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月と太陽(2)

 一橋椿は、毎朝一番に教室に到着する。朝のホームルームが始まるまでは授業の予習をしたり、読書をしたりして過ごすことが多い。今日も椿は本を読んでいた。十九世紀に活躍したフランス作家の短編集だ。


「……」


 しばらく本を読み続けていた椿だったが、やがて集中できなくなり、本を閉じて深く溜息をついた。


「……断ればよかった……」


 椿は恐ろしく小さな声で呟いた。昨日、後ろの席の藤原柚子とその愉快な仲間たちと週末に遊園地に行く約束をしてしまったことを、深く後悔しているのだ。


 柚子は、正直に言うとあまり好きではないタイプの女の子だった。もちろん悪い子ではないということは分かっているが、こういう問題は理屈ではないのだ。他人と関わること自体が得意ではない椿にとっては特に苦手なタイプだった。どこにいても目立つ、自分の魅力をしっかりと理解しているみんなの人気者。彼女のような人は、親密ではない人と遊びに出かけることが自分のような人間にとっていかに苦痛であるかを知らない。


 教室にクラスメイトたちが増えてきた。椿は小さく溜息をついてから姿勢を戻し、本を開き直して続きを読み始めた。




 一時限目の英語の授業では、前回の授業で行われたテストが返却された。定期テストほど大がかりではなく、小テストというほど小規模のものでもない。内容は、主に中学英語の復習だ。


 出席番号順に答案用紙が返却されていく。教室の中はざわついていた。結構よかった、もう忘れたわ、などという声が聞こえてくる。椿は自分の名前が呼ばれる少し前からすぐに立ち上がれるように準備をしていた。「一橋さん」と名を呼ばれ、返事をして答案用紙を受け取りに向かう。テストを手渡される瞬間、英語教師はニッコリと微笑んでいた。点数を確認する。百点。満足だ。椿はホッとして自分の席へと戻った。


 次に呼ばれた柚子が余裕の面持ちで戻ってきた。隠しもしないので、点数が見えてしまった。九十六点。予想外に高い点数に、椿は思わず目を見開いていた。


「ん」


 椿の視線に気付いたらしい柚子が、席に着く直前に小さく声を上げた。椿は慌てて視線を逸らそうとしたが、間に合わなかった。


「一橋さんのえっちー」


 柚子は答案用紙で口元を隠しながらふざけた口調で言った。


「なっ……」


 椿が顔を赤くする。柚子はカラカラと笑った。


「冗談だよ! ごめんね気にしないで!」


 柚子は軽い口調でそう言うと、自分の答案用紙に向き合って答え合わせをし始めた。




 体育の授業内容はテニスだった。ペアを組んで、最低でもラリーを二十回続けられるように練習しなさいと教師が指示を出す。椿が身長順に二列で並んだ時に隣になった子に声をかけるべきか迷っているうちに、その女の子は別の女の子とペアを組んでしまった。どうしようかとオロオロしていると、誰かに話しかけられた。


「一橋さーん。三人でやろうよ」


 沙也香を連れた柚子だ。柚子は屈託のない笑顔を浮かべている。


「あ……ええ」


 椿は戸惑ったが、素直に頷いた。三人で空いているテニスコートまで歩いていると、「先に二人でやっていいよー」と沙也香が言った。


「じゃあお言葉に甘えて」


 柚子はそう言うと、ネットの向こう側まで小走りで向かった。


「よし! 一橋さん、いつでもいいよ!」


 やる気満々の柚子が元気に声を上げる。


「あ……あの、私……」


 椿は顔を赤らめながら口を開いた。


「サーブができないから……先にやってもらってもいいかしら……!」


 柚子は笑うことなく「りょうかーい!」と声を上げると、沙也香からテニスボールを受け取った。


「行くよー」


 柚子がそう言ってサーブを打った。可愛らしい見た目に反して結構力が強いのか、彼女のサーブはかなり勢いがよく、凄まじいスピードで近づいてきたボールに椿は思わず叫び声を上げた。


