第57話 帰蝶の興味
「……うつけ、ね」
帰蝶はひとり、小さくそう呟いた。
誰に聞かせるでもない。
ただ、口にしてみたかっただけだ。
夕暮れの部屋は静かだった。障子の向こうでは庭の松が風に揺れ、葉擦れの音だけが細く続いている。運ばれてきた茶はまだ温かいが、帰蝶はそれに手をつけず、膝の上へ指を重ねたまま考えごとをしていた。
尾張へ来る前から、吉法師の噂はいくらでも耳に入っていた。
尾張のうつけ。
礼知らず。
家中を乱す変わり者。
城下をふらつき、家臣を困らせ、何を考えているか分からぬ若殿。
そういう話ばかりだった。
だから、もっと分かりやすい男を想像していた。
騒がしいだけの馬鹿か、妙な格好で虚勢を張るだけの子供か。
いずれにせよ、少し見れば底が知れる相手だろうと思っていたのだ。
だが、実際に会ってみると違った。
たしかに変だ。
礼は足りない。
言葉も真っ直ぐすぎる。
人を怒らせる言い方も平気でする。
だが、それでいて、ただの馬鹿ではない。
帰蝶は吉法師の顔を思い出す。
人の目を恐れない。
正確には、人の目に鈍いのではなく、見えているのに従わない。
そこが厄介だった。
家臣がどう思うか。
女中がどう噂するか。
自分がどう見られるか。
普通なら、誰しも少しはそこへ心を配る。
とくに、あれほど城中の視線を集めている若殿ならなおさらだ。
けれど吉法師は、見えているくせに、そこへ合わせない。
むしろ、その視線の向こうへあるものを先に見ようとする。
民。
町。
百姓。
戦の外側にある暮らし。
そういうものへ目を向けている。
「変だが、芯がある」
帰蝶は、ぽつりとそう言った。
侍女が少しだけ顔を上げたが、独り言だと分かるとすぐに目を伏せた。
帰蝶はさらに考える。
あの男は、城の中でだけ育った顔をしていない。
もちろん城の子だ。
だが、城の中だけで満足している目ではない。
外へ出る。
見に行く。
ぶつかる。
叩かれても、また行く。
その危うさを、周りが嫌がるのも分かる。
家中を預かる立場からすれば、あんな若殿は気が気ではないだろう。
礼を守らず、場を読まず、急に動く。
しかも、ただの気まぐれではなく、自分なりの理がある。
そういう男は、従わせにくい。
「皆が危ういと見るのも、分かるわ」
帰蝶は口元へ少しだけ皮肉な笑みを浮かべた。
だが、危ういからこそ、ただのうつけではない。
本当に底の浅い馬鹿なら、もっと簡単だ。
笑って終われる。
見下して済む。
周りも「困った若殿」で片づけられる。
吉法師は違う。
笑えない。
見下して終われない。
むしろ、どう扱うべきか分からぬからこそ、人は警戒する。
帰蝶はそこで、勘十郎のことも思い浮かべた。
弟の方は整っている。
礼があり、柔らかく、人を不安にさせない。
誰に対しても感じが良く、立ち居振る舞いも美しい。
家臣が安堵の視線を向けるのも当然だった。
勘十郎は好ましい。
それは本心だ。
悪くないどころか、かなり良い。
将として、家の者として、周りを落ち着かせる力がある。
少なくとも、そばにいて疲れる男ではない。
けれど。
「面白くはないのよね」
その一言が、帰蝶の本音だった。
勘十郎には整った良さがある。
だが、整っている者は、時に整いすぎて心に引っかからない。
見ていて安心はする。
けれど、目を離せなくなるような乱れはない。
その点、吉法師はどうだ。
厄介だ。
危ない。
人を振り回す。
だが、目を離せない。
何を言い出すか分からない。
何を見ているか分からない。
そして時々、周りの誰よりも先を見ているような顔をする。
帰蝶は、あの顔が少し気になっていた。
自分と話している時も、家臣と向き合っている時も、町の話をしている時も、ふっと今ここではない何かへ意識が伸びる瞬間がある。
まるで、城の中の理屈だけでは足りぬと最初から知っているような顔だ。
それが、妙に腹立たしく、妙に面白い。
「姫様」
侍女が控えめに声をかけた。
「お茶が冷めます」
「そうね」
帰蝶はようやく茶碗へ手を伸ばした。
ひと口飲んでから、また少し考える。
これはまだ恋ではない。
そんな甘いものではない。
そもそも帰蝶自身、今の自分を恋だの何だのと名づける気はまるでなかった。
だが、政略の相手として見るだけでも、もう足りない。
この婚姻がただの家同士の結びつきで終わるなら、それで済んだだろう。
けれど相手が吉法師である以上、それだけで収まりそうにない。
あの男は、こちらがただ「蝮の娘」として座っているだけでは、いずれ見向きもしなくなる気がした。
帰蝶は茶碗を置いた。
「次は、こちらから動くべきね」
侍女が少し首を傾げる。
「何か仰いましたか」
「いいえ」
帰蝶は小さく笑った。
吉法師は、人を試す。
こちらの言葉を聞き、その奥を見ようとする。
ならば、自分もそうすればよい。
もっと揺さぶる。
もっと踏み込む。
あの男がどこまで見て、どこまで本心を隠しているのか、自分の手で確かめる。
「うつけではないわね」
今度は、はっきりそう認めた。
そして認めたからこそ、次に会うのが少しだけ楽しみになっていた。
帰蝶は、障子の向こうの庭を見た。
尾張の城は静かだ。
だがその静けさの下で、兄弟の視線は割れ、家臣の心も揺れ、信秀の病は少しずつ城の芯を冷やしている。
その真ん中に立つ、変で、危うくて、目を離せない男。
「次は、もっと揺さぶってみましょうか」
誰にも聞こえぬほどの声で、帰蝶はそう言った。
その口元には、姫らしい柔らかな笑みではなく、少しだけ獲物を見つけた時のような光が浮かんでいた。




