのだ。
その噂はたちまち領内に広まり、人々は恐怖に慄いたが、その襲われた村長の者達は、さほど騒がなかった。何故なら、その村長は領主に媚へつらい村人には尊大で、以前から評判の悪い男だったからだ。村人達はいいきみだと思ったのかも知れない。
実はこれを仕掛けたのは、靖国配下の風魔の者だ。村長を襲った獣は狼の群れだった。
罠で捕らえて檻に入れた8頭の狼を運んで来ていて、吹き矢の麻酔で眠らせた村長を腹の空かせた狼達の檻の中に放置。村長は意識のないまま狼に喰い殺されたのだ。
そして散乱した死体は道端に放置された。
帝の新政が行われている三河や駿河の評判は、商人や風魔の忍び達によって十分に広まっていた。それに加えて、恐怖の猛獣の噂である。
領民達には、もはや徴兵に応じる気は無くなっていた。
そんな中、錦の御旗を掲げた帝の軍勢が現れたのである。整然と隊列を組み、領民には見向きもせずに進軍するその姿は、まさに、神軍に見えたことだろう。
昔から帝を信奉していた村々から、何人もの若者が先導役を買って出てくれた。俺は彼らに十分な装備を与えて、先導を任せた。
帝の軍勢の侵攻の報せに、農民兵の動員が上手く行かず、籠城した筒井城はわずか800人しかいないあり様だった。
整然と着陣した我が軍は、大手門を砲撃で跡形も無く破壊すると、20名の火炎を撒き散らす兵を先頭に城内に突入した。
この先頭集団は、背中に上質石油を入れた銅製タンクを背負い、圧搾空気により放射口から5mにも及ぶ火炎を放射しながら、城内へ粛々と侵入したのである。
筒井順慶は、あらゆる手立てを使って領主の地位を守ろうとしていた。南都の興福寺や寺社勢力の助成を画策もしたが、その寺社には新政の戦いに自ら身を投じて、意気上がる公家衆が居座り、これを許さなかった。
筒井順慶の最後は、近習の全てを鉄砲で倒され、たった一人になったところで、新政にいち早く従い、この戦の先導を買って出た村々の農民達27名の槍によって串刺しになって終わった。武功は彼らのものである。
後日、彼らは『筒井城の27人』と称され大和の新たな村長となって新政に寄与した。
この戦の影響は、瞬く間に周囲に轟いた。
大和の多聞山城の松永久秀と三好義継は、蜂起した領民に城を包囲され、籠城して兵糧攻めの憂き目にあっていた。籠城は孤立無援では意味がない。
結局、蜂起した領民達に降伏したが、女子供を除き武将以上の者達は、全員切腹とされ命を失った。
同様に、摂津の荒木村重、播磨の別所長治
や和泉、山城の土豪達も領民の蜂起により、滅ぼされた。
これにより、畿内はほぼ制定され、伊豆、駿河、相模からの物流により、新政が開始された。風間家の代官の下には下級の公家達が文官として配され、俺達が目ざす新政を学んでいる。