「きゃあっ」

「ごめん! ちょっと力入れすぎた! ごめんね!」


 柚子が大慌てで謝りながらネット近くまでやってくる。転がるボールを拾った沙也香が、柚子にボールを軽く投げ渡した。


「さすが柚子!」

「ごめんね! ごめんね! 力加減ミスった!」


 なぜか本気で賞賛の声を上げる沙也香に対し、柚子は大量に汗をかきながらひたすら謝罪してくる。


「柚子すっご。プロみたーい」

「さすが握力測定器壊しただけあるよね」


 ちょうど隣のコースでラリーが途切れたところだった女の子たちが声を上げた。


「ねー、それ私が壊したんじゃないから。語り継がないでよ!」


 柚子は笑いながら返した。四人は楽しそうに笑っている。椿が輪に入れずにいると、柚子と目が合った。


「あ、ごめんね。もう一回やろっか」


 柚子がそう言って、再びネットから距離を取った。




 帰りのホームルーム前は清掃の時間だ。もう少しでチャイムが鳴りそうなのに、教室の掃除はまだ終わりそうにない。窓際では勝元が二人の女子生徒と楽しげに会話している。椿は鼻から大きく息を吐くと、口を開いた。こういう時に嫌われ役を買って出るのも、委員長の役目だ。


「みんな、ちゃんと掃除しましょう!」


 椿が大声を上げると、クラスメイトたちは一瞬静かになった。それから、「はーい」と間抜けな返事をしてだらだらと掃除を再開する。しばらくして再び教室の中が騒がしくなり始めたところで、チャイムが鳴り響いた。


「……っ」


 もう少しどうにかならないかと思った椿が再び声を上げようとしたところで、後ろから歩いてきた女の子とすれ違った。柚子だ。彼女は教室以外の別のどこかの担当らしく、自分の掃除場所から戻ってきたところのようだった。


 柚子は真っ直ぐ勝元の元へ歩いていく。何をするのかと思えば、彼女はわざとらしい口調で勝元に声をかけた。


「ちょっと男子ーぃ、ちゃんと掃除してよー」


 柚子を見て、勝元が吹き出す。


「柚ちゃん、何キャラ?」

「私こう見えて真面目だから」


 柚子はそう言ってニヤッと笑うと、「いいからさっさと終わらせよ」と続けた。そして、椅子を乗せて教室の片方に寄せられた机を一台持ち上げる。


「一橋さんの声、廊下まで聞こえてたよ。ちゃんと聞こー。早く終わらせて早く帰ろ! 先生も来ちゃうよ」


 柚子の言葉に、勝元だけではなく、他のクラスメイトたちも納得して「そうだねー」と声を上げて早々と動き始めた。


 机を運んでいる柚子と目が合ってしまった。柚子は微笑んできた。


 彼女にはきっと、人助けをしている意識なんてないのだ。椿はそう思った。だって、知っている。そういう人を、私はもう一人知っている。


 あんな風になれたらいいなと思う。才能があって、誰からも愛される彼女が羨ましかった。好きになれないのは性格が合わないからではない。そんなことは分かりきっている。そもそも彼女の性格なんてほとんど知らない。ただ、彼女と一緒にいたらきっとどんどん自分のことを嫌いになっていくだろうと想像できるからだ。似たような経験はしたことがある。惨めな思いをすることになるくらいなら、始めから関わらない方がいい。彼女は自分とは違う、自分のような人間の気持ちなど理解することもできない人なのだと見下す方がずっと楽だ。


 椿は柚子から目を逸らすと、掃除に戻った。




「うーん……」


 暗闇の中で何かが蠢く。


「鎌鼬たちも狂骨も失敗するなんて、どういうことかしら?」


 それは人の形をしていた。女の子だ。


「一体どうなってるの? 姫君はやっぱり記憶を失ってしまわれてるのかしら。可哀想に……」


 物憂げにそう呟く少女は、大きな花の模様が目立つ黒地の可愛らしい着物を着ていた。頭の右上に高く結んだ髪にも、着物の柄と同じ赤い色をした大きな花の髪飾りがついている。


「こうなったら、力尽くでも連れていくべき? でも、嫌われたら嫌ね……」


 少女は顎に手を当てて考えこむような仕草をする。それから、いい案が思い浮かんだのか、少女はパッと顔を輝かせた。


「いいこと思いついた!」


 少女はそう言うと、歯を見せて笑った。


「あの同じ名前の娘に手伝ってもらいましょ!」

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